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春風に 誘われ見上ぐ 夜の空 香に霞みて 朧月浮かぶ 1

暖かさと冷たさが交互に繰り返される春先の風が、牛車の簾をそっと揺らしていた

私は香包を胸元に抱き、牛車を降りると、弘徽殿へと足を運ぶ


弘徽殿は、右大臣家の権勢を象徴する場であり、紅葉賀で見かけた、弘徽殿女御の名を冠した由緒ある御所

その広やかな殿舎は、檜皮葺の屋根が月光を受けて淡く輝き、几帳や御簾が幾重にも垂れ、夜の風に揺れていた

庭には梅や桜が植えられ、春先の香りが仄かに漂う


「朧月夜様がお待ちで御座います」


侍女に導かれて中へと進む


几帳の向こうに佇むその人は、名に違わぬ艶やかさを纏っていた

月の光をそのまま衣にしたような、淡い黄金色の唐衣

肌は白磁のように滑らかで、瞳は夜の湖面のように静かに揺れている

その姿は、ただ美しいだけではない

どこか、春の夜空に霞む月のように掴みどころがなく、そして、誰よりも自分の意志で生きている…そんな雰囲気があった


「そなたが夕顔と申す方か」


朧月夜は扇を傾けながら、柔らかな声で言葉を紡ぐ

その声音は絹のように滑らかで、どこか探るような響きを含んでいた

私は息を呑む


「紫宸殿で、そなたの香の噂を耳にしたが…」


胸が高鳴った


あの紫宸殿での香が、朧月夜を…


私は静かに頭を下げる


「拙い香でございますが…」


「ふっ…遠慮は無用

それ以前に

そなたを一目、見てみたいと、かねてより思っておったのだ」


私は香炉に火を入れながら、顔をそっと朧月夜に向ける


「私を、ですか…」


その言葉に緊張が走る


前から私の事を…


「うむ


『月影に 香の煙の 立ちのぼる

そなたの姿 心惑わす』


この和歌の相手に興味があってな」


その言い方に手を止める


紅葉のお方が贈った…扇の和歌を把握しているのか

どう言う…


「私の弟、暁が、そなたのことを幾度となく口にするゆえ…」


え…


朧月夜の言葉に思わず息を呑み、動揺する


朧月夜に弟なんて…暁なんて…

源氏物語に…いない…

それって…


「暁と親しくされているようで…」


朧月夜は扇を傾けながら私を見つめる

穏やかな雰囲気は保っているが、その瞳は好奇の色と、それとはまた違う、思索の様な鋭い眼光


私は動揺を必死に抑えながら、香の煙を見つめ、なんとか緩やかに微笑んだ


「…暁様は誠実で、穏やかなお方です

香を通じて、静かに心を通わせてくださる方だと存じます」


朧月夜は目を細める


「ほう…

されど、そなたは源氏の君にも寵愛され、宮廷で香を焚いているよな」


私は慎重に言葉を選ぶ


「源氏様への恋慕の情や、私情などは一切ございません

私は香を焚く者として、ただ務めを果たしているのみです」


朧月夜は、しばし沈黙したのち、再び目を細める


「されど、香を焚く者が政を動かすこともある

源氏の君がそなたを推薦したのも…

香の才だけではないのでは?」


じっと、鋭い瞳

その圧力に負けないよう、毅然とした態度で、明瞭に応える


「源氏様は、私の香を評価してくださっただけにございます

私は香を調合するもの、宮廷に足を運んでいますが、香以外の知恵も知識もなく、政とは縁遠い人間でございます」


朧月夜は、しばし沈黙したのち、扇を静かに閉じる


「ふむ

そなたの言葉は淀みなく、礼を尽くしておられる

されど、どこか掴みどころがない」


私は懐から香包を取り出す


「これは、暁様より頂いた香木の欠片

名香『夢浮橋』の一部にございます

右大臣家に代々伝わるものと伺っております」


朧月夜は目を見開いた


「それを暁がそなたに…」


香木から視線が移り、目が合う


「そなたは、暁のこと…

慕っておるのか?」


私は少し苦笑いを浮かべる


「私は香を焚く者にすぎません

暁様に見合う身分ではないと、畏れ多く思っております」


朧月夜は私を見つめたまま静かに頷いた


「夕顔よ、香を焚いて見せよ」


「はい、承知しました」

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