燃ゆる火に 怯えし夜の 夢のあと 残るはひとつ 愛を乞ふ声 1
藤壺の御前で香を焚いたあの日から、他の殿舎からも声がかかるようになり、私は香の調合者として、静かに宮廷を行き来するようになった
几帳の向こうで女房たちが囁く声が聞こえる
「またあの方の香ね」
「心が澄むような…」
「名は何と仰るの?」
誰も私の素性を知らない
けれど、香だけが私の名を語っていた
私は余計な言葉を口にせず、ただ香を焚く
白檀に沈香、龍脳に丁子
季節の気配を添えて、空気を整える
香は語らずして伝えるもの
それがこの世界での私の居場所であり、一筋の生きる希望
女房たちの中には、親しげに話しかけてくる者もいた
「この香、まるで野辺に吹く初雁の風のよう…心が遠くへ運ばれるようですわ
あなた様が調えられたのですか?」
「藤壺様が、香をたいそうお気に召されて
どんな思いで焚かれたのか、少しだけ教えていただけませんか?」
「香の道に通じておられる方は、心も澄んでおられると聞きます
あなた様は、どちらからお越しで?」
「香が通ると、空気まで変わるのですね
まるで、夢の中にいるようで…」
「源氏様が、あなた様の香を“忘れがたし”と仰っておられました
あなた様の香は、人の心に残るのですね」
けれど私は距離を保った
微笑みだけでかわす
それが難しい時は、少しだけ言葉を返す
「秋の野の風に似ていると…それは香が、よい方々に触れたからでしょう
私はただ、調えただけです」
「香は、どこから来たかより、どこへ届くかが大切です
私のことは、香に聞いていただければ」
「香は、残るものです
けれど、それが誰の記憶に留まるかは…風の仕業かもしれません」
深入りすれば情が絡む
情が絡めば、嫉妬が生まれる
それは、橘の君と言う人物の存在で改めて痛感したし、六条の御息所の生霊はその最たるもの
その恐ろしさを、私は誰よりも知っている
香の煙が静かに消えたあと、部屋には一瞬の沈黙が落ちた
女房たちは几帳の向こうで囁き合いながら、私に向ける視線には、好奇の目を感じたが、同時に敬意が混じっているようにも感じた
香は語る
私の名も、素性も知らずとも、香が私をここに立たせている
それは総て、生き延びる為
ある日、二条院の香の間で香を焚いていると
源氏は漂う煙を追うように、目を細めた
「あなたの香は心をほどくようですね
まるで、閉じた扉をそっと開けるような」
私は香の道具を整えながら答えた
「香は鍵ではありません
扉を開けるのは内側からです」
源氏は微笑んだ
「では、あなたはその扉の前に立って、待っているのですか?」
その言葉に、私は手を止めた
その言い方…
口調も表情も柔らかい、けど…
「待つことは香の役目です
私はただ、調えるだけ」
私は視線を合わせず、道具箱の蓋を静かに閉じた
源氏は几帳の向こうに目をやりながら言葉を継ぐ
「あなたの香は私の夢にまで残ります
記憶に触れるようですね」
「夢は、香のせいではありません」
少しだけ彼の方を見た
源氏の瞳がわずかに揺れる
「君は、風のようだ」
彼はふと呟いた
「近づこうとすれば、すっと逃げてしまう
けれど、香だけは残していく」
「風は、留まることを望みません
香が残るなら、それで十分です」
瞬間、源氏は何かを言いかけて、言葉を飲み込んだよう
私は静かに一礼した
その時、女房の一人が几帳の向こうから現れる
「夕顔様、六条の御息所様がお目通りを望まれております」




