第六節.. ──後半
寒い。
たった一歩、禁書旧保管庫なる場所に踏み入っただけ。
それだけで、私の体から熱が滑り落ちていくようだった。
触れずともわかるほどに、冷えきった石壁で囲われた空間。
赤い霧は濃く、数少ない照明器具が何を照らしているのか、一目では判別できそうになかった。
それに、仄かに香る油臭さ。普段なら気にも止めないような臭いに、私は思わず咳き込んでしまう。
「大丈夫?」
「ぁ、はいっ。……だいじょうぶ、です」
鼻をすすり、口を手で押さえながらかけられた声に応える。
私に続いて保管庫に入ってくる女性スタッフの方や、男性スタッフ達は流石に淡々としている。
それぞれが手持ちのライトで辺りを照らし、変なところはないか、入念にチェックをし始めた。
「直近の入室記録は?」
「三か月前の清掃が最後です」
男性達の、囁くくらいの小さな声。
彼らは続けて、憤ったように小言を叩いていた。
息は白い。
魔法を見るように青みがかる視界に漂う赤い霧が、あまりにグロテスクで、私は後ろにいた女性に顔を逃す。
「……」
怖かったら、無理しなくてもいいんだよ。
そんな台詞を聞きたかった。
そうしたら、みんなで保管庫から出ようと言えたかもしれないから。
……だけど、そうはならない。
女性は不安そうな私の腰に、手を回す。
その意図は、
「早く終わらせよう」。
……私は、止められない歩に、勇気を持たせるしかなかった。
────
「 」
音の鳴り。
アナタは、どこで騒いでいるの。
本棚の塵臭さを手で拒み、朽ちかけの本を見上げては、これではないと目を逸らす。
私が次を見ると、女性が暗がりを晴らしてくれる。……これを何回したか。
もしかすると、ここから聞こえている音ではないのかも。何か変なことが起こっていれば、誰かしらがすぐに声を上げられる。
逆に何もないとわかれば──。
そう考えていた時だった。
(…… ……?)
私は、立ち止まる。
不思議そうに辺りを見回す私に、女性は「どうかしました?」と。
どうもこうもない。
音が、 止んだのだ。
私が、そのことを女性に伝えると、彼女は少し顔を顰めた後に「でしたら──」と続けた。
「一度、戻りましょうか」
女性は、後ろにいた男性達にも言う。
そして、「よろしい?」と私の手を引いた。
「──」
……冷えた手と手が重なって。
私は素直に、「はい」と答えた。
「守兵が来ます。待機しててもらいますか?」
「そうですね。……出来れば離れた場所で」
女性スタッフや男性スタッフ達の背中を追う。
よかった。
なにも起きずに済んで。
「──はぁ」
そう思ったら自然と肩の力が抜けて、私の足は軽やかに靴音を鳴らす。
──。
そんな音に、 混じった音 。
パタンと、 本を閉じたような音が、
後ろから聞こえた。
「──あ、……ぇ?」
さらには、
目の前に現れた 石の壁。
みんなの後ろ姿が消え、声が消え……
人がいた温もりさえも、なくなって……
私は、咄嗟に声を上げようとした。
壁を叩こうとした。
だけど、その私の叫びよりも先に、
こう 問いかけられた
【 アンタは いつの 天使だ 】
その声は、後ろから
本を閉じた音がした、後ろから
「てん……し?」
その声に、応える 私
不思議と、怖くなくて
まるで、知り合いに声をかけられたようで
ゆっくりとだけど
振り返ることに、なんの不安もなかった
【 ──やっと 取り戻しに 来たんだろ 】
なにが聞こえようとも
なにも疑うこともなく
【 アンタ達の 記憶 を── 】
こうやって
手を 取り合うように ──
【 返せる日を──
──心待ちに して いた 】
────
──
────
蒼
羽
私の 手を
包み込む
瞬間、
私は ── 夢から覚める。
前に伸ばしていた私の手が、蒼く輝く。
それは、羽根を伴い、花火のように弾け飛ぶ。
それはなんなのか、私は直感のままに叫ぶ。
「──、レイジィ!?」
私の手は、レイジィの手によって、なにか──本らしき物から遮られていた。
「呆けてないで……っ、離れろ、リノン!」
レイジィ?
なんで、レイジィがここにいる?
しかも──!
蒼く、そして赤い──爛れた肉のような色の光が、レイジィの手を貫いている……!
なんなのそれ
なにをされているの
「 ね、ぇ」
答えを聞いてる場合なのか
私は、この子を助けるべきなのではないのか
「レ ジィ。早く、手を離した方が」
「言われなくてもやってるから! だから、お前はっ!」
その時、私はレイジィに突き飛ばされそうになる寸前で、女性によって腕を引っ張られた。
それと同時に、守兵の人がレイジィを赤い光から引き剥がした──。
「リノンさん、──あなたも、大丈夫?!」
女性は私の手を摩り、なにもなさそうだと分かるとレイジィを見る。
……レイジィは、……。
「平気です。問題ありません……」
そう言って、背を向ける。
それ、平気じゃなかったんでしょ。
私はそんなレイジィに言う。
「レイジィ。ほら……手、見せて?」
「なんでもないって。姉ちゃんぶるなよ」
なんでもないわけがない。
レイジィの手を見ていた守兵が、女性に向かって小さく首を振るのだ。それが答えだ。
女性はすぐに、この禁書旧保管庫からの退室を命じた。
男性スタッフ達の急かす声。
レイジィは私だけでなく、誰に対しても「自分は大丈夫ですから」と強がりつつ歩いていく。
扉の先に、ミェルさんもいる。
大丈夫なはずがないと、彼女の顔が物語る。
私はもう一度、届くかわからない声でレイジィを呼ぶ。
あの子は、
余裕そうな表情を浮かべて、
守兵に、外へと連れられて行った。
私も女性と共に後を追うように、保管庫をあとにする。
そして、再び閉まる扉の音に紛れ、
私は 何度も ここで想う
──そこで
嘘をつかないでよ 。




