表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

星空の勲章

作者: 磊川 聖悟

 陽炎。炎天。微かな甲子園の香り。

 土の入った小瓶を見詰める。コルクの栓に封蝋がしてある。

「あなた! 何やってんの?

早く荷解(にほど)きしてよ。片付かないじゃない」

 定年で退職したのを切掛に、知合いも親戚もいない田舎に中古の一軒家を買って引越してきた。

 海の近く。潮の香りがする。二階からは、一面の海だ。

 今まで住んでいたマンションは賃貸にして、その収入と年金で何とか暮らしていけるだろう。それでも無理なら、俺が働きに出ればいい。いままで彼女を守ってきたんだ、最期まで守り通す覚悟だ。

 もし難しいようなら、息子に頼るしかないが、出来るだけそれはしたくない。息子には息子の人生がある。

「あなた!」

 俺から小瓶を取り上げて、テーブルに置く。

「感傷に浸るのは後にして、片付けないと箱の隙間で寝る事になるのよ」

 いつもテキパキと彼女は家事を(こな)す。普段は俺の出る幕などないのだけれど、今は必要とされている。……と思いたい。


 彼女は高校の先輩で、野球部のマネージャーで、少なくとも俺達後輩の憧れの人だった。地方予選で敗退して、その年に彼女は卒業した。高校の時は付き合っていた訳ではない。先輩後輩の仲というだけでしかなかった。。

 最後の部活の時、先輩たちは整列して、俺達後輩に頭を下げた。

「お前たちを甲子園に連れて行けなかった。申し訳ない」

 整列した先輩たちの端に立って彼女は泣いていた。

 申し訳ないのは俺達だった。

 俺達は各々バラバラに頭を下げ、統制などとれていない、情けない有様だった。

「もっと俺達がしっかりしていれば……」

     「俺が打てていれば……」  「先輩は何も悪くないッス」

   「俺達こそ……」「俺達こそ……」

 俺達も悔しかったけど、先輩は何十倍も悔しかったはずだ。

 先輩たちに来年はない。

「俺達は、お前たちを責めたりはしない。今の気持ちをバネにして、次こそ甲子園に行ってくれ」

 キャプテンの言葉に「押忍!」と皆で応えた。

 汗まみれで、泥だらけで、涙と鼻水の青春の一幕だ。


 思い出して、思わずニヤリとしてしまった。

「なに笑ってんの? 早く片付けて!」

 見られてしまった。

 箱を開けては中を確かめ、キッチン、リビング、リビングの奥の部屋、それぞれに運ぶ。

 面白い家で、二階にリビングとキッチンがある。二階から海が良く見えるからだ。

 逆に一階が寝室と浴室だ。

 つまり引越し屋さんは、寝室に荷物を積み上げて帰って行ったという事。

 あまりにも遠くへ引越したものだから、前に住んでいた所から引越し屋さんを送り出して、先回りして新居で引越し屋さんを迎える事ができなかった訳だ。

 引越し屋さんに鍵を渡して、置いていってもらったのだけれど、そうすると荷物を各部屋に運ぶのは自分たちの仕事になると考えが及ばなかった。失敗だ。

 山積みの箱の中には、思い出が納められてもいる。

「おい」

 彼女が指輪の入った小さな箱を開けて魅入っている。思わず声が出た。

「ごめん」

 彼女の照れ笑いに、俺は呆れ顔で応える。

 彼女が近付いて来て、俺に箱を差し出した。

 小さなアクアマリンが付いている細い指輪。

「……これ」

「あ」


 社会人になってから、俺は偶然、彼女に再会した。

 上司に連れられて打合せで訪れた企業の担当者が彼女だった。

 彼女は俺を見て笑顔。思い出が蘇る。

「お久しぶりです」

 咄嗟に最敬礼で頭を下げた。俺の隣で上司は驚いた顔で固まっていた。

 それから仕事で会うたびに距離が縮まり、気が付けば付き合っていると言っても可笑しくないほどに、一緒に食事へ行ったり、音楽を聴きに行ったり……。そうしているうちに二人で日帰り旅行に行くようにもなった。

「星を観に行こうよ」と彼女を誘って、彼女とデートするために購入した中古の安い小さなスポーツカーで夜中に出掛けた。

 流星群が来ている。放射点が東の方位だと情報を得て、俺は小さな車に彼女を乗せて、千葉の九十九里浜を目指した。

 首都高を抜けて、京葉道路に向かう。仕事を終えてからの出発だったので、彼女はシートで寝息を立てていた。疲れていたのだろう。

 東金道路に入ると辺りは暗闇で圧倒される。外灯が全くなかった。

 ハイビームにする。対向車はいない。伴走車さえいない。俺の車だけ。

 常夜の中を俺の車が照らす範囲だけ、道路と朧に木々が存在しているようにも感じられる。世界は彼女と俺と俺の車と道路だけのように思えてくる。そして時間感覚が喪失していく。

「うわ。(こわ)

 彼女が目を覚まし声を上げた。

「何これ。異世界?」

 思わず笑ってしまった俺をよそに、彼女はトワイライト・ゾーンのテーマ曲を口ずさんでいた。

「やめてよ。恐いよ」俺。

「ライト消してみて」

「駄目だよ。危ない」

「大丈夫だよ。道路、真っ直ぐじゃん」

 俺がスイッチを捻ってライトを消す。

「点けて! 点けて!」

 またスイッチを捻る。

「何やってんの〜 危ないじゃん」

「そっちが消せって言ったんだろ」

「まったく……、女の子を危険な目に合わせるなんて……。日本男児に有るまじき♫」

 そして二人で笑う。

 その時、空に一本の緩やかな曲線が光で描かれる。

「あ」

 彼女の声。沈黙。

 そしてまた……。少し細い線。

 俺は直ぐに高速を下りて、暗闇の真ん中で車を停めて、ライトを消す。

 ゆっくりと星々が姿を現し始める。

 また一つ光が流れる。

 天空に動かない雲が見える。

 また流れ、そしてまた流れる。

「始まったね」と彼女。

 流星群が地球を包み始めたのだ。

 音もなく流れる光の線に、心が躍る。

 思い出すように夜空を光が駆ける。

 世界各地で無数の流星が無言で地球を(かす)めて遠ざかる。

「素敵♡」

 彼女の言葉も俺はうわの空。ポケットから小さな箱を取り出して、右手で握り締める。

 物凄い動悸。口から心臓が出そうだ。

 彼女は高校の時から学校では一番人気。他校から男子が見に来ることもあった。野球部の練習試合では、試合が終わると試合相手の選手から必ずと言って良いほど彼女は話し掛けられていた。ラブレターの類は引っ切り無しだったようで、あまりにも多いので、全く読まなかったと彼女から聞いた。読むと心が痛むのだそうだ。モテない人間には意味が分からない。

 俺が彼女と仲良くなれたのは、運が良かったに過ぎないと思う。彼女が考えている俺との距離感を崩すような行ないをすれば、この関係は終わってしまうかもしれない。

 箱を握った手の平が汗ばむ。

「わ」と彼女。

 流れた光が明るく輝き、夜空を明るくする。

 俺は彼女の隣に(ひざまず)き、箱を開けて、彼女へ差し出した。

 光が流れ去ると、後は暗闇。何も見えなかった。

 俺は緊張で言葉が出ない。

 静寂。

「つ……」

 いま言わなければ、何も始まらない。

「つ……」

 言ってしまえば、何もかも終わるかもしれない。

 声が震え、泣きそうだ。

「つき合って下さい」

「どこに?」

 意味が通じていない。

 暗闇は俺の姿を隠して、意味不明な呼び掛けになってしまっている。

「どこに居るの?」

 湿気で曇った窓ガラスを指でなぞるように、神が夜空に線を描く。素早く迷いの無い線。

 それがひときわ輝く火球となった。

 地上が神の御業で照らされる。

 彼女の側に跪く俺に、彼女の視線が注がれる。

 真剣な俺と、驚いた顔の彼女の周りを、火球に照らされた影が(またた)くように素早く巡る。

 そして暗闇。

 俺の頸に彼女の腕が巻き付いて……。

「あたしたち、付き合ってたんじゃないの?」

 また神が夜空に細い線を描いた。


 あの頃は付き合うのも許しを得てから行なうものと思い込んでいた。

 彼女のご両親にも許可をいただかなければと考えてもいた。

 我ながらなかなかの堅物だと思う。

 跪いて指輪を差し出すのはプロポーズの時だけだと知ったのは結婚した後の事だった。

 その思い出の指輪が、小さなアクアマリンの細いプラチナの指輪。当時の俺には勇気が必要な買い物だった。お金を払う時に、様々な意味で覚悟を求められた。人生で初めて「清水(きよみず)の舞台から飛び降りるつもりで……」と心の中で唱えた。清水の御利益があったのかもしれない。交際は清らかな文芸小説のような恋愛の見本……だったようにも思う。ちょっと違うところもあったけれど、それはそれで良い思い出になっている。

 結婚式には高校の野球部の皆を呼んだ。先輩も含め殆どのメンバーが出席してくれた。出席できない人からは丁寧な詫び状をいただいた。その手紙の中にこう書かれていた。

「いまでも甲子園に行ったことは僕の大切な思い出です。

それは先輩のおかげです。ありがとうございます」

 感謝するのは俺の方だ。

 あの時のメンバーの誰一人欠けても、俺達は甲子園に行けなかった。

 俺の投げる球は県内で一番速かったし、制球にも自信があった。変化球の種類も俺が一番多かった。それでも、それだけでは、負けなかったとしても、勝てない。

 打ち、走り、ホームを奪って勝つのが野球だ。

 それを皆がやってくれた。

 試合では、いつも泥だらけになり、怪我をして血が出ていても、日焼けした顔で真っ白い歯を見せながら笑顔で「平気ッス」と言ってくれた同級生や後輩達。黙々と傷の手当てや、飲み物の用意をしてくれたマネージャー達。

 感謝をしなければいけないのは俺の方だと思う。

 披露宴の後の二次会で、野球部全員に感謝状を贈った。彼女の発案だ。

 先輩への「ベストキャプテン賞」を皮切りに、全員に賞を贈ったのだ。

 マネージャーだった彼女には、感謝すべき出来事や、一人一人の悩みながら頑張った瞬間、褒めるべきポイントなど、エピソードに事欠くことはなかった。もちろん彼女の後を引き継いだマネージャー陣の協力があった事は言うまでもない。

 笑いを交えて、ドレス姿の彼女が、エピソードを紹介し、小さな賞状を渡してゆく。俺は隣で渡す賞状の準備などの補佐役。一所懸命である。

 お世話になった監督に彼女が「偉大なる監督賞」を贈ったところで、俺がマイクの前に立った。

「次はベストバディ賞」

 一呼吸おいて……。

「前へ来てくれ」

 それだけで、彼奴(あいつ)には分かった。

 照れくさそうに前へ出てくれたのは、三年間ずっと俺の球を受けてくれた相棒だ。

 酒が入っている所為か、ニヤけているが、俺と目が合うと……。

「よ」

 俺は頭を下げた。


「おい! 手を見せろ」

 フェイスマスクを取りながら、近付いて来る。

 彼奴は球を受けながら、俺の僅かな変化に気が付く。

「怪我してるのか?」

「昨日、爪切りで……ちょっと」と俺。

「バカ野郎。爪ヤスリを使え」

「あま皮、切ろうとしてさ」

「怪我する方がリスクだろ!」

 真剣に怒られて、恐縮する。

「今日は投げるな」

「大丈夫だよ」

「制球が少し乱れてる。変な癖がつくと、困るのはお前だけじゃないぞ!」

 少々怒気を強める。ベンチに向って大きな声で言う。

「監督! 今日は下半身を鍛えます」

「おう」

 監督は彼奴の事を信頼していて、彼奴の判断には文句を言わなかった。

「一年! 救急箱、持って来てくれ」

 一年生の部員がベンチから救急箱を持って走って来る。

 彼奴が絆創膏の端にハサミを入れて、絆創膏を俺の指に絡みつけるように巻いていく。練習中は汗をかくので、絆創膏など直ぐに外れてしまうのだけれど、彼奴の巻き方は外れ難かった。

 救急箱を持って来させたので、監督も心配したのか、ベンチから出てきた。

「大丈夫か?」

「大丈夫です」

 彼奴が応えた。

「監督、念の為です。

動かして血が出るといけないので、今日明日はスクワットで下半身を鍛えます」

「分かった」

 彼奴と二人でスクワット。

「下ろす時はゆっくりな。下ろし切るなよ。

上げる時も膝に負担かけないように上げろ」

 結構、口煩い。

 下ろしきらず、ゆっくり上げる。見た目には激しい運動ではない。しかし、これがキツい。太腿と脹脛(ふくらはぎ)にくる。しかも手は前に真っ直ぐ伸ばす。二の腕が震える。

「なぁ、今度の練習試合、四番とは真っ向勝負させて欲しいんだけど……」と俺。声も震える。

「ストレートでか」

「駄目か?」

「監督とも相談するけど、今度の試合はストレートとカーブだけでいく」

 今度の相手は県大会でも必ずぶつかる強敵だ。手の内の全てを見せる事は出来ない。

「ツーアウトまでは俺の指示通り投げろ。後は好きにしてイイ」

「サンキュー」

「それと、内角低めは狙うな」

「得意なのか内角低め」

「逆だ。奴は内角低めが打てない。データだと全てファールだ」

「それなら、どうして狙っちゃいけないんだよ」

「俺らが気付いてないと思わせるんだ。本当に勝つのは県大会でイイ」

 相棒は頭が良い。

 練習試合では真っ向勝負の直球を見事に打たれ、相手に花を持たせたけれど、それは県大会で返してもらう。


 俺らが仕込んだ県大会への布石は見事な結果となった。

 練習試合では外角にカーブを投げさせられた。それも緩めのカーブ。後半は見透かされたように打たれた。相手は俺らが格下だと思ったに違いない。それが相棒の狙いだった。

 県大会でも勝てるチームには外角へカーブを投げさせられた。但し全力のカーブだったけれど……。

 殆どの人は俺らの勝負球が外角へのカーブだと思ったはずだ。

 県大会では基本的にストレート、カーブ、シュートの三つの球種しか使うなと申し渡されていた。もちろん危なくなれば持ち球すべてを使って勝ちにいくつもりではいた。

 練習試合の相手とは決勝で当たった。

 俺らは最初から四番打者の内角へシュートを放り込んで、面白いように三振をとっていた。

 他の選手についてもデータが(そろ)っている。弱いところへシュートで決めさせてもらっていた。

「おい。そろそろ対応してくるぞ」

 監督の言葉に彼奴は大きく頷いた。

「肩、大丈夫か?」

 相棒が訊く。

「全然、余裕だ」

「良し!」

 そこからは直球勝負だった。

 俺の本気の直球を打てる奴はそういない。但し本気の直球では一試合投げられないのが欠点ではある。

 あと一巡で試合終了だ。何とか肩は保つだろう。但し、四番に俺の直球は通用しない。

 マウンドに彼奴が走って来る。

「分かってるな。真っ向勝負はするなよ」

 分かっている。練習試合で打たれているのだから……。

 一球目は外角へのカーブ。練習試合で見せた緩いやつじゃない。気合の籠ったカーブが打者から逃げるように緩やかに落ちる。想定外だったようで振り遅れて1ストライク。

 二球目は彼奴の指示で内角高めへ外れ球を投げてボール。

 三球目はド真ん中へいくと見せかけて、内角低めシュート。

 打たれた。

 打球は一塁ベースを逸れて飛んでいく。ファールだ。2ストライク。

 四球目は外角高めへカーブを投げた。2ボール。

 五球目は三球目と同じド真ん中コースへ投げた。

 振り出されたバットは、叩き落とすように内角低めへと狙いを合わせている。タイミングも合っていたが、ボールはバットに掠りもしなかった。

 俺はシュートと同じ速さのストレートを投げていた。


 県大会で優勝して一番喜んでくれたのは先輩達だった。

「良くやった」

 涙声で先輩達は繰り返した。

 俺はその時、嫌な予感に囚われて、優勝の喜びは作り笑いで受け流していた。

「肘、大丈夫そうか」

 祝勝会の後で相棒が声を掛けてきた。周りには誰もいない。

「気が付いていたのか」

「俺はお前の正捕手だ。それくらい分かるさ。甲子園、大丈夫そうか」

「大丈夫だ。心配すんな」

「スライダーは封印しろよ」

 俺の本当の勝負球は高速スライダー。

 先輩達を甲子園につれて行けなかった後で、特訓して身に付けた技だ。

 しかし、スライダーは肘を傷める。特に俺とは相性が悪い球種だった。

 特訓を始めて数ヶ月後には肘に違和感を覚えるようになっていた。

 それでも甲子園での優勝は夢だ。

 代償に腕を一本差し出せと言われれば、答えは決まっている。


 炎天下。土の香り。汗の匂い。

 応援の声援と楽器の音。

 悦びと哀しみの甲子園だ。

 第三試合。

 肘はもう痛みを感じていた。

 相手は優勝候補。全員が四番打者並みの強打者揃いだった。

 恐怖を感じる。

 俺の球が通じるのか。

 彼奴はいつもと同じ冷静さで俺にサインを出す。

 有り難かった。

 もう第二試合から決め球のスライダーを投げざるを得ない状態になっていた。

 彼奴は自分からスライダーのサインは出さなかった。俺は恐れから、高速スライダーに頼っていて、特に大事な場面では彼奴がスライダーのサインを出すまで頸を縦に振らなかった。

 同点で迎えた七回。俺は打者ごとに必ず一球はスライダーを投げるようになっていた。

 相手の四番打者に外角の低めへ高速スライダーを投げた時に、肘に起こった感触を今でも忘れる事が出来ない。

 ピシッと音が鳴るような感触がしたかと思った次の瞬間、激しい痛みを感じてグローブで肘を庇った。

 彼奴が審判にタイムを宣言して、走って来る。

「どうした」

「やっちまったみたいだ」

 その瞬間の彼奴の泣き出しそうに歪んだ表情。彼奴はそれを瞬時に打ち消して、ベンチを向いて手を上げると、監督が小走りに出てきた。

「どうした」

 監督も彼奴と同じ口調で同じ言葉を口にした。

「監督。ピッチャー交代、お願いします」

「もう無理か?」

 俺は頸を縦に振らざるを得なかった。

 もうマウンドからホームに届くボールを投げるどころか、ボールを握るのも辛い。

「良くここまで頑張ってくれた」

「監督。俺も交代させて下さい。

あいつ等にも甲子園を経験させてやりたいです」

「分かった。次につながる経験をさせよう」

「ありがとうございます」

 ブルペンから一年の控え投手が呼ばれ、ボールを渡された。

 緊張で引きつった顔の一年に、俺は頭を下げた。

「ごめん。後始末を頼む」

「はい」

 俺がゆっくりマウンドを降りると彼奴は俺のグローブを持って、何も言わず着いてきた。

 ベンチでは、みんな泣いていた。

「ありがとう」「ありがとうございます」

 みんなの言葉に俺は「みんな、ごめん」とだけ応えた。

 マネージャーが用意してくれた氷で肩と肘を冷やして、そのまま病院へ向かった。

 彼奴は「俺に謝ったりするなよ」と言ったまま何も言わずに病院まで着いてきてくれた。

 待合室で診察を待っている間、彼奴は俺に言った。

「ごめん。お前の肘を壊したのは俺だ」

「それは違うぜ。お前は良くやってくれたよ」

「俺はスライダーが肘を壊すって知ってた。知っててお前にスライダーを投げさせたんだ」

「俺だって知ってたよ。知ってて投げたんだ。

それにスライダーを投げるのを求めたのは俺だ。気にするな」

 彼奴はプロテクターを着けたまま、汚れたグローブとマスクを掴んだまま、俯いていた。

 待合室では他の患者さん達が興味があるように俺らを見ていたけど、無関心を装ってくれていた。

「終わったな」

 沈黙に耐えかねたように俺が口を開いた。

「終わったな」

 彼奴が応えた。

 俺らは出来ることを全部やった。俺らは俺の肘を壊すほど頑張らなければ、甲子園に来る事ができなかったのだと思う。それが良い事だとは思わないけれど、俺達の実力で甲子園で勝ち抜くのは難しい。

 心の中で小さな泡が弾けたように感じる。

 待合室は多くの人で賑やかだったのに、俺は静けさに似た感情に包まれていた。


 小さなアクアマリンは、さすがに表面が劣化して昔ほど美しくない。それでも思い出の指輪だ。

 指輪をじっくりと眺める。

 あの時、俺の後を引き継いだ1年は九回まで乗り切り、延長十回まで頑張ってくれたけど、相手に一点を奪われたのを引っくり返す事が出来ずに敗退した。

 俺らが旅館に戻ると、泣きながら詫びる一年に俺も彼奴も礼を言った。

「負けたのは残念だけど、恥ずかしくない負け方だ。お前のお陰だよ。胸を張ってくれ」

 俺が思ったより元気だったと思ったのか、チームのムードメイカーの一人が雰囲気を和らげて、俺を褒めたり、一年を褒めたり、ファインプレーのメンバーを褒め合った。

 その和んだ雰囲気の中でビニール袋に納められた土を貰った。甲子園の土だ。

 聞けば全員が泣きながらベンチ前の土を集めたとのこと。

 俺はそういうのが苦手だから、肘が壊れた事で助けられたようにも感じていた。

 驚いたのは家に帰ると親父が見たこともないほどに顔面が泣き崩れていて、お袋は俺が好きな料理を大量に作っていたこと。

「こんなに食べ切れないよ」と言うと「いいから、いいから」とお袋。親父も「いいから、いいから」と、眼差しも優しげで変な感じ。

 親父は俺の持ち帰った土を小瓶に分けて、コルクの栓をすると封蝋で封印した。

 一つは俺に渡し、後は親戚に配ったようだ。

 俺の人生最大の出来事は、多くの人を巻き込んで、多くの人にそれぞれの思いを抱かせた。殆どは「良く頑張った」と褒めてくれたけど、中には「もっと頑張れなかったのか?」と残念がる人もいた。俺は何も言い訳はしなかった。礼を言うべき人には礼を言い、詫びを言うべき人には詫びを言った。

 それでも俺達全員の胸の中には「ベストを尽くした」との共通の思いがあった。それは他の人に理解してもらう必要のないものだ。俺達だけが知っていれば良い。


「ほとんど片付いたわね」

 日が暮れ始めた頃、どうにか荷物の隙間で寝なくて良い状態になった。

 俺は瓶専用の引越用簡易収納ボックスに納められたウイスキーやブランデーを座り込んだままキャビネットに仕舞っていた。

「晩ごはん、お寿司でいい?」

「いいよ」

 ウイスキーは白州が数本。あとはグレンフィディック。愛飲しているのは、この二種類。他は引越す前に売るか、飲みかけの物は泣く泣く流しに流した。ブランデーはカルヴァドスが殆ど。ブラーカルヴァドスを愛飲している。

 白州は趣味として凝っていた時期があり、様々な種類の白州を飲んでいた。レギュラーの白州以外ではへヴィリーピーテッド、バーボンバレルなど。特にバーボンバレルは二度しか売り出された事がなく、今は入手困難だ。俺が持っているバーボンバレルも瓶の底に指一本分残っているだけで、飲み惜しんで残っているだけだ。

 俺は味覚が鈍感で、ただ飲んだだけでは味の見分けがつかないけれど、レギュラーの白州とへヴィリーピーテッドとバーボンバレルをショットグラスに注いで、チェサーで舌を休めながら飲み比べると、鈍い俺でも味の違いが分かった。特に気に入ったのはバーボンバレルで、白州の向こうに、バーボン特有の豊かな雑味が感じられ、それが俺の舌先を喜ばせている事がはっきりと分かった。白州バーボンバレルは最高のウイスキーの一本だと思う。

 白州シェリーカスクも手に入れたかったけれど、ほぼ五千円で売り出された瞬間に三十万円まで値が高騰する投資対象になってしまって、買う気が失せたのを切掛けに白州への興味も失ってしまった。

 レギュラーの白州もバーボンバレルも、飲み惜しんでいるうちに、十数年が経ってしまっている。瓶が薄汚れ、微かに埃が乗っている。なぜか申し訳ない気持ちになる。

 酒は悪友のように離れ難い。

 久しく連絡を欠いた友への言い訳に誤魔化しの言葉は使えない。

 ウイスキーを流しに流すなど、裏切りに等しい行ないでもある。心が痛む。

「はい。青春の勲章」

 彼女がキャビネットの上に、土の入った小瓶を置いていく。

 あれから何の役にも立たず、時折邪険にもして、粗末に扱うこともあったけれど、捨てるに捨てられず、ウイスキーほどにも俺を楽しませることが無いのに、ウイスキー以上に離れ難い、俺の親友なのかもしれない小瓶。

 手に取った小瓶とバーボンバレルとを見比べ、面白いことに気が付く。バーボンバレルは薄汚れたウイスキー瓶なのに、土の入った小瓶は綺麗だった。

……彼女が汚れを落としてくれたのか?

 否、結婚して此の方、小瓶が汚れていたのを見たことがない。

 俺は小瓶を持ったまま急いで立ち上がり二階へ。

 リビングの広い窓から、海に陽が沈むのが見える。

 横一線に茜色が広がる。水平線の輝き。上空から気が付かないほど、ゆっくりと降りてくる夜。

 リビングには彼女。俺を見る。

「近所のお寿司屋さんに出前、頼んじゃった♡」

 夜と夕のグラデーション。

 逆光の中の影だけの彼女。夕陽が彼女の輪郭を(なぞ)る。

 地平線の向こうに去っていこうとする夕陽を見送るように宵の明星が輝いていた。

 そして星空が彼女を飾るように輝き始める。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
 時間を経ても熱の失われていない青春の記憶と、最後に気付く今の幸福。素敵ですね。  文章もテンポ良く読みやすかったです。特に県大会での四番打者との勝負の場面は、淡々とした描写ながら緊張感がありました。…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ