第9話
政権を投げ出した若槻は、同じ政友会の犬養毅に事後を託した。
この選択は、後世史観で見ると最悪の結果を生んだ。
犬養は、英仏そして南部中国政府を承認したアメリカとの対立を恐れる軍部の猛反対を押し切り北部政権への援助を拡大した。
その直後に犬養は、対中援助拡大の反動で予算を削減されたことを恨む海軍青年将校の凶弾に倒れた。(五・一五事件)
前の欧州大戦の記憶がまだ鮮明に持っている日本国民は「大陸」「軍事介入」二つの言葉に拒否反応を示し、次の選挙で民政党を選ぶと、山梨勝之進が首班指名を受けたのであった。
山梨は、国際協調派の海軍提督であり、第一次世界大戦では北海で、戦艦の艦長としてドイツ海軍との激戦を生き残り、艦長の座を降りた後は、外務将校として、ロンドン・ワシントン両軍縮会議に参加し、海軍の纏め役を務めていた。
山梨政権が誕生した翌年の1933年、国際社会に復帰したソ連の仲介で、中国南北政権はモスクワで停戦条約を結んだ。
停戦条約を結んだ両政権であったが、お互いが歩み寄ることはなく、南部政権は米英仏から戦車や戦闘機を、北部政権はソ連とドイツから武器を買い漁り、軍拡に狂奔していた。
世界大恐慌に喘いでいた欧州各国は、喜んで両政権に武器を売った。
その間、日本の山梨政権は不干渉政策を貫き、南北中国が1937年に再び戦火を交えた時も即時停戦を訴えた。
山梨はアメリカにも同調を求めたが、既にこの頃、フランク・D・ルーズベルトは南部中国支持を鮮明にしていた。
彼はアメリカの余剰生産力を満たし、雇用を産む海外市場を欲していた。
合衆国政府ドイツの軍備拡大に対抗せざるを得なくなった英仏が南部中国への軍事支援を絞り始めたのを好機と捉え、対中武器輸出を解禁した。
この武器輸出が英仏と違う点は、南部中国へ売却する武器の中に艦艇が含まれていたことだった。
(英仏政府も旧式艦艇の売却を考えていたが、日本をこれ以上刺激したくなかった両国海軍軍人達から猛反対を受け、断念していた)
ルーズベルトは将来の統一民主中国が、日本を牽制するに足る海軍を持つことを望んでいたのだ。
実際に売却されたのは数隻の旧式駆逐艦と小型巡洋艦であったが、これがどれだけ日本を刺激したかは想像に難くなかった。
日本国民の反米感情の高まりと、それを煽る新聞各社への対応に追われていた山梨政権に追討ちをかける出来事が起きる。
二・二六事件である。
政治的主導権を握っていた海軍から、政権を奪取しようと画策した陸軍青年将校たちは、雪の降る東京で一斉に決起した。
彼らの狙いは、現首相である山梨勝之進と、国務大臣たちの暗殺であった。
彼らは首相官邸の襲撃と、時を同一にラジオ局を占拠すると、自らの正当性をラジオを通して、国民に訴えたのであった。
そして本来なら、即時鎮圧に当たるべきだった陸軍上層部は、彼らを迎合する動きを見せたのであった。
この陸軍の動きに、激怒したのが他でもない、大元帥陛下であった。
当時軍令部総長を務めていた伏見宮博恭王海軍大将に連絡をつけると、叛乱軍の即時鎮圧を命じたのであった。
これを受け、伏見宮は横須賀鎮守府司令官の古賀峯一に連絡を取ると、横須賀鎮守府第一陸戦旅団による叛乱軍鎮圧と、第一艦隊の東京湾への進出を命じた。
更に木更津に開設されたばかりの、木更津航空隊に対し、叛乱軍に対し、即時降伏を命じる便覧散布を下令した。
横須賀から、駆逐隊により東京に上陸した陸戦旅団は、各所で叛乱軍を制圧しながら、進撃すると、叛乱軍は三宅坂にある陸軍省に立て篭り、徹底抗戦の構えを見せた。
この動きに、海軍は説得を諦めると、東京湾に布陣した第一艦隊 第一戦隊(長門 陸奥 加賀 土佐)に対し、陸軍省庁舎への艦砲射撃を命じた。
(無論周辺住民は、陸戦隊員と警視庁警察官による避難誘導が行われている)
この結果、叛乱軍は、彼らを迎合した陸軍上層部共々、第一戦隊による艦砲射撃で陸軍省庁舎ごと吹き飛ばされた。
この事件を受け、陸軍は早急に組織の立て直しを図らなくなり、欧米出張に出ていた永田鉄山を呼び戻すと、永田を先頭に組織再編を行った。
叛乱に加担した人間の殆どが艦砲射撃で吹き飛ばされたため、裁かれるべき人間が皆無であったが、国民だけでなく、諸外国からの目を気にした上層部の尽くが自らの首を差し出し、責任を負う形をとった。