第8話
世界恐慌後、アメリカ国内における反日・排日感情は悪化の一途を辿っていた。
不況による経済の冷え込みが著しいアメリカを差し置いて、経済活動を活発化させている日本の存在は、アジア人蔑視を持つアメリカ人からすれば目障りなことこの上なかった。
そしてこれは、両国政府間の軋轢にも発展しつつあった。
元々アメリカ政府は、日露戦争で判定勝利を得て、中国大陸進出の足掛かりを得た日本を将来の敵として見据えていた。
明治維新後、中国市場への進出が遅れていた日本は日清・日露戦争を経て、朝鮮半島を手に入れ、ロシア帝国から鉄道利権を獲得して中国北部に足掛かりを得た。
辛亥革命で中国の清王朝が倒れた1911年に、日本はイギリス、ロシアに共同で中国北部の満州地方を、混乱の度を深める中国から分離し、清朝王族を元首として独立国家を樹立する構想へと加わることを持ちかけた。
翌1912年、英仏が資金を出し、ロシアが声援を送り、日本が血を流した独立戦争を経て、愛新覚羅善耆を国主とする満州王国が誕生した。
清王朝時代から立憲君主制を目指していた善耆はイギリスから銀行団と政治顧問を、ロシアからは技師を、そして日本から軍事顧問を招いてイギリス型の国家作りに着手する。
この新たな王制国家の誕生に、共和主義のアメリカ大統領ウィリアム・タフトは激しく抗議した。
だが当時は、軍事力とその展開力が、そのまま外交力となった時代である。
満足な派兵能力を持たないアメリカの抗議は虚しく響いただけだった。
サラエボで銃声が響き、欧州と日本の戦力が西部戦線と北海に集中していた時こそ、アメリカが中国に進出するチャンスだった。
だが戦争特需に浮かれるアメリカ人の関心は、この戦争がいつまで続き、そしてアメリカがどちらの陣営でいつ参戦するかに集中していた。
そして西部戦線の激戦で国力と兵力の限界に達した日本政府はアメリカへ参戦と引換えに、占領した山東半島にドイツが持っていた利権を一〇億ドルで譲渡すると持ちかけてきた。
最終的にウィルソン大統領の背後にいた銀行団が、この一〇億ドルを負担することにより、アメリカの懐が少しも痛まないことが、ウィルソンに参戦を促した。
そして1920年のワシントン国際会議で、参加国は未だに千々に乱れている中国についても議論された。
世界史上初めて中国の枠組みが地図上で決定され、参加国は孫文の後継者である蒋介石率いる国民党政権を正統な中国政権と見なし、援助することを確認し合った。
そして1929年、大日本帝国から大量のトラックの供給と軍事支援を得た蒋介石は北伐の完了宣言を出すと、中国大陸の統一を果たしたのであった。
中国大陸統一を果たした蒋介石は、ワシントン条約に則り、中国国内にある欧州各国が持つ利権の返還を強く求めた。
これを受け、英仏両国は蒋介石に対し不信感を顕にした。
そして1932年、政治的立場の違いから蒋介石の元から離れていた汪兆銘が、華南軍閥残党と共に南京で決起すると、自らを正当なる中国政府であると宣言し、中国北部地域への侵攻を開始した。
日本は、当時久しぶりに政友会が政権を担っており、総理大臣であった若槻礼次郎は、汪兆銘の背後に英仏がいるのを察知していた軍部の反対を押し切り、蒋介石の北部中国政府をワシントン条約に則り支援することを表明した。
この直後、英仏米が汪兆銘の南部中国政府を正統なる中国政府として、支援を開始した。
この欧米の動きに、若槻は「欧州政治は複雑怪奇」と言葉を残し、政権を投げた。
後任となった同じく政友会の犬養毅は、中国との個人的友誼から北部中国政府への全面支援を開始した。
後に中国南北紛争と呼ばれる動乱の始まりであり、日本と欧米各国との対立が表面化した瞬間であった。