第6話
ワシントン海軍軍縮条約により、主力艦艇の保有に制限をかけられた日本は、補助艦艇の増強を目指した。
その結果、1928年に吹雪型駆逐艦、所謂特型駆逐艦を就役させた。
この特型駆逐艦の存在は、世界の海軍軍人に衝撃を与えた。
「重雷装駆逐艦」───各国が特型駆逐艦に付けた渾名と通り、その性能は今までの駆逐艦とは隔絶した物であった。
しかし日本海軍は、他国が同じ様な駆逐艦や対抗艦を建造することを恐れ、予定通り吹雪型駆逐艦を24隻建造すると、それ以上の駆逐艦建造を取り止めた。
更に補助艦艇の保有制限を設けるロンドン海軍軍縮条約が1930年に締結されたことにより、1936年に失効するまで、新造艦建造計画は軒並み凍結された。
ここから各国海軍は、本格的な海軍休日に移行していった。
この年、日本海軍は新たな組織を設立した。
それは第一次世界大戦で帝国海軍が初めて経験した対潜水艦戦に端を発し、周辺を海に囲まれ、資源の殆どを海外からの輸入に頼っている日本の通商航路を守り、また難破した船舶の救助から不審船に対する臨検まで行う組織を設立した。
その組織が「海上護衛総隊」であった。
元々第一次世界大戦において、帝国海軍は自国の輸送船だけでなく、連合軍の輸送船に対する護衛も担っていた。
特にインド洋にまで、進出していたUボートを相手に海軍駆逐隊は文字通り、自らの血を持って対潜水艦戦術を学んでいた。
当時インド洋で、駆逐艦長としてUボートと死闘を繰り広げた堀悌吉は、この経験から戦後に「海上護衛論」という論文を出すと、通商航路を守り、尚且つ自らも通商破壊戦を行うための専門部隊の設立を強く海軍に訴えた。
しかし当時の日本海軍は、日露戦争での日本海海戦や第一次世界大戦におけるユトランド沖海戦での経験から、艦隊決戦主義が蔓延しており、堀の言葉に上層部は耳を貸さなかった。
しかしそんな堀を後押しする人物がいた。
それが伏見宮博恭王海軍大将であった。
彼自身、第一次世界大戦において第三特務艦隊を指揮し、インド洋や地中海においてUボートとの戦闘を経験し、輸送船を守れなかった苦い経験をしていた。
この経験から、伏見宮は堀のことを全面的にバックアップし、自らの政治力をも使い、海上護衛総隊設立に尽力した。
そして1931年、準備委員会を経て、正式に海上護衛総隊は発足し、初代司令長官に伏見宮が就任し、参謀長には堀を指名した。
発足当時の海上護衛総隊は、旧式巡洋艦や二等駆逐艦を中心に編成されていたが、1930年代後半になると、聯合艦隊と同等の予算が付くようになり、これにより大規模な護衛駆逐艦や海防艦の整備、更には改装空母まで保有し、元々聯合艦隊所属であった潜水艦も全て海上護衛総隊に編入された。
そして1941年の日米開戦時には、上陸部隊への支援を目的とした「第一支援艦隊」、通商破壊戦や航路防衛を目的とした「第一遊撃艦隊」の二個艦隊を編成し、所属艦艇も戦艦四隻、空母六隻という聯合艦隊と肩を並べれるだけの戦力を有する組織になっていた。