第5話
第一次世界大戦終結後、世界各国が軍縮を始めた頃、日本海軍は新たな艨艟の建造を行っていた。
軍縮条約により、危うく死産になりかけた長門型戦艦と加賀型戦艦である。
長門型戦艦に関しては、日本は保有を主張するため、無理矢理完成させていたこともあり、それによって生じていた不具合箇所の修正が主であった。
そして加賀型戦艦の建造において、時間的制約が無かったこともあり、長門型に比べて建造にかけた期間は長かった。
そのため、加賀型戦艦が完成した時には、長門型に比べてより洗練された艦艇になっていた。
そして軍縮条約の発効により、天城型巡洋戦艦四隻の建造中止となり、既に船体が完成していた一番艦「天城」、二番艦「赤城」は、航空母艦への改装が決定された。
そして残った三番艦「高雄」、四番艦「愛宕」は既に船体を組み上げた状態で建造中止になっていたが、ここで彼女たちの運命は大きく変わることになる。
海軍は、高雄を進水させた後、標的艦として活用しようとしていたが、建造を請け負っていた浅野財閥傘下の東洋汽船が買取り、日本初の大型豪華客船「出雲丸」として竣工させたのであった。
東洋汽船は、三番艦と同様に建造途中で堕胎を余儀なくされた神戸川崎造船所の四番艦も買取り、同型船「八雲丸」として竣工させていた。
日本と欧州を結ぶ観光ライナーとして運行され、「東洋の女王」と呼ばれるようになった姉妹は、1936年に、日本が軍縮条約から脱退すると同時に、海軍に買取られた。
以降、その巨艦は、新型装甲空母のテストベッドとして、活用されることになる。
後に、船名をそのまま「出雲」、「八雲」とされ、装甲空母として、1941年の日米開戦直前に新たな産声を上げるのであった。
そして1923年に発生した関東大震災は、天城が建造されていた横須賀にも甚大な被害を与えた。
この地震により、建造途中であった天城が入渠していた造船所が被災し、天城の船体上に瓦礫が落下する被害を受けたが、瓦礫撤去後の調査の結果、船体の損傷は軽微だったため、天城は呉海軍工廠へ回航され、そこで損傷した船体の修理と合わせて艤装工事が行われた。
この時呉海軍工廠では、二番艦の赤城が建造途中であり、天城を入渠させるだけの余裕がなかったため、1927年 3月に赤城が竣工した後、空いた船渠で、天城の建造が行われた。
結果的に、天城は赤城建造時の経験がフィードバックされ、最初から全通甲板を持つ大型空母として、1930年に竣工した。
これを契機に、日本海軍は各地にある海軍工廠の拡張と、新たな海軍工廠の建設を決定した。
後に大分県 大神に建設された工廠は、国内でも最大規模の物となり、長門型と加賀型戦艦四隻を同時入渠させられる物であった。
また関東大震災の前年に、横浜にある浅野造船所において、日本初の航空母艦「鳳翔」が竣工した。
これを機に、日本海軍では本格的に母艦航空隊の育成及び編成が開始された。
それに伴い、海軍は航空行政の一本化を図り、1925年に海軍航空本部を開設し、海軍航空技術工廠と共に国産航空機の開発を推し進めることになる。
その後、1931年に航空本部長に就任した松山 茂少将は、ロンドン軍縮条約により、水上艦の増強は不可能になったため、今まで自ら構想していた長距離雷撃機を山本 五十六技術部長、和田 操技術部主任、山縣 正郷総務部員等の人員を揃え、開発と検討を行った。
これは後に、九五式陸上攻撃機と九六式陸上攻撃機といった帝国海軍基地航空隊の主力になると共に、これら陸攻の運用による経験の蓄積は、後に一式陸攻や二式大攻の開発・運用に繋がり、また海軍基地航空隊の主力を担う存在になった。
後に松山は、海軍陸攻隊の生の親とまで呼ばれることになるが、彼の功績はこれだけではなかった。
松山は、将来海軍航空隊の拡大を考え、予備士官操縦員課程制度の策定や予科練における生徒数の拡大と、それに伴う教育課程の見直しを図った。
それまで予科練では1人の操縦員を教育するのに、かなりの時間を割いていたが、これを徹底的な合理化を図り、教育に掛かる時間を削減したのであった。
その結果、予科練における教育期間は、1年半にまで短縮された。
この松山が行った一連の改革は、後に海軍による空母の大量建造が行われた際に、搭乗員不足が起きることなく、全空母に搭乗員が充足されることに繋がったのであった。