第4話
第一次世界大戦後、日本陸海軍の上層部は頭を抱えていた。
それは、欧州大戦で被った被害の大きさであった。
何せ陸軍は、欧州派遣軍が文字通り壊滅状態になった結果、経験豊富な士官、下士官兵多数を失うことになった。
この士官、下士官兵の大量損失は、帝国陸軍が掲げていた、よく訓練された精兵による戦闘集団を維持できない状態になっていた。
そこに、1925年から当時陸軍大臣であった宇垣一成による陸軍軍縮、所謂「宇垣軍縮」が重なった。
しかし史実と違い、欧州大戦への本格参戦により派遣された師団の殆どが壊滅していた事により、将官、士官の削減は最小限に抑えられ、また下士官兵の中から士官を目指す者や、戦時昇進し士官になった者も削減対象外になったため、下士官兵を中心に動員解除が行われ、また国内で編成された戦時特設師団は全て解散された結果、第一次世界大戦時に最大二十五個師団分まで増えていた人員全てが、解散された。
そしてこの人員整理によって、浮いた予算を使って帝国陸軍は新たな兵科を創設した。
それが機甲科であった。
第一次世界大戦において、航空機、潜水艦と共に新兵器として使用されたのが戦車であった。
英国陸軍によって、実戦投入された戦車であったが、戦争末期にはドイツ軍も同じ様な戦車を投入し、春期攻勢で初めて戦車同士の戦闘が行われた。
この時、日本陸軍もフランスのルノー社が製造した戦車を購入し、実戦で使用していた。
この時の戦訓から、日本でも国産戦車の開発のため、ルノー社から技術者を招聘していた。
そしてこの機甲科設立を推進したのが、第一次世界大戦を経験した、永田鉄山や東條英機であった。
歩兵科将校である2人が機甲科設立を推進したのには理由があった。
時は遡り、帝政ドイツ軍による春期攻勢を正面で受け止めていた欧州派遣軍は、重砲や速射砲、野砲の砲弾補給が追いつかず、苦肉の策としてフランスから導入していたルノー戦車を砲台代わりに使用していた。
そして、ドイツ軍の動きが鈍ったところをこの戦車による支援の元、歩兵による銃剣突撃を持って幾度となく撃退していた。
当時一士官として、指揮下の歩兵と共にこの戦闘を経験した二人は、戦車は歩兵の盾であり、尚且つ反撃時には強力な火力を持って歩兵の支援が可能であったからだ。
そして1934年、陸軍軍務局長に就任した永田鉄山は、以前から考えていた陸軍の改革を打ち出した。
それは陸軍の全面的な機械化であった。
永田は以前より、第一次世界大戦による兵士の大量損失と宇垣軍縮による兵員と師団数削減を受け、往年の「よく訓練された陸兵を中心とした戦闘集団」を取り戻せるとは、全く信じていなかった。
そして、この時期の日本にはこの永田が描いた陸軍の機械化を叶えるだけの能力を有していた。
関東大震災後、山本内閣による海外企業誘致の結果、アメリカのフォード社による生産工場が名古屋を中心にした地域に多数建設され、更にフォード社による日本人技術者の育成と、日本国内の好景気によりアメリカ、イギリスに次ぐ自動車社会になっていた。
更に1920年代後半から始まった日本における高度経済成長と高橋是清によるマネーゲームによって国家予算が増大すると、相対的に軍事予算に充てられる金額が増えたことにより、陸軍の予算も増えたことにより、より陸軍の機械化が推し進められた。
特に永田が重視したのが、機動力と火力であった。
後年、この機械化された帝国陸軍は、初期の南方作戦から末期のマリアナ諸島を巡る日米最後の戦闘において、連合軍を相手にその機動力と火力をもって戦い抜くのであった。