第3話
1923年 9月1日 11:58
この日、神奈川県西部 相模湾北西部を震源地とする最大震度7を記録する地震が発生した。
「関東大震災」である。
この地震により、東京を含む南関東は甚大な被害を受けた。
特に時間帯が昼飯時であり、どの家庭でも食事の準備のため、火を使っていたことが被害を大きくした。
地震を原因とする建物火災だけでなく、消えることなく燃え続けた炎は、折しも日本海沿岸を北上する台風が存在し、その台風によって発生した強風が関東方面に吹き込んだ ことにより、火災旋風を巻き起こした。
この火災旋風は、木造建築が密集していた東京の下町を文字通り焼き尽くした。
この地震により、死者行方不明者二〇万人という甚大な被害を出すだけでなく、罹災した建物も多かった。
この被害を受け、山本権兵衛内閣(第二次)から帝都復興を担わされた後藤新平は、江戸時代の垢が拭いきれていない東京を一変させる大計画を立案した。
その中には、多数の死者を出した火災旋風の発生を防ぎ、都民に安全な避難場所を提供する都市公園の整備も含まれていた。
後に、国鉄山手線と都心環状道路に挟まれるように、宮城を中心に十六箇所の大公園が建設された。
この未曾有の大災害に、国外から大規模な支援が施された。
特に第一次世界大戦において、肩を並べて戦ったイギリス、フランス、ベルギー、アメリカからの支援の量は半端なものではなかった。
この大震災を契機に、山本内閣は国土復興計画と併せて、国土再開発計画を含めた第一次復興五ヵ年計画を推し進めた。
この再開発計画において、日本は開発の遅れていた東北地方と、関東から九州にかけて大規模な工業地帯の造成、災害に強い国土造りを目指したのであった。
そこで日本は、震災の際に受けた支援の見返りとして欧米各国へ企業誘致を敢行した。
後に日本に進出した企業は、業種別にすると
〇自動車産業
フォード社、ゼネラル・モーターズ、ルノー
〇製鉄・鉄鋼業
ユナイテッド・ステイツ・スチール
〇機械工業
ゼネラル・エレクトリック、ウェスティングハウス
〇航空機産業
ボーイング社、デ・ハビランド、ロールス・ロイス
〇化学工業
デュポン、BASF
〇造船業
アームストロング・ホイットワース、ハーランド・アンド・ウルフ
この他に、日本はドイツに対して賠償金の減額を条件に、シーメンス社やクルップ社を誘致し、更に高待遇でドイツなどから多数の技術者を日本に招いたのであった。
これらの企業は、各々日本政府の指定した箇所に支店や工場を建設し、更に地域住民に対する雇用機会が増えた結果、失業者の減少に貢献することとなった。
そして東北地方においても、大規模な交通網の整備と、東北地方の主要産業である農業の改良が行われた。
日本政府による公共事業への大規模投資はその後も続き、後に「大日本土木帝国」と揶揄される程であった。
特に黒部ダムや沼田ダム建設は、日本の重工業化を推し進めるだけでなく、重工業に必要な電力をも生み出した。
そして1925年に、第一次世界大戦の際に、女性運動家たち行った約束を果たすことになる。
それは女性にも選挙権を与える、改正普通選挙法の施行である。
更に山本権兵衛は、総理大臣として最後の仕事として、帝国憲法改正を1928年に実施すると、非常大権法を議会で承認させたのである。
この時施行された、非常大権法は戦時を含む国家非常時には、全権が内閣に移行されるというものであった。
また帝国憲法改正に伴い、今まで触れられていなかった統帥権についても、内閣に移行され、時の総理大臣の権限の1つに加えられた。
山本内閣から、跡を引き継いだのは岡田啓介であった。
山本権兵衛から跡を引き継いだ、岡田啓介は内務相 後藤新平、蔵相 高橋是清を両翼にして日本経済の更なる発展を目指した。
ウォール街から発した世界恐慌も、日本には追い風となった。
アメリカの消費動向を注視していた高橋は、じきに株価が天井を打つことを予見し、大規模な空売りを仕掛けた。
高橋が睨んだ通り、1929年10月24日、暗黒の金曜日に株価は大暴落した。
初期の混乱が収まり、取引業者が諦観の目で下がり続ける株価を眺めている間に、高橋は三十億ドルの大金を手に入れ、対外債権の殆どを完済することに成功した。
そればかりか高橋は、欧州各国の時期を逸した金解禁と金相場設定の失敗につけ込み、膨大な金準備を日本に齎した。
その後政権が政友会に移ると、緊縮財政に転じたことにより一時期に経済成長が鈍化するが、1932年に五・一五事件により、犬養毅が暗殺されると、当時政界入りを果たしていた、山梨勝之進に組閣の大命が下り、ここに山梨内閣が発足した。
この年日本の経済は絶頂期を迎えていた。
新しい経済用語であるGDPは、前年比で二桁成長を続け、好景気を維持し続けた。
そして1938年に山梨が政権を去る頃には、GDPでフランス、ドイツを追い越し、資本主義圏でアメリカ、イギリスに次ぐ第三位の経済国家となっていた。
また工業力の目安となる粗鋼生産量は、年間一五〇〇万トンを超え、これに産業植民地である満州王国のそれを加えると、ドイツを上回っていた。
これは山本内閣によって行われた海外企業誘致から始まった重工業化政策の成果であった。
特に阪神工業地帯、北九州工業地帯、京阪工業地帯は、東アジアにおける重工業の重要拠点となり、後に日米間で戦端が開かれた際には、帝国軍が必要とする物資の殆どを生産し続けた。