第13話
陸海軍合わせて、6万人が動員されたインドシナ北部進駐は、約1万人の戦死者を生み出しながらも終結した。
インドシナ北部進駐終結後、陸海軍はフランスが技術大国であることを思い知った。
帝国陸軍はインドシナ北部進駐におけるメコンデルタ戦車戦において、九七式中戦車を装備した戦車大隊が、騎兵戦車であるソミュアS35中隊を前に全滅した事に恐怖を抱いた。
「東洋最大の戦車軍団」と自負していた帝国陸軍機甲科部隊は、この純然たる事実に背筋を凍らせ、九七式中戦車の重装甲化と後継車両である一式中戦車の設計変更を行う一方で、欧米の戦車を圧倒する重戦車の必要性を思い知った。
それまでは、帝国陸軍内部で戦車は、二十世紀の騎兵と言われ、機動性と機関銃陣地からの射撃に耐えれるだけの装甲があれば十分であると考えられていた。
実際中国大陸への武力介入において、相手をした南部中国政府軍は、有力な戦車を保有していなかったこともあり、九七式中戦車でも通用した。
しかし今回の進駐の結果、帝国陸軍にあった戦車への考え方は、完全に粉砕されてしまった。
但し機甲科に属する将校達からは、幾度となく上層部への上申書において、重戦車の必要性が記載されていた。
だが帝国陸軍上層部は、重戦車の必要性をそこまで重要視していなかったことで、今回のメコンデルタ戦車戦での悲劇に繋がったのであった。
そこで帝国陸軍は、満州王国陸軍が装備している戦車に目をつけた。
実は満州王国陸軍が装備する戦車は、対ソ連戦を見据えて重戦車を装備していたのであった。
この重戦車───九九式重戦車の開発は、1939年に勃発したノモンハン事変、ソ連軍による万ソ国境線に対する同時侵攻において、満州王国陸軍と在満帝国陸軍による決死の反撃によりソ連軍を元の国境線まで押し返した戦闘において、ソ連軍の試作中戦車(T34)を鹵獲したところから始まった。
この試作中戦車を調べたところ、戦車砲や装甲がどれも満州王国陸軍が装備していた戦車よりも、強力なことが判明した。
そしてこの中戦車が津波の如く万ソ国境線を突破してくることを恐れた満州王国政府は、ソ連に対する宥和政策に転換しつつ、宗主国たる日本に実車を送り、これに対抗できるだけの戦車の開発を依頼していた。
そこで戦車開発をしていた三菱重工は、設計部の尽力により、僅か三ヶ月で新型重戦車の開発を終えると、試作車両の性能試験を短期間で終わらせると、早々に生産ラインに乗せたのであった。
今では、万ソ国境線には三〇〇両を超える九九式重戦車がソ連軍の侵攻に備えている状態であった。
一方海軍では、トンキン湾海戦とカムラン湾夜戦での敗北で、大騒ぎになっていた。
特に絶対の自信を持っていた夜戦において、フランス製レーダーの前に同士討ちを演じる醜態を晒したから余計であった。
そして彼らは思い出した、少し前航空本部が東京帝大理研部、帝国重工電気部門と組んで、新型電探の開発・量産に着手していた事を。
そして航空本部から試製艦載電探の搭載依頼を、艦政本部と共に一蹴していた事を都合良く忘れていた彼らは、航空本部の秘密開発主義を責め、詰った。
しかし航空本部からすれば、完全な八つ当たりであり、今まで電探を「闇夜に提灯」等と嘲笑していた癖に、いざフランス製レーダーの威力を思い知ると、自分たちの過去の言動を忘れ、航空本部に責任を向けてきた艦政本部や艦隊上層部に怒りを覚えた。
そして航空本部は、試製艦載電探の開発を艦政本部に投げ、自らの職域である機上電探の開発に邁進した。
航空本部から試製艦載電探の開発を託された艦政本部は、一先ず運用実績を得るために、定期補修のためドック入りしていた「加賀」型戦艦と、標的艦「摂津」に搭載し性能試験を行うことにした。
この時得られた運用実績は、後の日本海軍における電探開発に大いに役立てられ、太平洋戦争開戦時には、全艦艇に対空電探や対水上見張電探が搭載され、太平洋戦争中盤では、より高性能な艦載電探を生産するのであった。




