第11話
1939年 9月1日
グライヴィッツ事件を開戦事由に、ドイツ軍はポーランドに侵攻を開始した。
2日後の9月3日、ポーランドと相互防衛条約を結んでいた英仏両国は、ポーランド領からの無条件即時撤退の最終通告を出したが、ドイツがこれに回答しなかったため、英仏両国はドイツに対し、宣戦布告を行った。
しかし戦備の整っていなかった、英仏両国は西部戦線で、ドイツと睨み合いを続ける、所謂「まやかし戦争」が続いた。
1940年 5月、それまで沈黙していたドイツ国防軍が、ベルギー、オランダへ侵攻を開始すると、ベルギー、オランダの防衛線を粉砕した。
そして森林地帯を抜け、ムーズ川に到達したドイツ国防軍A集団は、準備不足なフランス陸軍歩兵部隊を短時間で殲滅すると、連合軍の後背を封鎖するべく、フランス北部からドーバー海峡に向けて突撃した。
同年5月16日、自らの後背になだれ込んだA集団を察知した連合軍は、総撤退を開始したが、機動力で劣る連合軍は、パリ方面への撤退を阻まれ、ドーバー海峡方面へと押し込まれた。
5月21日には、英仏両軍によるアラス方面での反撃が行われたが、英仏の不和による連絡不備により、失敗に終わった。
しかしこの英仏による反撃を、国防軍最高司令部最高司令官であるアドルフ・ヒトラー総統は、連合軍による本格的な反撃の前哨と捉え、作戦行動中の陸軍部隊全軍に停止命令を出した。
このヒトラーの決定に異を唱えた人物がいた。
それが陸軍総司令部総司令官であるヴァルター・フォン・ブラウヒッチュ大将であった。
ブラウヒッチュは、自らの役職を賭けてでもヒトラーに対し、断固攻勢を継続するべきだと言い続けた。
ドイツにとって貴重な時間が浪費されていくなかで、イギリスのチャーチル首相は、フランスからの撤退作戦であるダイナモ作戦を承認すると、イギリス国内で動員可能な船舶を全て徴用すると、イギリス大陸派遣軍やフランス軍が待機しているダンケルクへ急ぎ派遣したのであった。
ドイツ本国で、OKHとOKWが激しい舌戦をしていた影響で、独フランス侵攻軍はその進軍を停めざるを得ない状況の中で、このままでは不味いと感じていた現場指揮官の1人が独断で動いた。
エルヴィン・ロンメル少将率いる第七装甲師団であった。
ロンメルは、指揮下の部隊に補給を気にせず英仏軍が集結しつつあるダンケルクに向け突撃を命じた。
このロンメルによる独断専行をブラウヒッチュ大将は、好機と捉えるとフランス侵攻軍に対し、ロンメルに続くよう命令を出すと、空軍にも航空攻撃による侵攻軍支援を要請した。
しかしこの支援要請に対し、空軍元帥はヒトラーの顔色を気にし、積極的な航空支援を行わなかった。
ブラウヒッチュはこれに激怒し、侵攻軍単独での英仏軍撃破を目指した。
そして侵攻軍は、英仏軍の殿部隊を撃破し、あと少しで英仏軍本体を叩ける位置まできたが、そこで時間切れとなった。
ロンメル率いる第7装甲師団が、ダンケルクに突入した頃には、英仏軍本体は英国本土から来た船舶部隊によって収容され、ダンケルクから離脱した後だった。
英仏軍本体の撃破失敗の報告に、ブラウヒッチュは激怒し、陸軍総司令部庁舎で、ヒトラーと空軍元帥を罵った。
そして自らの決断の遅さを呪った。
もしヒトラー相手に時間を割いていなければ、英仏軍を完全に撃破できていたかもしれなかった。
そしてブラウヒッチュは、英仏軍撃破に失敗した以上、この先ドイツがこの戦争で勝利を掴む未来はないと確信した。
局地的な戦闘では勝てるだろうが、それでは戦争に勝ったとは言えない。
それで勝てるのなら、先の戦争でドイツは戦勝国になっていた筈だからだ。
それでもブラウヒッチュは、国防軍を預かる身として、何時までも絶望してはいられなかった。
まだフランスは降伏した訳ではないため、次の戦いに向け、頭を切り替えた。
その後、英仏軍を取り逃したことに激怒したヒトラーは、英国本土を占領することを決めた。
そしてその前哨戦として、空軍元帥に英本土への空襲を命じたのであった。
後のバトル・オブ・ブリテンの始まりであった。




