第10話
1933年、ソ連仲介のもと、南北中国政府が停戦条約を締結したその年に、ドイツでは国民社会主義ドイツ労働者党、所謂ナチス党が政権を握ると、党首であったアドルフ・ヒトラーを首班とした内閣が誕生した。
そして1935年、英独海軍協定がロンドンで締結された。
これにより、ドイツはイギリスと同等の海軍戦力を手に入れることになった。
これに激怒したのが、フランスであった。
自国に一切の相談もなく締結された協定に、フランス政府は反発した。
そしてフランス海軍は、政府に対してドイツ海軍に対抗するべく艦艇整備に必要な予算の増額を求めた。
当初フランス政府はこれに難色を示したが、右派議員達からの強い突き上げを受け、海軍の予算増額を了承し、議会での決議を経てフランス海軍は、艦隊整備計画を打ち立てた。
これにより、1936年に軍縮条約が失効してから、超弩級戦艦二隻(リシュリュー級戦艦二隻)、空母二隻(ジョッフル級)の建造を開始した。
これらの艦艇は、1940年頃には軒並み戦力化され、第二次世界大戦初期において、フランス海軍はドイツ海軍の装甲艦狩りを名目に北大西洋とインド洋に派遣し、ドイツ装甲艦と干戈を交えた。
そして祖国が降伏する際に、この艦隊をドイツに接収されることを恐れたフランス海軍は、セネガル植民地のダカールとインドシナ半島に分散、避難させた。
後にこの分散避難した艦艇を糾合したフランス救国艦隊は、欧州においてイギリス艦隊と共にドイツ海軍と戦闘を繰り広げるのであった。
一方日本では、二・二六事件の後始末を終えると予定されていた総選挙が行われ、政友会が多くの議席を獲得し、近衛文麿が首相に就いた。
首相になった近衛は、山梨政権が1936年に制定していた帝国国防新整備計画を拡大した、第一次海軍軍備拡充計画を制定すると、ワシントン・ロンドン両軍縮条約により止まっていた帝国海軍の旧式艦艇の更新を含めた大規模な軍拡を開始した。
後に策定された第二次海軍軍備拡充計画と併せて、主力艦艇の数から「八八八艦隊計画」と呼称されることになる。
犬養の死後、親中反米英を党是にしていた政友会の中で、特に反欧米色の強かった近衛文麿は、軍部の反対を押し切り、再び内戦が勃発した中国大陸に対し、北部中国政府への大規模な義勇軍派遣を決定した。
総勢十万からなる派遣軍は、海軍航空隊による長距離航空支援の元、南部中国政府が占領していた沿岸部を瞬く間に攻略していった。
この近衛政権による動きに、南部中国政府を支援していた欧米各国と日本の間に埋めようのない溝を形成していった。
〇第一次海軍軍備拡充計画(1936年〜1941年)
戦艦四隻(大和型戦艦)
艦隊型航空母艦(翔鶴型四隻)
甲種大型巡洋艦(雲仙型四隻)
甲型駆逐艦(陽炎型三十隻)
乙型駆逐艦(秋月型十隻)
護衛駆逐艦(松型二十隻)
海防艦(三十隻)
潜水艦(十隻)
補給艦(五隻)
※改装艦艇を含まず