第1話
大日本帝国、それは極東にある弧状列島からなる島国である。
長い鎖国期間を経て開国し、欧米に肩を並べんと富国強兵を掲げ、初の対外戦争である日清戦争において当時アジアの大国であった清に勝利すると、その後勃発した日露戦争においても辛くも勝利を勝ち取ると、一気に列強諸国の末席に肩を並べることになった。
日清戦争後から帝国主義を顕にした日本に欧米諸国は警戒心を強めた。
これを感じ取った日本は、日露戦争後に手に入れた中国大陸東北地方からロシア沿岸域を含む地域の開発に着手する際に、当時同盟を結んでいたイギリスと列強諸国からフランス、そしてロシアに声を掛けると、この地に「満州王国」を建国した。
また日露戦争において、二億ドルの金融支援を行ったジェイコブ・シフへの感謝も兼ね、ユダヤ人の多くを満州王国で受け入れたのであった。
このユダヤ人受け入れは、日本にとって吉と出た。
元々教育水準の高いユダヤ人が多く入植することにより、満州王国での教育向上に役立たれただけでなく、他国で技術者をやっていたユダヤ人もいたため、産業の発展も著しかった。
また英、仏、露資本の参入により、相対的に日本の手出し金が減ったことにより、日本国内で使える予算への影響も少なかった。
これにより日本も、朝鮮半島の開発よりも満州王国の開発に力を入れていた。
そんな日本にとって、歴史を大きく変えた───否、歴史の歯車を狂わせたと言っても過言ではない出来事が起きた。
サラエボで響いた一発の銃声に端を発した、第一次世界大戦であった。
1914年 7月から始まった戦争は、当初クリスマスまでには終わるといわれていたが、戦争は世界に広がり、東西両戦線は文字通り屍で埋まった。
この状況を打開するべくイギリス、フランス両国は、イギリスと同盟を結んでいた大日本帝国に西部戦線に日本軍の派遣を求めたのであった。
この要請に日本国内では、政府、軍部内で様々な意見が出たが、纏まりを欠いたものであった。
ここで状況を一変させる出来事が起きた。
それは陸海軍内部での政争とは言い難い、口喧嘩が起き、日露戦争以降多くの予算を獲得していた海軍に対して、陸軍側が皮肉を込めて「予算に見合った活躍をしろ」と言ったことであった。
これを真に受けた海軍は、「欧州で結果を出す」と宣言してしまい、慌てた政府が箝口令を出したが、何処からか漏れてしまい、日本国内外にこの発言が広がってしまったのであった。
これを好機と捉えたイギリスは、日本政府に対して、欧州に軍を派遣してくれるなら艦隊の整備・補給を優先的に行い、燃料も無償で提供すると約束したのであった。
これを受け、日本政府もやむ無く御前会議で欧州への軍派遣を決定した。
この結果、日本海軍から最新鋭巡洋戦艦である「金剛」型四隻を中心とする欧派艦隊を、陸軍からは青島攻略戦を指揮していた、神尾 光臣中将を指揮官に六個師団からなる欧州派遣軍を編成し、送ったのであった。
この直後、日本政府にとって予想外のことが起きた。
それは東部戦線で戦闘を行っているロシア帝国からも出兵要請がきたのであった。
膠着状態の西部戦線と違い、東部戦線ではドイツ軍の攻勢にロシア帝国は苦戦を強いられていた。
そこへ日本が西部戦線に派兵を行うことが伝わると、ロシア政府は日本に東部戦線にも派兵するよう迫ったのであった。
日本軍の強さは欧州各国よりも、日露戦争の経験からロシア帝国がよく知っていた。
その日本軍が、東部戦線に来れば現在の戦局を打破できるとロシアは考えたのであった。
だが日本政府にとっては、文字通り上から下まで大騒ぎになった。
何せ既に西部戦線に六個師団を送ったばかりで、東部戦線にも派兵を行うとなると、国土防衛に必要な戦力が払底してしまうからだ。
しかしロシア政府からの突き上げが激しく、遂に日本政府は東部戦線への派兵に同意したのであった。
これにより日本は、東部戦線に四個師団からなる東部派遣軍を編成し、1915年にウラジオストクからシベリア鉄道経由で派兵を行ったのであった。
これにより十個師団が日本国内から消えたことになった。
1915年の段階で日本国内に十三個師団が居たが、東西両戦線への派兵により、国内には三個師団しか居ない状態になったのであった。
これを受け、日本政府は予備役と後備役を招集し、更に丙種兵役合格者に対する緊急動員を掛け、師団定数を減らすことにより、取り敢えず三桁番号からなる師団を十個編成すると、彼らを国土防衛に配備したのであった。
この弊害として、国内産業の担い手が一挙に減ったことであった。
これに日本政府は頭を抱えた。
緊急動員を行えば産業の担い手が減り、行わなかった場合、本土防衛に支障をきたすのであった。
そんな政府を見て、これを好機と捉えた人物達がいた。
それは日本国内の女性解放運動家たちであった。
彼女たちは、徴兵された男たちに変わって、自分たちが働くと申し出たのであった。
そんな彼女たちが政府に求めたのは、自分たちに参政権を与えて欲しいというものであった。
これに政府内では、論争になった。
中には、口約束にしてお茶を濁してしまえば良い、という意見もあった。
しかし内閣は、この女性たちからの求めを了承したのであった。
無論法律にして、国会を通すのは、大戦終結後としたが、時の内閣は総理大臣の署名付きで約束したのであった。
一方戦争に目を向けると、西部戦線では日本陸軍の欧州派遣に伴い英、仏軍は部隊の再編成と再配置が可能となり、それにより西部戦線は未だに膠着状態を保っていた。
そして1916年 5月、前年にイギリス海軍により鹵獲されたドイツ海軍のUボートから暗号関連の書類を手に入れていたことにより、ドイツ海軍が使用する暗号の解読に成功していた。
この暗号解読により、ドイツ大洋艦隊の出撃を受け、スカパー・フローに停泊していたグランド・フリートは日本海軍遣欧艦隊と共に出撃したのであった。
この時期、日本海軍遣欧艦隊は完成したばかりの最新鋭超弩級戦艦「扶桑」を追加で派遣し、「扶桑」を艦隊旗艦に据えていた。
そして1916年 5月31日ユトランド半島沖において、日独英海軍の主力艦同士が決戦の火蓋を切ったのであった。
海戦の初期は、先行していたグランド・フリートが大洋艦隊と砲撃戦を繰り広げていたが、英海軍巡戦戦隊は大洋艦隊の戦艦部隊からの砲撃に苦戦を強いられていた。
ここでグランド・フリートより、遅れて戦場に到着した遣欧艦隊は、グランド・フリートの苦戦を知ると、英独両艦隊の間に割って入るかのように艦隊を突撃させると、グランド・フリートへ態勢を整えるよう通信を送りながら、大洋艦隊へ砲撃を開始した。
突然の乱入者によって、大洋艦隊は混乱が起き、更にグランド・フリートよりも強力な超弩級戦艦や最新鋭巡戦戦隊からの砲撃を受け、損害を山積みにしていった。
グランド・フリートが態勢を整え、再度砲撃戦に参加する頃には、大洋艦隊の主力艦は大きく傷つき、洋上で燃え盛る松明と化していた。
そこへトドメとばかりに日本海軍の水雷戦隊が大洋艦隊へ突撃を開始し、雷撃を成功させたのであった。
この一連の海戦により、独大洋艦隊は壊滅的被害を蒙り、グランド・フリートや遣欧艦隊主力艦も大きな被害を受けることとなった。
後にユトランド沖海戦と呼称される戦闘以降、独海軍はUボートによる通商破壊戦にシフトすることになった。
そして、その一方で、東部戦線で戦闘を行っていた日本軍に悲劇が訪れた。
日本本国との連絡が断絶していたのであった。
その原因は、「ロシア革命」であった。