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第一話 中編 日常の終わり

何故だ? 冷酷無比なる殺人鬼に突然、慈愛の精神を育まれたのか、あるいは――。いやだが、正しくは。

 まるで一度、首を真っ二つに刎ねたかのような、そんな綺麗なまでの一刀両断の痕をなぞっていく。


 触れた瞬間から、沸々と煮え滾ってくる嫌悪感。己の指でさえも吐き気を催すが如く異物感が絶えず襲い続けて、思わず自傷行為に走ってしまいそうになる。


「ん? ぶつけたか?」


 そんな不思議な感覚に陥る喉元から早々に手を離し、盛り上がった前髪に無意識に目を向けていた。

 生え際辺りの額には、円錐型に等しきコブのような小さな膨らみがあった。その身に覚えのない部分に触れんと、徐に手を持っていこうとしたのだが――。


「おはよ」


 気付けば、いつの間にか姉が背後に迫っていた。


 氷のような手をした姉が優しく俺の手に重ねて、額に触れる寸前で妨げられてしまい、そのまま流れるように両腕をマフラーさながらに首に交差して、火鉢で焼く餅のような物とともに体を押し当てる。


「随分と早いんだな」


「いやぁ〜なんか汗掻いちゃってさぁー」


「……あ、ごめん」


「ん?」


「いや、なんでもない」


「そう?」


「ねぇ、この髪と傷痕ってさぁ――」


「……いつにも増して男前、凄く似合ってるよ」


「そうじゃなくて! 先天的なものじゃないのは母さんから聞いてるけどさ、いつになったら治るの? まさか、これからもずっと……?」


「大丈夫だよ、もう少ししたらちゃんと治るから。お医者さんにもそう言われたでしょ?」


「ヤブ医者かも」


「あのねぇ……。もう、ユキは心配性なんだから」


 神経を逆撫でされるかのような猫撫で声で囁き、許可もなく温もりを感じようと、背に顔を埋めていく。


 あの時、血の痕を拭き取っていて正解だったな。

もしあんな血を見たら、本物の心配性が飛び出していただろうからな……。


 血の涙か。おまけに連日連夜と来たもんだ。


 それにしても――――。


 最近の姉は梅雨時の一室の四隅のように湿っていて、こびりつくような気持ち悪さを漂わせている。


 いずれ誰かのストーカーになるんじゃないかと、不安でならない。


「つーか、離せよ! 暑苦しい」


 姉の拘束を強引に振り払うと、頬を覆い隠していた前髪がふわりと浮かんで翻す間際に慌てて抑え、緩やかに廊下に後ずさっていく俺に視線を向けた。


「あぁっ! あと、扉の傷痕やりすぎだからな!」


「扉……?」


 不思議そうに小首を傾げる姉を視界から切って、道中の傍らに悠然と佇んだボロさ際立つ一段目に、姉だけの洗濯物を雑に置いたまま、毎日ご苦労様なバイクのエンジン音が鳴り響く玄関へと向かった。


 。


 まるで日課のように皺を帯びて広げた新聞には、思わず、溜息を零す出来事ばかりが行き交っていた。


 もう平成も終わるってのに、嫌なものばっかりだ。対悪魔武器製造会社員と埼玉や別の議員らの利権が絡みの一面記事が広がる光景が皮切りに、宗教施設の謎の爆発やら、デビルハンター本部幹部の横領疑惑に、自衛隊の軍備縮小、それに加えてもう時期、消費税10パーセント。このままじゃ、数年後には12、15と駆け上がっていきそうだな。全く、どれだけ国民から税を搾り取れば、気が済むのかね。


 最悪な目覚めから何一つ良いことが起きる訳も無く、俺は握りしめた新聞と洗濯物を小脇に抱えて、心なしか真っ黒に淀んだ廊下に歩みを進めていく。


 だが――。


 颯と足を止め、視界にチラつく物に目を向ければ、姉は溢れんばかりの暖かな湯気を逃してしまうであろう洗面台前の扉を、わざわざ全開にしていた。


「またか」


 どうせだから、ついでに洗濯物も入れておくか。


 再び、自らの面差しが映し出される鏡の前に立ち、洗濯物に毎度お馴染みな服を突っ込むとともに、風呂場の扉が勢いよく開かれる。そして、最悪のタイミングで淫らな姉と出会してしまうのだった。


「ハァ」


「あれ? 遅かったね」


「いや、そっちが早過ぎるんだよ」


「そうかなぁ」


 平然と不必要なまでの息遣いが当たるほどに身を寄せていき、俺の傍らのバスタオルを手に取ると、何事もなかったかのように体を隈なく拭き始める。


「これからは自分の洗濯物ぐらい自分で入れてくれよ。それとさぁ、姉ちゃんはよく風邪引くんだから、此処の扉が、ちゃんと閉めてから入ってくれない?」


「あぁ、ごめんごめん。うっかり忘れちゃってさ」


「その歳から物忘れが激しいなら、将来が心配だな」


「大丈夫、大丈夫。ちゃんと成長してるから」


 姉のチョークスリーパーで走馬灯を見る前に、俺は渋々、扉を緩やかに閉めていくが、そんな最中、好奇心か――あるいは膨らむ憂いで姉に目をやる。


 一番古い記憶の中では骨と皮ばかりだったけど、今では小麦色の肌を庇護する筋骨隆々とした肉体美で、いつ見ても壮観な光景になったが、その背には思わず目を背けたくなる三本の爪痕が垣間見えて、豊満なる胸部にさえ限りなく哀愁を漂わせていた。


「姉ちゃん」


「なぁに」


「姉ちゃんは、死なないよね?」


「――当たり前でしょ、私もユキもまだまだ若いんだし! 絶対に死なせないよ……。ほら、まだ朝早いんだし、もう少しだけ寝たら? それともユキくんは、お姉ちゃんの体に興味でもあるのかなぁ?」


「黙って、頭乾かせ馬鹿」


 ニヤニヤとうざったらしい笑みを浮かべた姉を見て、つい、叩きつけるように扉を閉めてしまった。


 …………。


「米炊くか」


 。


 全員分の洗濯物をちゃっちゃと回収し、耳障りな洗濯機が轟く真っ只中に真水で丁寧に米を洗い終えて、一拍を置くと炊飯器の高らかな音が鳴り響き、ようやっと一段落終えた俺は椅子に腰を下ろして、背もたれに首を預けながら、徐に茫然と天を仰ぐ。


 其処には何の変哲も無い、見慣れた天井があった。


「スゥーーハァァーー」


 頻りに重き瞼が目を閉じんとする。また暖房器具を一切を付けない涼しげな居間で眠りこけてしまいそうだ。


 この前、それで母さんにひどく叱られたっけな。


 けれど、一刹那に脳裏を駆け巡っていく憂慮が、その独善的で傲慢な眉を、自然と吊り上げさせた。


 こんな暇な時間は滅多に無いんだ。どうせだからこれからのことでも考えようかな。


 ……。


 昨日の誕生日会は本当に楽しかったな。


 誕生日。


 誕生日と言えば、次は姉ちゃんと母さん別するか悩みどころだなぁ。プレゼントもマフラーとかそんなんばっかりじゃ、一辺倒だし絶対嫌がるだろうなぁ。


 でも、ご馳走はいつも作ってるし、他の物もきっとそんなに喜んでくれないんだろうから、やっぱ、半年ぐらい時間掛けた手作りの品が良いかもなぁ。


 そんな思いに耽っていると、寝室の襖が開かれる。


「冬木? こんな時間に電気も付けずにどうしたの?」


「あっ、母さ……」


「また暖房付けずに寝ていたの?」


「いや違うよ、ちょっとした休憩だけだから」


 腹立たしくも己の視覚能力の無さで、ほんの一瞬ばかり寝衣を患者衣に見間違えてしまうとともに慌ただしく立ち上がり、母の元へ歩み寄っていく。


 真っ暗闇から次第に明るみに出てくる、色褪せた銀髪に淡い黒が散らばった短髪が、太陽に全く愛されない雪のような肌の中でも一際、真っ白な額から頬に渡って掛かっており、日頃から胸の締め付けられるような思いをする微笑みを浮かべていた。


 無味乾燥のガラス玉のような瞳が僅かに潤んで、鋭く冷徹でいながらも何処か暖かさを感じる眼差しが目を凝らして俺を注視している姿に、思わず微笑んだ。


「まだ夜遅いんだから、もう少しだけ寝てなさい」


「変な時間に起きて中々寝付けなくてさ、どうせだしご飯炊いて洗濯物だけでもやっておこうかなって」


「そう、ありがとう」


「別に気にしなくていいよ、いつもやってる事だから」


「……あとはお母さんに任せて、貴方はもう寝なさい」


「あぁ、うん。でも、今洗ってる洗濯物だけでも、干しておこうかな――」


「大丈夫よ、私がやるから」


「そうだね、じゃあもう寝るよ」


「えぇ」


 もうどれだけ瞬いても頭には浮かばぬ汚濁のような悪夢が淡い蜃気楼までに薄れたお陰か、踵を返してスキップするように跳ねながら、軽やかに進んでいく。


「冬木」


 襖に指を掛けた瞬間、傍らに映る母が引き留める。


「……?」


 かろうじて浮かぶ、母さんの全貌に目を向ける。


「顔色が悪かったようだけど、何かあったの?」


「うん、ちょっと嫌な夢を見ちゃってさ。でも、もう大丈夫だよ、ありがとう」


 微かに上がった口角を鮮明に目にし、扉を開く。


 俺は自分の部屋に意気揚々と足を運んで行った。


 。


 母にはああ言ってしまったが、眠れる訳もなく、俺は運良く血痕の残らなかったベットで胡座をかいて、鎖に縛られた痕を体の隅々まで確認していた。


 体の全体を上から下に皮膚を伝って、触れていく。


「やっぱりか、まぁそりゃもう治ってるよな」


 寝る前までと同じように綺麗な肌に元通りな上、舌の痛みも気付けば、跡形もなく消え去っていた。


 それなのに、えづきそうになる喉元に手を触れれば、斬られたような傷痕が今も深く根を張っている。


「何で、こっちはいつまでも治んないんだろうな。骨折だって数日もあれば、良くなるのに……」


 俺はゆらゆらと靡く、純白のカーテン越しの皓皓たる満月にぼやくように、そう言った。


 あの少年と何か深い関係性でもあるのだろうか。

遭ったことも見たことも無いのに、不思議と親近感の湧く、謎の子供に。


 足を組んだまま流れるように枕に向かって倒れた。


 いつになく考え過ぎているせいなのか、睡魔が幾度となく襲い、おでこ部分の頭痛さえ訴えるようになってきた。


 もういいや、よそう。考えたって答えなんて出やしないんだから、寝てしまえ。いや――――ただ単に悪夢を口実に面倒から逃げているだけなんじゃないか?


 そう言いながらも閉じてしまった瞼を精一杯に開き、朧げに眇めた瞳で耳障りな時計に目を向ける。


 まだ3時か。


 …………。


 寝よう。


 。


 俺は朧げな意識で、惰性で徐に幾度となく瞬く。


「ぁ?」


 寝てたのか?


 まるで気絶したかのように意識が途絶えていた。

 枕元の時計に目を向ければ、短い針は疾うに5時を回り、仄かに水縹を帯びた空色が部屋中を照らして、数羽の小鳥が活き活きと囀っていた。


「ぁぁぁ! 起きるかぁ……」


 今回の眠りであの夢を見ることは無かったが、不思議と限界にまで伸ばした体の内では、安堵よりも泥濘に嵌ったかの如く沈んだ感情が勝っていた。


 7時までに俺と姉の弁当を作り終えなければならないという使命に駆られ、早々に支度を済ませんと気怠げな体に鞭を打って起き上がらせ、足を運んだ。


 未だ尚真っ暗な廊下を大股数歩で進んで、手すりに頼る事なく階段を下り終えれば、玄関には雑に並べられた特注らしき父のシューズが置かれていた。


 帰って来てたのか。


 俺は無意識に息を殺して足音を忍ばせながら、慎重に廊下を滑るようにして歩みを進めていく。


 そっと襖を開けば、其処には小煩く鳴くテレビの眩しい光に当てられた父の姿があった。淀んで虚ろな頬に反射し、幾度となく映像の色が切り替わっていく。


 暗がりの中で異様に際立ったテレビの明るさに、憔悴しきった父は、背もたれに体を預けて今にも落ちそうな頭をぶら下げて、茫然と天を仰いでいた。


 右腕のスーツの袖からは微かに姿を見せる、見える全てが真っ赤に染まった内出血。


 全盛期の肉体に比べるのさえ烏滸がましい体は、呪われた真っ黒なスーツを羽織り、謎の内出血を作り出す度に、その衰退の一途を加速させていった。


「……」


 眠っているのだろうか。


 そんな父をそそくさと横切り、寝室へと向かう。母が寝息一つ立てずにすやすやと安眠真っ最中に、息を殺しながら押し入れを開いて、布団を取り出し、母の傍らに冷えた布団を大雑把に床に敷いて、父の元へと急ぎ足で歩み寄っていく。


「父さん――風邪引くよ」


 囁くようにそう言った。

 そっと肩に手を添えて、ゆっくりと揺さぶる。


 けれど、壊れた玩具かのようにピクリとも動かぬ

父に僅かながらな煩慮の念が巡り、更に強く揺らす。


「父さん」


「あぁ、分かってる、分かってるよ」


 童顔で好青年の視認を頻りに誤認させながらも、心も体も死の淵に立たされたかのような面差しが、その認識を望まぬ形で一瞬にして払拭させていく。


 そして、ようやっと閉ざされた目が開かれ、虚ろな眼差しをこちらに向けて、視線がぶつかり合う。


 バッと身を起こし、振り返る。それはまるで前にテレビで見た鷹に戦慄く梟のように目を見開いて。


「……。寝てた?」


「うん思いっきりね、布団で寝ないと風邪引くよ。もう布団は敷いておいたから、いつでも寝れるよ」


「そうか、ありがとう」


 テーブルに手を突き、ふらふらと危なっかしく立ち上がり、徐にもう片方の手を俺の頭に触れんと持っていくが、頭上に翳した寸前にピタッと止まる。


 まるで懺悔を乞うような、痛いげな仔猫を憐れむかのような眼差しを向けて、そっと肩に手を添えた。


「大きく……なったな」


「……」


 手を離して、そのまま独りで壁を支えにしながら、寝室へ向かっていく父の哀愁漂う丸まった背中は、俺の頬を苦虫を噛んだように苦痛に歪めさせた。

 

 先程までのぶつけんと喉に出掛かった数多の疑問をグッと呑み込んで、静かにキッチンに足を運ぶ。


 そして、不思議な装備を身に纏い終えた後には、俺に痛いげな仔猫を憐れむような眼差しを向ける。


 それも、必ずと言っていいほどに仕事終わりに。


「ハァーー」


 台所に立って、真っ先に行ったのは、両手を置き、つい嘆息を漏らしながら項垂れる事であった。


 こんな事でへこたれている場合じゃないだろう、そう己に言い聞かせ、半ば強引に盆と正月が来たように冷凍された生肉ブロックを冷水で解凍した。


 だが、そんな淡い気持ちが長続きする筈も無く、俺は余計に想像以上の速さで気が滅入ってしまい、ゾンビのような歩みで椅子に座り込み、目を瞑る。


 ハァ……いや少し休んだら、特製スタミナ肉丼を否が応でも、父さんにだけ食べさせるのだから、此処は逆に無駄に激しく消耗した体力を回復しよう。


 寝心地が悪いながらも睡魔には勝てず、また意識が、朧げに霞んだ視界がパタリと途絶えてしまった。


 。


 喧騒賑わう、いやさんざめく烏合の衆が煩わしく俺の鼓膜を包み込んで、清々しい気持ちを妨げる。


 聞き覚えのある女性らしき淡白な声色が、そんな傍迷惑な騒音を背景に淡々と言葉を並べ立てていき、遂には然もこれが日常かと言わんばかりに、他の自らの博識をひけらかす野郎と言葉を交わし始めた。


 ……。


 ん?


 徐に目を開く。


 其処には、いつになく真剣な表情を浮かべた父の淀みきった虚ろな瞳が瞬き一つせずに、目まぐるしく移り変わっていく液晶画面の映像を注視していた。


 俺のまだ頭の覚束無い寝起きに直様、一瞥する。


「あぁ、おはよう」


「うん、あれ? 母さんは?」


「朝食の準備中……」


 慌ただしく台所に目を向ければ、有ろう事か母さんがたった一人で、悠然とご飯の支度をしていた。


 拳を握りしめ、睨みつけるが如く父に冷徹な眼差しをぶつける。


 だが、「ここで速報です」


 煩く吠える映像から、やや冷静を欠いたアナウンサーに移り変わり、水を打ったように静まり返って、俺も思わず、テレビの方へと視線を移り変えてしまう。


「先ほど5時21分頃、さいたま市見沼区の駅前にて、大型ショッピングモールが襲撃されました。目撃者の証言から、黒のローブに身を包んだ長身の男の犯行によるものと見られ、現在も行方を追って――」


 ぷつんとテレビが暗闇に落ちる。唐突に消えたテレビから、ゆっくりと薄情たる父に視線を向ける。


「近いな……」


 物憂げに曇った表情を浮かべ、ボソッと呟いた。

 けれど、その背中は心なしか深夜の時と比べ、広々といつのような頼もしい姿に見えた。


「じゃなくて……父さん!」


「ん?」


「ちょっとくらい手伝ったらどう?」


「あぁ! ご、ごめん」


「謝るのは俺じゃないでしょ」


「か、母さんごめん」


「大丈夫、これ以上体が鈍ったら困るから――」


「でも、まだ病み上がりなんだよ⁉︎」


「それに、私もこれくらいはしないといけないから」


 その淡白な言葉とは裏腹に、羨望にも感謝にも近しい雪山の一縷の灯火の如く心に沁みる眼差しと、限りなく最低限な口角の上がり具合を見せる母に、不思議と父に対する軽蔑の想いは失せていった。


「何か手伝うことある?」


「じゃあ、春を起こして来てもらえる?」


「わかった」


「あの私は何を……」


「座ってて」


 緩やかに振り返れば、其処にはもう既に姉がいた。


「居るよ」


「なら、返事くらいしろよ」


「ほら、もう用意できたから、二人とも座りなさい」


「はーい」


 この姉も不器用なのを良いことに、面倒から逃げ続けて、素知らぬ顔つきで平然と椅子に腰を下ろす。


「ハァ……」


 食器棚から手際よく皿を並べていき、ちょっと豪華な日本の朝食を乗せ終えて、母と俺も席に着き、全員が静かに手を合わせる。


「いただきます」

「いただきまーす!」

「いただきます……」


「ハァ……いただきます」


 昨日の夜の最高潮の弾んだ会話と限りなく気分の上がった清澄なる淡い空気とまでは行かぬものの、食器の擦れやぶつかりに箸に触れる雑音ばかりが虚しく響き渡る、静寂ではない事に静かに感謝して、何故か霞の取れぬ視界で家族に目を泳がせていく。


 人体模型の方がまだ肉付きが良いであろう程に、骨と皮ばかりの痩せ細った体躯には、時と共に次第にサイズが合わなくなっていったブカブカな衣服を数年の月日が経った今でも、頑なに着続けていた。


 もうどれ一つとして、……合わないというのに。


 みんながたわいもない言葉を交わしていく最中、そんなに減らない肉じゃがを目にした母は言った。


「余ったら、夜ご飯にコロッケにでもしようか」


 その瞬間、戦慄が走った。


 些細にして瑣末であろう何気ないたった一言に、俺の中で一瞬にして身の毛がよだつ。


「やったー」


 居た堪れなさからか、言われるよりも先に皿の後片付けを手伝っていた父に唾を呑み込んで、問う。


「あのさ父さん、ちょっといい?」


「ん? どうかしたか?」


「いや、大したことじゃ無いんだけどさ……いやぁ、こんな嫌な話口にするのもどうかと思うんだけど」


「構わないよ、何でも言ってくれ」


「母さんと姉ちゃんが、居間で死ぬ夢を見たんだ」


「…………。その時、何か変なことはあったか?」


「真っ白な場所で――」


「誰かに会ったのか?」


「どうして、それを知ってるの?」


 父は鬼気迫る形相を浮かべ、大地を踏みしめるが如く轟音を床に響かせながら、寝室に向かい、母はまるで阿吽の呼吸で早々に姉と共にその場から席を外す。

 そして、片手に何かを握りしめて再び、向かい合わせの席に腰を下ろし、俺の前にナイフを差し出した。


 白き刃。

 ――刃渡り18センチといったところだろうか。


 不思議と手に馴染んだナイフを眼前に翳し、自らの円な瞳を眩いほどに輝かせる面差しが反射する。


「これは?」


「自衛の術と言っていい。許可証さえあれば、どんな場所であっても所持は可能だ。ただあまり人に見せびらかすのは辞めておいた方がいい、何が起こるかわからないからな。あぁ、もうライセンスは既に用意してあるから、いつでも持ち歩いて構わない」


「へぇ、荒んだ世の中だね」


「其を、常に鞄に仕舞っておきなさい」


「どうして?」


「──言葉を返そう」


「こんなナイフなんかじゃ、悪魔相手に通用しないんじゃないの? そもそも俺、()()だし」


「それも問題ない、体が無意識に覚えている筈だ。万が一忘れているのなら、明日にでも指導しよう。大分、精神状態も落ち着いているようだけど、無理はせずにゆっくりと、鍛錬を積んでいけばいいさ」


「ちょ、ちょっと待ってよ。俺はまだ何も……」


「これからは、お前が――お姉ちゃんを守るんだ。自分の身も自分で守れるようになりなさい。法は、お前を守ってはくれない」


「は?」


 冷静さを欠いて悄然とした顔つきで、支離滅裂に語り出す父の目は、ただ独りよがりに遠い先を見ていた。


「ねえ」


「お前に会わせないといけない人がいるんだ」


「ねえ、父さん」


「今日会ったひ――」


 聞く耳を持たぬ父の言葉に強引に被せる。


「ねぇ‼︎」

「冬木ッ!」


 両の掌で机を叩きつけ、血走った瞳が凝視する。


「だからぁっ! ちょっとは黙って俺の話を聞いてくれよ、頼むから……」


「……」


 父は憂色を浮かべて、そっと口を噤んだ。


「ずっと嫌な事が立て続けに起こってばかりでさ、滅入ってるんだろうさ、()()()の仕事に嫌気が差しているだろうさ! でも俺は、俺もみんなも、ずっと傍に居るから、だから……もっと、もっと頼ってよ」


「冬木……」


「──俺は家族じゃないの?」


「違っ――――」


 二度、父は言葉を遮られる。


 だが、其は俺じゃない。


「お取り込み中、失礼ー。もうそろそろ私もユキも学校に行く時間なんだけど、まだ話は続く感じかな?」


 姉が襖に寄り掛かり、寝癖が溶かされた頭をぽりぽりと掻いて、こちらを気まずそうに窺っていた。


 姉の跡に続かんと、大きく一歩を踏み出した。


「冬木」


「……ハァ、わかったよ」


 俺は父の懇願に根負けし、渋々ナイフを手に持ち、父に背を向けて、襖の先に歩みを進めていく。


「行ってらっしゃい」


「――行ってきます」


 道すがら、何処からともなく現れた母と出会し、吸い寄せられるかのように握るナイフを一瞥する。


 そんな異様な様を見ても尚、泰然と俺に目を移す。


「気を付けて、行ってらっしゃい」


「うん、行ってきます」


「何処、行ったんだよ」


 襖の先に物憂げな表情を浮かべる母とすれ違い、突如として、姉が姿を消した玄関へと足を運んだ。


 耳障りな階段の軋みが上へ上へと上がっていき、忘れ物常習犯の仕業と気付き、鞄の為に登ろうとするも、珍しく気が利いた姉が一段目に立て掛けていた。


 真っ白な刃を徐に安全そうな隅に仕舞い込んで、用意が整うまで短い間、玄関前に惰性で腰を下ろし、静かに待ち侘びながら物思いに耽る事にした。


 守る……か。


「相変わらず遅えなぁ」


 キイキイと床を軋ませる音が徐々に近づいてくると背後にまで迫り、ピタリとその煩わしさは止む。


「わっ!」


 度を超えた馬鹿姉は肩をグッと掴んで、騒々しい声とともに俺の視界に映り込む。


「早く行こうよ」


「あれ? もう慣れちゃった?」


「そういうので驚くのは、小学生低学年までだろ」


「そっかなぁ」


「あぁ、じゃあ外で待ってるから」


「うん、すぐ行く」


 謝罪の一つもなく、肩から手を離すと床に腰を下ろして、靴紐を結び始め、俺はそんな姉を尻目に、玄関から出ながら扉を閉めた。


 外に一歩出てみるなり、まるで俺を忌避するが如く、とても払拭できぬであろう憂鬱に塗れた鈍色を帯びた空模様が一面に広がり、肌を突き刺すような乾いた涼しげな風が服の内側へと吹き込んでいく。


 ん? 何だ?


 ふと隣の家に視線を向ける。


 ふくよかな体つきと真逆のスケルトンな二人の女性が数珠を腕に纏って、謎の本を抱きしめながら、向かいのデビルハンターであろう家に訪ねていた。


「何度もしつこいぞ、さっさと失せろ! 殺すぞッッ‼︎」


 一家の大黒柱らしき中年男性が怪訝な形相を前面に浮かべ、空を破るような怒声だけを浴びせると、相手に隙を与えんと言わんばかりの速さで、周囲に粉砕するかのような扉を閉ざす音を響き渡らせた。


 すると、一瞬の放心状態にも等しき間を置いて、手慣れた動きで鞄の携帯を素早く取り出し、先程の胡散臭さを押し出した笑顔とはまるで異なる、空気を張り詰めるような真剣な表情に切り替えて、誰かと連絡をしているのか、言葉を交わしていた。


 そして、もう一人のスケルトンさんが無心で注視していたこちらに気づき、怪しげな微笑みでほんの数センチばかりの頭を下げて、その場を後にした。


「ん? どうかしたの?」


「いや、別に……何でもない」


 姉は今日もまた、上体を覆い隠すのに造作もない仄かな黒味を帯びた長髪を背に束ねていながらも、右頬だけには結び忘れやら余りなどとは、到底言い訳できないだろう多分な毛量で覆い尽くしていた。


 そして、そんな真っ暗闇な影を含んだ気持ちと相反するように、遅刻寸前でありながらも悠然と闊歩し、玄関から大きく踏み出された一歩で、姉は僅かに雲から覗く、燦々たる神々しさに包まれた。


 それは眼前に手を翳さなければ、見えないほどに。


 天使か、お前は。


「じゃ行ってきまーす‼︎ さぁ、行こうか」


「遅刻常習犯が仕切るなよ」


 そして、長き道のりの学校へと歩みを進めていく。


「そんな格好で本当に大丈夫?」


「何が?」


「寒くないの?」


「全く」


「お姉ちゃんのマフラーと耳当て貸してあげようか?」


「人の話ちゃんと聞いてるの?」


「今日は風も強いだろうし、風邪引いたら大変だよ」


「一度たりとも流行病にも風邪にもなってない俺の事よりも、柔な自分の体の心配をしたらどうだ?」


「そうだね。あぁでもユキ、前髪が変だからちゃんと直した方がいいよ。お姉ちゃんがやってあげようか?」


「いや結構。ただこの風で捲れてるだけだよ。そんな事で一々、気にかけてくんなよな。気持ち悪い」


「そう……」


 …………。


 完全に言い過ぎてしまった。


 ただでさえ嫌な雰囲気なのに、重苦しき沈黙が続く。


「あー……そういえばさ、今日、夢見たんだよね」


「へー、どんなぁ?」


「誰もいない真っ白で箱みたいな場所で、いきなり訳のわからないものを見せられて、俺が死ぬ夢を見たんだ」


「そう……なんだ。でも、自分が死ぬ夢は良いって聞くよ」


「なら悪くなかったのかもしれないな。あのさ、鎖ってどんな時に使うものかな」


「鎖? 急だね。そうだなぁーやっぱり悲しい話だと奴隷を縛る為だったり、相手の自由を奪うとか、他には捕らえて、牢屋に幽閉して囚われ身にする。ぐらいかな?」


「……」


 もしもあの時、捕まっていたら、俺は今頃どうなっていたんだろうか……。


 いやそんな過ぎた事で一々、頭を悩ませるな。


 それよりも、先ずは血の涙だ。


 先日もあったような血涙であったが、痛みもあの訳のわからない幻覚も見せられていない。そもそもあれは何なんだ? 不気味な少年は何が目的だ? あれは……。いや、夢だ。単なる悪夢に過ぎない。


 昨日はただの痛みもない血涙だけで、今日、能力による代償での血の涙と激しい痛み、そして、現実か定かではない謎の幻覚。明らかな差の露呈。


 まさか……段々、体が適応しているのか?


 適応か、そもそも何であの少年も涙を流したんだ? 


 ……。


 若かりし頃の記憶。


 齢7つからの思い出が大半を占めている。それは印象に残ってないなどという意味では無く、本当にすっぽりと抜け落ちているかのように忘れていた。


 断片さえも曖昧で、僅かなピースを順に繋ぎ合わせても、さながら辻褄の合わぬ出来合いの駄作を見せられているように、理解が遠く及ばなかった。


 そういえば、あの少年もそれくらいの歳に見えたな。


 ……。


「そう言えば、バレンタインデーだね」


「そうだったっけ? 母さんの久々の退院でバタバタしてて曜日感覚が狂ってるから、わかんないや」


「今回は頑張ったユキへのご褒美にお姉ちゃんが何か作ってあげようか?」


「あれは、人に食べさせるには危険過ぎる代物だよ」


「ははーん。そう言って、お姉ちゃんだけからチョコ貰うのが悔しいんでしょ」


「別に」


「じゃあ、去年は幾つ貰ったのよ」


「十数個程度かな。毎度思うけど、下駄箱に入れるのだけはやめてほしいね」


「わ、私よりも多い。ま、まぁ家の学校は寛容だからね」


「他より偏差値が高いからな。それでも今回からは駄目らしいけど」


「ま、仕方ないね」


「どうせ、帰り際にでも渡してくるんだろうけどさ」


 そんな馬鹿げた話から目を逸らすように、徐に天を仰ぐ。


 曇天たる大雲の遥か上空、我が家を軽く超えた真っ黒な両翼を何者に縛られることなく広々と羽撃かせ、静かなる飛行を享受する謎の物体、いやまるでそれは黒龍さながらの大きな影が飛行機にも勝る速さで、大地と携帯ばかりに縛られた現代人の誰一人にも気付かれる訳も無く、俺達の頭上を悠然と通り抜けていく。


 いよいよ、幻覚まで見えるようになったらしい。


 ん?


 閑静な狭き道から、人々の行き交う場所に出た途端、


 大通りの喧騒を一挙に担わんと言わんばかりの音を周囲に轟かせる謎の人垣が不意に視界に入り、決して足を止める事なく徐に一瞥すれば、それはどうやら悪魔に対するデモ運動のようだった。ぞろぞろとまるで蟻の大群のような連中の中には、白き装束を身に包み、変な紋章を胸に飾る者までもがおり、有象無象の集いが、デカデカとした看板を高々と掲げて、公衆の面前で恥ずかしげもなく喚き散らかす。


 まるで自分達が正義と宣うばかりの様を見せて。


 …………またか。飽きずもせず、毎日よくやるよ。


 そんな暴動にも等しい者たちの周りには、物見遊山の野次馬やら、無数の警察官と何かを手に持った数人のデビルハンターが周囲に目を凝らしながら、逐一、慎重に彼らの一挙手一投足を窺っていた。


「ほら、行くよ」


 そんな物騒な場所から遠ざけるように、姉は俺の服を力強く掴んで自らの胸元に手繰り寄せていき、決してライトスポットの当たらないであろう歩道の端の端にまで引き寄せ、何事もなくやり過ごした。


 日本でさえもこんなデモで溢れてるんだ、海外は一体、どうなっているんだろうか。


 どれだけ世界が汚れていようが、どんなに世界が悲鳴を上げようとも、たった一枚の純白の布を被せて耳を塞ぐだけで、案外世界は綺麗に見えるもんだ。


 ……。


 今日は、今日も最悪の日になりそうな予感がする。


 いや違う。


 そんなことはない筈だ、絶対に。絶対に。……。けれど、何処か、何処かそんな気がしてならない。


「あれ?」


 気付けば、商店街前にまでぼーっと歩いていた。


 いつものがらんとした商店街は跡形もなく消え去り、入り口でさえ既に喧騒の行き交う賑やかさを見せていた。


「いつもはもっと閑散としてるのに――」

「そういえば、ニュースでなんか言ってたな」


 その商店街に足を踏み入れた瞬間、生え際辺りの両側の前頭から全身に掛けて、響かせるような電気が一刹那に迸り、鋭く痺れる痛みが二度、走った。


「いっっ!」


 俺は、その場にしゃがみ込んで両手で頭を抱えた。


「大丈夫⁉︎」


「いや、別に。大丈夫だよ。それより本当にこの道から行くんだよな」


「別に遠回りしても構わないよ?」


「……いや、いいよ」


「行くよ!」


 焦りと動揺の混じった一言とともに強引に俺の手首を握りしめ、周囲の人間が集まり出した頃に、颯と立ち上がらせて、商店街の奥へそそくさと進む。


 引きちぎられるような痛みで、腕が引っ張られる最中、ふと姉の振り返った視線の先へと振り返る。


 其処には、死にたがりの生者さながらの獣がいた。


 肩先に触れる程度の艶やかでいて金の亡者を自然と魅惑する絢爛豪華なる黄金色の長髪を靡かせて、曇りなき清澄なる蒼き瞳には俺たちを確実に映し、僅かなシミ一つ無き純白の装束を巨躯の身に纏い、真っ白な外套を黄金色の綱の前留めで結ぶ、男性。


 凛々しく聡明であろう端正な顔立ちとは裏腹に、2メートルもの大柄な体格で、腰には三度、赤錆が仄かにそして、疎に撒かれた黄金色のサーベルに、人名らしき刻印のされた異様な武器を携えていた。


 そして、悪魔の象徴たる徽章を胸に抱いていた。


 姉は、俺が今まで見たことがないほどに不安げな表情を浮かべながら、チラチラと挙動不審に周囲を見回し始め、その男の人は俺たちに気付いたのか、顔を小さく捻り、その場で静かに俺達を凝視した。


 本当に、今日はいつにも増して不気味な日だ。


「何か、何かやってるんだよ、きっと」


 姉は自らに言い聞かせように対照的に眉を顰め、辺りを見回しながら額に汗を滲ませ、そう言った。


 少し傾げば、肩が当たる程に姉との距離が近く、止まってしまえばぶつかってしまうと予期した時、危惧していた事が起こり、思いっきり体をぶつけ、地味に後に響くであろう痛みに、俺は静かに呻く。


「いっっ……ぅ。ん?」


 ふと傍らに立ち尽くす女性が、スマホを持つ手を小刻みに震わせながら、眼前に翳して何かを撮っている異様な姿を目にする。何故か引き攣った半笑いを浮かべ、酷く震えた瞳は潤いに満たされていた。


 その時、俺は現状をようやく理解した。


 解っているのに、解っていたつもりなのに。


 俺は好奇心には抗えず、その人の視線の先に目を移す。


「……ぁ」


 悪魔。


 それ以外には何も思い浮かばない。


 俺の拳を大きく上回った額に突出する二本のツノ。


 背骨を中心に沿った総総たる下向きに生え揃った鋭く厚きツノの列が外へと突き出て、まるで生物の基盤から逸脱したかのような全貌に、俺の曖昧な悪魔の概念が再認識させられるとともに、調教に苛まれたのか真新しい傷痕が体中に広がっているのを、朱色を帯びた内出血を除く色の抜けた白皙な皮膚に覆い尽くされた、胡座をかかなければ天井をも越える可能性を秘めた筋肉質な巨躯と同時に目にした。


 そして、悪魔は真っ赤なランドセルを背負った少女を親指と人差し指で挟むように摘み上げていた。


 兎にも角にも動かなければいけない。そう思っても、始まりの一歩がどうしても踏み出せない。


 鞄に仕舞われたナイフに手が届かない。


 足が地面に張り付いてしまったかのように重く、それはまるで大地に両足が鎖に繋がれるかの如く、ひしひしと感じてしまうほどに。


 刹那、突き刺すかの如く悪魔の視線が凝視する。

鋭く、まるで俺を見つめるかのように……。だが、気のせいであったのか、再び少女に視線を戻した。


 今、目が合ったよな。


 そう悶々とその場に留まり続ける中で、少女の抵抗も虚しく、徐に軽々と口元まで摘み上げられる。


 少女は必死に声を抑えて、こちらをちらりと見た。


「たす……けて……」


「はっ‼︎」


 その少女の最後の足掻きに応えることもできずに、俺はどれだけ力を振り絞ろうともただ茫然と立ち竦み、その姿を見ていることしかできなかった。


 辺りの人々に視線を向ければ、全員が一言も発せずに、俺と同じようにただひたすらに突っ立って、悪魔に釘付けになっていた。


 ただ一人を除いて。


「え?」


 それは俺の姉だった。姉は何かを必死に探して、辺りをキョロキョロと首を酷使して見回している。


 けれど、姉は途端に首を動かすのを止め、何かを凝視した。俺は姉の見つめる先に目を向ける。其処には商店街の四つの入り口出口とは別の路地裏だ。


「え……」

「嘘だろ?」

「なんで――俺なんだよっ!」

「え、ど、ドッキリだよね?」

「は?」


 黙り込みを決めていた人々はようやく閉じた口を開いた。かと思えば、急に大人たちは顔から血の気が引いて、小言を呟き出した。


 誰も、此処にいる誰も、少女の身を案じる者などいなかった。


「こっち!」


「痛っ……ッッ‼︎」


 俺は左腕を引きちぎられるような強さで引っ張られ、姉の駆け出す先へと、歩き出す。


「痛いよ! 何してんだよ‼︎」


「逃げるの! 逃げないと……死ぬっ‼︎」


 誰よりも一歩早く、姉はこんな臆病者の俺を連れて、ここからこの地獄から逃げ出そうとしていた。


「離せよっ‼︎」


「何言っ――――あっ……」


「ぇっ?」


 姉は振り返った途端、開いた口が塞がる事なく突然と足を止め、一点を見つめたまま立ち尽くした。


 なんとなくわかっていた。それでも俺は、姉の茫然自失の眼差しの先へと目を向けずにはいられなかった。


「ぁっ」


「お母ぁぁさーん‼︎」


 少女は必死に抵抗し、泣きじゃくりながらも、悪魔の口の中へと呑み込まれていく。


「は?」


 その場にいる誰もが立ち竦む最中、たった一人の少年が、人混みを針を糸で通すように、隙間を縫って飛び出した。


「え?」


 肩に軽い衝撃が走ったのも束の間、再び視線だけを悪魔に移せば、其奴は、その少年は其処に居た。


 俺とそう歳も変わらないであろう、小さな少年。


 右手で出刃包丁をナイフのように逆手持ちにし、左耳よりも後ろに深く振りかぶって、兎の如く軽やかに人垣の頭上を立ち幅跳びのように飛び越える。


「は⁉︎」


 そして、悪魔の少女を摘み上げた方の角ばった肩に軽やかに両足を置いて、華麗に着地する。


「それはお前の食べ物じゃない‼︎」


 声に反応した悪魔は、今までのトロイ動きとは比べ物にならい速さで振り向くが、悪魔よりも僅かに早く、少年はそのまま悪魔の瞳に刃を振り下ろす。


 だが、忽然と路地裏の影から一縷の火花を散らす煌々たる鋭く細き何かが、少年の首筋を貫いて動きを止め、悪魔は手に収まりきらぬ首が捥げると、少女の伸ばした掌が千切れ、血飛沫と共に宙に舞う。


 そして、乾いた音と共に地に落ちた。


 最後まで助けを求めて伸ばした掌が爪先に乗り、生気を失った虚ろな黒き瞳が俺を静かに凝視して、ただ茫然と息を呑み、瞬く事さえ忘れてしまった。


 そのしめやかな音が静寂を破る。


 悪魔は耳を劈く(つんざく)、けたたましい悲鳴を上げる。


「キィィィィ‼︎」


 商店街中に轟音が響き渡って、谺する。

 そして、その場にいる者たちの恐怖は、限界点にまで達してしまった。


 初めは、一人の女性からだ。


「うそ、いや、イヤァァァ‼︎」


 同じように甲高く突き抜けていく悲鳴が響いて、それに呼応するように周囲の人々に忽ち伝播する。


「なんで、だ……よ。ふざけんなよ‼︎」


 言葉はやがて行動に。


 慌てふためき、我先にと押し競饅頭のごった返しが始まった。


 その傍らで、路地裏から錆を帯びた絢爛豪華なる柄を握りしめた装束の者が商店街へと踏み出さんとしたが、煤汚れた黒きローブを靡かせる謎の者が、鮮血で真っ赤な染まった槍の鋒が誰かの胸を穿つ。


 そのまま影へと引き摺り込まれていく。


 そして、ガラス張りの天井を突き破って、無数の悪魔が舞い降りる。


 其の光景はさながら粉雪のように人々に無差別に降り掛かった。


 将棋倒しになるのは明白なのに、狼狽える顔面蒼白な人たちの理不尽な押し合いに巻き込まれ、姉の握る手が緩んで外れかけた。


「姉ちゃん‼︎」

「冬木!」


 悲鳴にも近しいその言葉に、俺は紐解く寸前の重なり合う指先を強く握りしめる。


 腕が肩からすっぽりと抜けそうなほどに、激しい痛みとともに俺を胸元に引き寄せた。


 仄暗く人一人通れれるかも疑う、狭き路地裏に更なる壁となって、数多のダクトと通気口が行手を阻んでいた。それでも尚、引き退ることなどできない俺たちは、猪突猛進と突っ切るように進んで行く。


 姉の背が影となり、忽然とダクトが現れる。


 排気ガス臭を漂わせるダクトが眼前から過ぎ去るとともに前頭部に鋭い衝撃が走った。


「いっ!」


 姉はそれに気づくことなく、掴んだ手をより強固に握りしめて一心不乱に走り続ける。


 痛みが絶えず訴える頭を軽く抑えながら、引きずられぬように背を必死に追う。不意に落ちた視線、足元には不定形な鮮血のみで器を成した溝鼠のような姿をした謎の生物が、額に一本の小さなツノを生やし、何食わぬ顔で俺たちを平然と横切っていく。


 ……?


 そう思っていた矢先、卒爾に片目に再びあの激痛が迸るとともに片隅に映りし人畜無害が空を抉る程の速さで繰り出した血の刃、それを咄嗟に身を崩して避けんとするも、パッと視界が暗闇に覆われた。


 筈だった。


 けれど、実際は突然と視界が元の世界に舞い戻り、同時に風切り音が間一髪で頭上を擦り抜けていき、額を掠めて鋭い痛みが立ち所に走ると同時に緋色の目を眇めると、冷然なる一突きが勢いよく噴き出した鮮血を喰らって、そそくさと去っていった。


 そんな幻に魅せられ、ようやく路地裏を抜けた途端、俺を、土瀝青を容易に覆い隠す大きな掌の影。


「は……⁉︎」


 疾くに背に振り返る。


 傍を横切って、一人の男が視界に映り込む。


 見覚えのあった黄昏色の無造作な短髪の青年が白息を切らし、携えた短き双剣の柄を握り締める。


 前傾姿勢で双剣の鞘を払い、刃を振るう。


「ッッ‼︎」


 さながら柔らかな豆腐にスッと刃を入れるように、僅かな力で手軽く全ての指を根本から刎ねる。

 

 打ち水を撒くかのように真っ赤な血を散らして、五指が円を描いて宙に舞う。


 それでも怯む事なく、もう片方の手を振り翳して差し出すが、何処からともなく現れた一本の透明なガラスの矢が、俺の耳を掠めて悪魔の腕を射抜く。


 尾のハートの形をした部分に血が溜まっていき、清澄なるガラスのハートが真っ赤な鮮血によって満たされた時、耳を切り裂くような粉砕音が響き渡る。


 その心を打ち砕いたのは、ナイフ使いのハンターであった。刃を頭上に振り上げたとともに忽ち、ナイフに真っ赤な雨が纏わりつき、血の刃と化した。


 続く第二撃の斬撃で、甲高い悲鳴を上げんと大口開ける悪魔の首を先刻とは裏腹に力業で切り落とし、前へと進む。


 悪魔の生首が鈍い音を立てて、大地に臥すよりも僅かに早く、狭き一本道へと瞬く間に潜り込んだ。


「勇二ィ……ッッ‼︎」


 哀しさを含んだ怒号を上げて。


 振り返りざま、その人と一瞬目が合ったように感じた。まるで誰かと俺の顔だけを確認するように。


 悪魔の最後の悪あがきで横殴りに放り投げられた無数の瓦礫の雨が、俺たちの眼前へと迫っていた。


 ぁ……。


 だが、土瀝青スレスレで下から掬い上げるように振るう三本の鉤爪たる刃が、礫の投擲をあっさりと小石に等しく木っ端微塵にした。


 真横に目を向ければ、其処には真夜中の来訪者が立ち並んでいた。悠然と厳かな面持ちで、武器を握りしめて。


 二人は俺たちに僅かな意識も割く事無く、あの人の跡を追うようにして、猛然と駆け出していった。


 どれだけ周囲を見回しても、其処に父の姿は見当たらなかった。


 。


 気付けば、姉が荒々しく息が乱れて膝を抱える寸前まで走り続け、坂道の頂上にまで逃げ仰せていた。


 身体中に響き渡らせる激しき鼓動を落ち着かせ、無意識に胸元に手を当てながら、呼吸を整えていく。


 姉は微かに小刻みに声を震わしながら、俺の頬へと緩やかに手を差し伸べんと、持っていくのだが、俺は血が零れ落ちる程に拳を握りしめ、後ずさる。


「何で、飛び出そうとしたの?」


「助けられると思ったから」


「正気⁉︎」


「助けてって言ったんだよ、俺に」


「……」


「何で、俺は、俺が……」


「良いんだよ、もう良いの」


 勢いに流されるまま、口走る。


「俺が死ねば、良かったんだ」


 その一言に姉は俺の肩を鷲掴みにして、揺さぶる。


「冬木っ!」


「何であの子が、何で俺じゃないんだ」


「本気で言ってるの⁉︎」


「……」


「死んじゃったら、もう二度とお母さんともお父さんとも会えないんだよ」


「俺の気持ちがわかるのかよっ‼︎」


 意味も無く暴れる俺を、姉は必死に押さえるも、下から掬い上げるように振り上げた手が、姉の前髪に当たってしまい、それはひらりと舞って翻した。


 そして、今まで隠れていた傷痕が顕となる。


「ぁ」


 目尻の際から斜めに数センチの深々と刻まれた爪痕に、俺はただ茫然とその傷から目を離し、次第に力が抜けていった。


 言葉が出ない。


 それは今まで張り詰めていた神経が剥がれるそれとは違い、脱力感に気力を失って力が抜け切った腕はぶら下がり、ぽたぽたと情けなく雫が滴り落ちる地面をただ眺めていた。


 分かっていたはずなのに、どうして俺は――自分己の不甲斐なさに、どうしようもなく反吐が出る。


「ごめん……」


 涙ぐんでしまい、声にもならない声を振り絞った。


「大丈夫だよ、それより怪我は?」

「うん……無いよ」


 空気に触れるごとにヒリヒリとした刺すような痛みが訴え、皮が捲れているであろう傷を姉はそっと前髪で隠した。


「行こう」

「え、どこに?」


「何処って――学校に決まってるでしょ?」


「……は?」


 顔を上げ、徐に振り返る。

 人々の悲鳴が高らかに響き渡り、谺する方へと。


 あぁ、そうか、そうだった、長らく忘れていた。

 

 これが、この世界の日常なんだ。

浅原恭二。24歳。188cm84kg。誕生日、7月6日。

2019年2月15日7時42分。商店街の路地裏にて殉教。

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