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第一話 前編 夢と現実の境界

異能とは、遍く人々其々の想いに呼応する。

それは善悪を問う事なく、決して相手を選ばない。


──だが、必ずと言っていい程に、いや……きっと。

大義を殉ずる意志には、人智を超えた力が開花する。

 ――亡者は戦わない、大切な鎖に繋がれるまで。


 食卓に並べられたご馳走に鮮血が広がっていく。

 一年に一度の祝福の日に誰の笑みも溢れはせず、ただ独り、さながら神の惰性で生まれ落ちた死に損ないが、身の程知らずな戯言を延々とほざくばかり……。


 穢れた身に纏いし白皚皚たる装束に緋色に染まった悪魔のツノを象徴とする徽章を胸に抱く非道の者を、血溜まりの大地で等しく無様な姿で跪かせるまでは、まだこの地獄に生き続けるだろう。何度死のうとも、死に場所を求めて彷徨い歩く、生ける屍のように。


 ()()()


 相不変に白皙であろう頬から赤き雫がとめどなく零れ落ちてゆき、雪景色の広がる床一面に迸っていく。


 僅かにぼやけた虚しい空間には血生臭さを多分に含んだ雨垂れとジャラジャラと煩わしき音が響き渡り、谺するほど静寂極まっていた。


 生殖機能が欠落した上、一日に三度も訪れる食事はおろか、心身共に癒す眠りでさえも惰性で迎える、傀儡人形が安逸を貪る日々も漸く終焉の兆しが見えた。


 さぁ。終わりの始まりの前奏曲と行こうか。


 ()


 目の前に鎮座する真っ白なホールケーキ、その上に浮かぶ12本の炎が暗がりの居間を微かに灯していた。


 燃ゆる焔越しに朧げな家族を一瞥すれば、痩せこけた手を重ねる母が視線を送る先、傷痕の絶えぬ父が消えた炎を照らす傍ら、にんまりとした笑みを浮かべて礼儀作法を重んじれぬ姉が机上に両肘を突いていた。


 ()()()()()()()()()()()()()()、徐にケーキに視線を戻して息を吸い込み、今日だけは幸せなため息を「フゥーー」と吹けば、火種ごとゆらゆら戦ぎながら消えてゆき、フッと真っ暗闇が辺りを覆い尽くした。


 すると、幾つものクラッカーの乾いた音が部屋中に鳴り響き、やや遅れた頭上の眩い光に目がやられて、ふと掌を眼前に翳して指の隙間から垣間見える。


 俺一点に熱く注がれた、みんなのあたたかな視線。


 そして。


「おめでとーっ!」

「おめでとう……」

「おめでとう」


 ずっと耳にしなかった全員(家族)からの言葉に頬が緩み、目が潤んでしまいそうだった。


「冬木も13歳かぁ〜。もう歴とした中学生だね」


「なんだよそれ」


「ほらぁ主役なんだから」そうフォークを差し出され「うん、わかってるよ」俺は覚えずして受け取った。


 身に覚えもなく声が弾んで顔を熱らせながらも、

純白の生クリームに体が勝手に吸い寄せられていき、我が姉()()()()一目散に頬張っていた。


 俺は口一杯に広がる甘美を凌駕したくどさが全身に鮮烈に染み渡ることにさえも微笑んでしまい、皆んなも溢れんばかりの笑みで部屋中を覆い尽くしていた。


 必ず誰かが席を空けていた日常の中、今日という日に食卓を囲んでいられるのはきっと奇蹟なんだろう。


 とても胸が、体が騒いでる。いつまでも、ずっと。


 不思議と全身に広がっていくどんよりとした気怠さと体の内から焼け焦げる気持ち悪さが襲い始め、微睡みに誘われた眼を何度となく瞬かせていたら、姉が一驚を満喫しながら半ば強引に俺を寝室に連行させた。


 いつになく荒々しく乱れる呼吸を整えんとするうちに埃一つ無い、ふかふかなマットレスへと横たわり、炙られるような熱気を一瞬で放つ、毛布に包まれる。


(大?)(丈?)ぶ?」


 何故だか霞んだ視界と途切れ途切れの誰かの声に、熱湯を浸かったが如く顎を小さく繰り返し頷かせた。


 そのまま今日一鮮やかなる思い出に浸りながら、()()()()()()()()()()()身を縮こめて瞼が閉ざされる。


「… …。?」


 ベッドに沈んで僅か数秒、日々の疲れが祟ったのか、意識が薄れゆくのにそう時間はかからなかった。


 また、気付けばいつもと変わらない朝を迎える。


 そう思っていた。


 けれど、ふっつりと途切れていた筈の曖昧な感覚が鮮明なるものへと還ってゆき、体は自由を取り戻す。


 やがては真っ暗闇に呑まれていた視界が急に開け、直視できないほどの煌々とした光に包まれた。


 其処には目に映った全ての色が雪のような空間。閉塞的でだだっ広く、限りなく殺風景な場所であった。


 何一つ状況が飲み込めない中、俺は無意識のうちに恐る恐る緩やかに、自らの体を見下ろしていた。


 普段から特に愛着も無く着込む灰色の寝巻きに、素足で地べたに仁王立ち。


 手を握ると感触が、爪を立てれば痛みもあった。


 訳がわからない。


 夢か? いやそれにしては妙に現実的でまるで映画の中に紛れ込んだような感覚に陥ってしまいそうだ。


 静寂。


 未だ心中は頗る穏やかなものではないが、兎にも角にも進まねばなるまいと稚児たる一歩を踏み出した。


 。


 足の裏には凹凸が微塵も感じられない平坦でいて、正に乾いた薄氷を踏む思いを抱かせる、楽な道のり。


「明 晰 夢。に、しては――随分と寂しい場所だな」


 漠然とした恐怖が身軽な足取りに鉄球を引き摺るが如く重苦しさを纏わり付かせ、背後からは謎の突き刺すような視線が突き立てられた感覚を覚え、数歩、たった数歩と距離を縮めては、忙しなく振り返る。


 そんな瑣末なことを幾度となく繰り返しながらも、童話の亀君を見習って着々と進んでいく。


 満目蕭条(まんもくしょうじょう)たる変わり映えのしない光景に空虚な気持ちが続くばかりで、ペタペタとただペンギンみたいな足音ばかりが響き渡り、頻りに涼しさが襲った。


「ハァァ、疲れるのかよ」


 どれだけ進んだのだろうか。まぁ、熱を帯びた身体の上にふらつく歩みがセットでは、あるかもわからない出口の蜃気楼はおろか、道半ばが関の山か。


「ホンット、最悪の悪夢だな」


 けれど、そんな牛歩の進歩が奇しくもこの空間について、幾つかの疑問を解消してしまった。


 ただの気紛れで真相も実しやかではあるが、どうやら、この果てなき空間の横幅には限界があり、同様に上を見上げれば、当然のように天井が存在する。


 しかし前後に、縦幅には真っ白な空間が際限なく続いているようだ。……それはまるで、長方形の箱の中にでも閉じ込められているかのようであった。


 そして、こんなに広々とした空間なのに、不思議と息が詰まるような、永遠に続くんじゃないかと、そんな漠然と覆い尽くす煩慮の念に蝕まれていく。


 ん?


 そんな正に地獄の時間は唐突に終わりを告げる。


 視界に呑んだ、眼前の白壁。


 すっと歩みを止め、平たく凛とした壁に手を触れる。


 チッ。


 残念ながら近未来な開閉も望めず、何かを感じることもなかった。


 やはり、自覚と痛みが足りないのだろうか。


 そもそも此処は一体何なんだ? まさか、これが俺の異能(能力)なのか?


 まだこの歳になっても、たった一つの異能さえも開花していないし、同じ年頃の生徒達が凡人に相応しい三つもの力をひけらかしているのだから、突然、一つや二つ、発現したっておかしくない筈だ。


 なのに不可解なことにそんな実感がまるで無い。


 それどころか、もしかしたらこの力のせいで、こんな狭っ苦しい場所で一生を過ごすかもしれない。全く此処に居ると物思いに耽ってしまうばかりだ。


「いっそ、死んでみるか?」


 薄らと浮かぶ影のような存在の稚拙な思案を巡らせ、そっと目を瞑りながら口元に手を当てていた。


 どうせ夢の中なんだし、やるだけやってみるか。


 そんなこんなで幻想に舞い戻って壁へ足を運び、息遣いが当たるまでに迫った瞬間、右手の拳を大きく後ろに引いて振りかぶり、勢いよく殴りつける。


「っっ!」


 指の骨から腕全体にかけて、鋭い痛みが走った。直様、突破口に目をやれば、渾身の一打を振るったにもかかわらず、僅かな痕すらも残っていなかった。


「チッ」


 壊すのは無理か、となると。徐に天を仰ぐ。

 

「ん?」


 さっきまで無かった筈の、天井と障壁の隙間から薄らと淡い月明かりのような光が差し込んでいた。


 まぁ、こんなに摩耗した壁ではよじ登る事など、天地がひっくり返ろうとも、不可能だろうが……。


 であれば。


 嫌な地平線に視線を戻しながら、腹に軽く空気を含んで膨らませ、怒号とともに一気に吐き出した。

 

「誰かぁ! いませんかぁー⁉︎ 居るんなら出てきてくださぁーいっ‼︎」


 閑静な空間に轟音が行き交い、谺する。


 ……だが。


 誰一人として呼び掛けに応える者はいなかった。


 そう思った矢先、何処からともなく視界の片隅に忽然と人影が映り込み、俺は立ち所に振り返った。


 それは孤高の一匹狼のように雄々しくも凛とし、一度触れてしまえば、火傷しそうな凍傷を起こしてしまいそうな、まるで人形のような子供であった。


 ()()()たる色褪せた短髪が鋭い双眸を覆い隠し、真冬にしてはやや軽装備な真緑のミリタリージャケットが矮躯を容易に覆い尽くして、風変わりな厚底ブーツを身に纏う、小学生低学年程度の謎の少年。


 そして、鎖に繋がれていた。


「きっ、君は?」


 俺の問いに、この状況にさえも微動だにしない。


 其々が異なりし三本の金属製の鎖は鈍色に輝き、

全ての鎖の先、鼠色の首輪によって縛られていた。


 その少年はフードを緩慢に深々と被りながら侵入者である俺の動向を窺うように無駄に数歩と距離を空けて後ずさると、静かにこちらを見つめ始める。


「ん?」


 むず痒さを訴え出した古傷をそっと掌で覆い隠せば、気持ち悪さは消えた。どうやらチクチクとした少年のであろう鋭い視線の先は首筋だったらしい。


「こんにちは。いや、おはようか?」


 そう自問自答して、投げやりな挨拶をぶつける。


「……」大暴投をお返しする気にもならないのか。


 口が無い? それとも話せない訳でもあるのか。俺の声で姿を現したってことは、鼓膜は機能しているようだけど。


「出口とかって、知ってたりしない?」


「」


「指差しとか身振り手振りでいいからさ! 何か、なにか教えてくれない?」


「」


 他者の心を動かせられぬ、己の不甲斐なさに憤りを感じるとともに、少年の無反応に不安を覚えた。


「ず、ずっと此処に居るの? これは――――夢?」


 その一言を皮切りに白皙なる頬から血涙が伝う。


「えっ、()っっ‼︎」


 真っ赤な鮮血が、純白の床へと滴り落ちていく。


 時同じくして、両眼に今まで体験したことのない激痛が走る。それは無数のガラスの破片が眼球内を縦横無尽に優雅に泳いで、絶えず襲い続ける異物感と幾度となく切り裂くような感覚で。


 けれど、どうしても目を閉じる事ができなかった。


 それはきっと赤の他人とは思えない少年の姿に面影を重ね、それには見覚えがあったからに他ならない。


 左腕で片眼を覆い尽くしながら少年に触れんと真っ赤に染まった心許ない視界を頼りに、躙り寄っていくが、その見え透いた思考を遮るかのように全ての真っ白な空間が突如として、姿を変えた。


「は⁉︎」


 過去に父から聞いていた砂の雨という物が現れて、見渡す限りの全面にして全域に、()()が覆う。


 だとすれば、これは液晶画面の映像なのか?

 

 本来ならザーザーと、漣紛いの耳障りな雑音が流れると聞かされた父の話とは少し乖離しているようだ。そもそも夢と言えども真っ白な空間が突然、昔のテレビ画面に変わるのだろうか。


 だけど、無意識な動作に過ぎない瞬きが見せる、何処とない違和感が、頻りに脳裏をよぎっていく。


 これはまるで両目を精一杯瞑った時に現れる、無数の謎の集合体が蠢く様、いや、ボツボツと黒点混じりの雪が吹き荒れた光景を必然と想起させた。


 そして、その砂嵐はやがて、映像へと切り替わる。


 それはまるで俺のような目線で。


 それも我が家の居間を身震いさせて見回していく。


 蜃気楼も見えぬ忘却の彼方に過ぎ去っていた四隅の古傷までもが忠実に再現されているにもかかわらず、物心がつく頃から永遠にでしゃばり続ける照明は切れていて、久しぶりに食卓に迎えられた肉じゃがコロッケを誰一人として手を付けず、五月蝿い姉の声さえもしない、おどろおどろしい雰囲気を醸し出していた。


 ジャラジャラとした鎖らしき雑音が響き渡り、谺するばかりで、その場所は異様なまでの静寂に包まれていた。


 でも、それでも。


 小刻みに震える両手が、荒々しく乱れた呼吸が、心臓が早鐘を打つ音がするのは、想像に難くなかった。

 

 そんな目を背けたくなるような悪夢が続く最中、

視界の端に床を埋め尽くしていた、何かを捉える。


 それは、朧げで小刻みに震わせた眼でも容易に、頻りに他所へと泳がせようとしても明らかに――。


 真っ赤な血溜まりが広がっていた。


 視点は女子高校生くらいの背格好の者の上に覆い被さる、手の甲の血管に僅かな皺を見せる病弱で痩躯な四十路程度の女性を花よりも蝶よりも丁重にどかし、今まで隠れていた二人の面差しが露わなとなった。


 ……は?


 俺は息をするのさえ忘れてしまった。


 その瞬間、それは聞き慣れたなどとは表せないほどに、毎日のように、いや口にしている、俺そのものの声にもならない声で振り絞るような声を上げていた。


 両手の掌には真っ赤な鮮血が満遍なく行き渡り、機能しない程に震わす眼の余波が忽ち手に伝播し、刹那に戦慄を覚えながら躙り寄るようにして後ずされば、ふと、視界の端に映り込んだコップの硝子の破片。


 床に散らばったガラスのコップの破片を目にし、その選択に一切の迷いなく、瞬く間に拾い上げた。


 鋭利な破片の先端に真っ赤な鮮血が滴っていく、その矛先はまごうことなき、両眼へと向けていた。


 硝子を零れ落ちてしまいそうな片手を徐に支え、一瞬にして破片が眼前に迫っていき、触れる寸前に、俺は……思わず、()を閉じてしまった。


「ハァァァッッ……‼︎ ハァ、はぁ、フーッ――!」


 立て続けの不可解な現象に動揺したのも束の間、少年の行く末さえも分からぬまま、瞬きをするかの如く速さで、元の空間へと引き戻されてしまった。


 少年はつぶさな緋色の血の涙をとめどなく流しても、言葉を失うほどに鋭く、激しい痛みだろう筈が、痛みに悶えることはおろか、顔色一つ変えはしない。


 それは、まるで生ける屍のようであった。


 謎の屍は鮮血の伝う頬を軽くなぞり、流れるように壁に文字を刻むも、描いた側から見る見るうちに跡形もなく消えていき、脈絡もなくその場で飛び跳ね始めた。

 それは次第に軽いステップに、やがて息も付かせぬ運動前の準備体操を始めるかのような動きまで。

 瞬間、体を俺に目掛けて倒しながら、駆け出す。


 軽やかにして華麗なる機敏な走り出しで、直様、息遣いが当たるほどの眼前へと迫り来る。


 人様の肩を平気で踏み台にして二回りもある俺を軽々と飛び越えて、頭上に掌を翳した。


 瞬間、足元からジャラジャラとした、重厚感と金属がぶつかり合うような、うるさい音が聞こえた。


 咄嗟に視線を天から地へと移せば、絶え間なく滴り落ちていた雫が止んだ床から、それは迫り出す。


 打ち上げられた活きの良い大物のような鎖。


「は⁉︎」


 鎖は一瞬にして俺の脚に円を描いて巻き付いて、さながら大蛇が獲物を搔っ食らうように絡み付く。


 それはまるで、意志があると思えてしまうほどに。


「っぐ‼︎」


 ゴリゴリと骨の関節を砕く勢いの軋みを上げて、それは更に強く、次第に上へ上へとよじ登るように鈍い痛みを襲い続けながら、限りなく縛っていく。


「ぁっ! うぁぁっっ‼︎」


 必死に振り解こうと足掻くも、依然として足の裏を床に貼り付けたまま、一歩も動けはしなかった。


 膨れた焦燥感が冷や汗となって額に滴っていき、脱兎の如く爽快な跳躍を見せた少年へ目を向ける。


「おい! お前は一体、何がしたいんだよ⁉︎」


 風が無くとも、地面に着地する寸前に、ふわりとフードが靡いて翻されて、少年の瞳が垣間見える。

それは心の底から悲しく哀愁漂わせる姿であった。


「っ‼︎」


 同情も虚しく、静かに水平に突き出した手の平を小指から順に、手の内にゆっくり畳み始めていく。


 挑発か、将又力の使用条件かは定かではないが、一本、また一本と指を折り曲げる度に、鎖が体を強く締め付けていき、やがて鋭い痛みに移り変わり、それはもう胸にまで迫っていた。


「うっ‼︎」


 胴が次第に捻れ始め、「普通に考えて話をすべきだろ、先ずは‼︎」怒号を飛ばすも、「……」少年は全く聞く耳を持たず、躊躇なく中指を折り曲げやがった。


「あっ⁉︎ うっ!」


 遂に鎖は首筋にまで上り詰め、無意識に涙が出てしまいそうな痛みで意識が飛びそうになる真っ只中に、今正に暗雲立ち込める絶望的な状況を打開すべく、限りなく可能性の高い選択に思考を巡らせていく。


 幸いなことに腕は駄目だったが、手は動かせる。それに顎も、舌だって。もしかしたらまだ助かるのかもしれない。


 まだ死ねない、死にたくない、死ねないんだよ。


 我が忘れそうになる一刹那、この場ででき得る限界まで絞り切った頭に思い浮かぶのは、ただ一つ。


「なぁ、これは夢……なんだろ? だったら――」


 死んだって構わないよな。


 顎を大きく開いて、舌を最大限まで伸ばし、下顎に右の掌をそっと当てて、左の拳を強く握りしめる。


 緩慢に左手を垂直に下ろすと、それに即座に反応したかのように、鎖は進路を変えて肘に巻き付き、俺は慌てて、左手を振り上げる。


 鎖が体の自由を奪うよりも僅かに早く、拳はぶつかり合う。顎に手を当てていた右手の手の甲へと。


「⁉︎」


 一縷の光明が差すように天井に覆い被さっていた何かの蓋が外れて、皓皓たる眩い光が胸を差した。


 確実に叩いた瞬間、再び体の感覚が消えてゆき、視界は端々から徐々に闇に埋め尽くされていった。


 。


 ハッと目を覚ませば、体を脱兎の如く宙を浮くように跳ね上げて、ベットから上体を飛び起きれば……。


 其処は、いつもと何も変わらないベットであった。


「ハッッアア……。ハァハァハァ」


 荒げた呼吸が脈々と続き、物を持つことさえままならない程小刻みに震わす手で、そっと首筋に触れた。


 何もない。


 鈍い輝きを放つ鼠色の首輪に、其々が異なる鎖。

 決して断ち切れぬことのないであろう鎖から、柔らかな首筋を愛撫するように触診して解る、逃れられない呪縛から解き放たれた開放感とともに身体中を覆い尽くしていた恐怖が剥がれ落ちた。


 胸を服越しにギュッと握りしめ、ひしひしと伝わってくる痛みが、奇しくも生の実感を味合わせ、心の底から安堵して、そっと胸を撫で下ろそうとした――。


 その時。


 視界の端に灯りがチラつく。


 それと同時に冷たい風が部屋に吹き込んでいた。

 不思議と窓ガラスが半開きになっていて、仄かに透き通った純白のカーテンがふわりと靡いている。


 窓の真下であったベットが幸いし、冬真っ盛りにもかかわらず、嫌な気持ち悪い脱力感と沸騰寸前であった体中の熱を行水直後のような滝の汗を流し、俺に涼しげなそよ風を絶え間なく届けてくれていたのだが、


「っ。は?」


 カーテンを開けた覚えなど無い。


 窓からカーテン越しに自室へと差し込む、単なる皓皓とした月明かりに過ぎない。それなのに、瞼の裏に焼き付いて離れない灯りと重ねることを禁じ得ない。


 未だ尚僅かに他所に泳ぐ目を恐る恐るカーテンをそっと開きながら向ければ、微かに霞んで鈍色に淀んだ空模様に、煌びやかな三日月が昇っていた。


 再び胸に視線を戻せば、月光が胸を突き刺し、泡沫夢幻な現実逃避をする俺を強引に覚まさせた。


 そのまま流れるように左手を毛布を進みながら左足首を触れてゆけば、明らかに鎖に縛られて出来た内出血の傷痕が真新しく残っていた。

 

 舌には寝る前までは無かった筈のジンジンとした鈍い痛みが走っていて、腕や脚にも赤みを帯びて腫れて内出血を起こし、何かに締め付けられた痕があった。


 それはまるで鎖のような。


 そして、切り裂くような鋭く激しい痛みの乱射が、ようやっと治りつつあった両目から突然、()()()頬から顎下へと滴ってゆき、零れ落ちた。


 徐に愛撫するように頬を濡らす雫に手を触れる。

ややベッタリと湿った液体に、忽ち背筋が凍った。


 指の腹に満遍なく真っ赤に染まった、血の涙に。


 。


 びっしょりとずぶ濡れた寝巻きを指先で摘んで、パタパタと扇ぎながら、ゆっくりと呼吸を整えていく。


「み、水……飲むか」


 そそくさと立ち上がり、その場から逃げるように干からびてしまうほどに流した冷や汗と、不思議な涙で失った水分を補うべく、ドアノブより少し低い位置に貫く寸前まで殴り痕が残った扉に向かった。


「はぁぁ。いつ見ても、酷いなこれは」


 キンと冷えたドアノブに手を掛け、静かに開く。


 もうどうせ悪夢のせいで眠れないのだから、ついでにあの馬鹿な姉の洗濯物でも洗っておくか。


 爪先を隣の部屋に流れるように廻らせ、大股数歩で半開きになった扉の奥へと歩みを進めていった。


「ハァ」


 外が薄らと見える雑なカーテン、床に平然と脱ぎ捨てた洗濯物に捲れた毛布と散乱したゴミ、目に見えるだけでも、数個もの姉の杜撰さが容易に窺える。


 そして、今にもベットから落ちそうな阿呆な姉。


 でも、微かに頭の何処かに掛かっていた霧が晴れたような気がする。今日だけは感謝しよう。その寝顔に。


 不要な感謝を終えた俺は、淡々と姉の後始末に貴重な時間を割いていく。視界に入った順から進めていき、雑に捲れた毛布を胸元まで掛けていくが、いつにも増して静かな寝息を立てて、まるで人形のような面差しをする姉に思わず首に颯と手を触れる。


 真新しい時計の針さながらに何事もなく安定した脈を打っていて、僅かな手の震えは静かに治った。


 。


 洗濯物を小脇に抱えて、幾つもの紙を鷲掴みにしながらゴミ箱に投げ込もうとしたが、中に一つだけぐしゃぐしゃに丸められた、一枚の封筒があった。


 ……?


 その紙を片手で擦り合わせるように広げていき、デカデカと表紙に記された三つの文字が明かされる。


 推薦状。


 推薦状。推薦状? 余程、酔狂な部長か顧問でもいるのだろうか。いや、そういえば最近、やけに熱心な独りぼっちの黒スーツで丸眼鏡の男の人が懲りずに家に来ていたような気がする。


 あれは、憐れなセールスマンじゃなかったのか。


 推薦状をひらりと裏返せば、こう記されていた。


 デビルハンター埼玉支部。住所――と。


 ……。


 推薦状を握りしめ、緩やかに姉に視線を向ける。


 いつまでも俺を純粋無垢で無知な弟として弄び、寝顔ばかりに可愛さが全振りされた身勝手な奴だ。


 俺は、きっといつまでも、このままなのだろう。


 最後のゴミを投げ捨てて、さっさと退散した。


 妙に視界がぼやけて、歪んだ廊下を進んだ先の、

足元が見えない上に無駄に騒がしく軋みを上げる、脆弱な階段を二段飛ばしで軽快に駆け降りていく。


 だが、丁度突き当たりに差し掛かったところで、不意にブレーキを掛けるように颯と歩みを止めた。


 それは玄関前で誰かの話し声がしたからに他ならない。それも家族以外の、聞き覚えのない幾つもの声色が入り混じって。


 玄関がかろうじて見える限界まで壁沿いに身を寄せながら、足音を忍ばせてゆっくりと降りていく。


 そして、ようやく辿り着き、壁際の影に身を隠して、音を立てぬようにひっそりと身を乗り出した。


 僅かに覗き見る体勢は無駄に負荷が大きく、早々に無駄に辛い苦しみと格闘しながらも、垣間見る。


 その瞬間、完全に思考が停止した。


 猛禽さながらの鋭い眼光が静かに俺を捉えていた。それは身の毛のよだつ、恐怖心を俄かに掻き立てて、思わず息を呑むほどに。だが、直様他所に目を移し、再び、知らんぷりで淡白で瑣末な会話へと舞い戻る。


 今、確実に目が合った気がするが……。


 疑問が頻りに脳裏をチラつきながらも、暗闇に慣れてきた目で周りの人達の姿を順に目を泳がせていく。

 

 其処には、父を合わせて四人の大人が立ち並び、玄関前の床に靴紐を結ばんと項垂れた父を除いて、何だかとてもくだらなそうな言葉を交わしていた。


 いや、その中にあと一人だけ、寡黙な人が居た。


 玄関と床の狭間に居た父を注視する一人の女性、真っ赤で艶やかな肩先程度の長髪を後ろで束ねて、服越しでも伝わるすらっとした肉体の上の頬には、焼き爛れた古傷が左眼の眼帯にまで広がっていた。


 妙に違和感があるが、一体、誰なんだろうか。


 少し距離があるせいなのか声のトーンが暗く、節々が途切れて、所々聞き取れないが、俺はそのままその場で息を殺して座り込んで、こっそりと耳を欹てて、盗み聞きを始めさせてもらうことにした。


「最近どう?」


「何がだ」


「弟君のことよ、ちゃんと元気してる?」


「あぁ、お陰様で相変わらずだ。よく笑うが、一人でよく抱え込む上、やることなすこと危なかっしくて仕方ない。まだまだ目が離せず、付きっきりだ」


「へぇ〜」


「そういうお前はどうなんだ?」


「私? 私は可愛い妹の為に精一杯尽くしてるし、細かな変化にも気付いて、相談にも乗ってるよ? ちょっとは考えを理解してあげたらどう?」


「隊長の前でも妹の為と偽善を宣い、平然と獣人の衣装を纏ったお前に言われる筋合いは無いんだよ」


「私がただ自分の欲を満たしたいからやってると、本気で思ってるの⁉︎」


「あぁ、そう言ったつもりだが?」


「こっちだって色々とあるからこうしてっ」


「ちょっと二人共いい加減にしなさい。もう夜遅いんだから、子供たちが起きてきたらどうするの?」


「たち?」


「もう遅い」


「え?」


 俺目掛けて一点に注がれんとする視線を逃れるが如く、咄嗟に影に身を隠すも、勢い余って壁に背をぶつけてしまった。


「ごめんなさい、春奈さん起こしちゃいました?」


「いや多分、ユキだ。降りてきて構わないよ」


 駆け足で階段を降りていき、父の横に立ち並んで、不服ながらもその謎の三人に深々と首を垂れた。


「こ、こんばんは」


「……こんばんは」

「こんばんは〜」

「どうも――」


 どこか気まずさを隠せない赤髪の女性に、朗らかなゆったりとした声色の尻尾の人と、其に相反した鷹。


 上目で緩慢に顔を上げれば二匹に増えた猛禽類が、突き刺すような視線で静かに俺を見下ろしていた。


 何故か、面影に見覚えがある気がしてならない。

もし、後五年生まれてくるのが遅ければ、間違いなくトラウマになっていただろう。まぁ、この歳になっても瞼の裏に焼き付いて、消えはしないのだが。


 ん? 待てよ? 尻尾?


 意気揚々と言葉を雑に並べ立てていた女子高生。


 その女子高生は臀部の辺りにふんわりした尻尾、尻尾? らしき物が、ゆらゆらと揺れ動いていた。


 面差しに目を向ければ……。


 人生が何不自由なく順調に進んでいるかの如く、にんまりと口角を上げ続ける人と変わらない肌に、もこもこと暖かで柔らかそうな狐色の臀部の尻尾と新たなる狐耳とはやや異なった、淡い白の混ざり、腰にまで手が届く手入れが大変そうな長髪だった。


 何処かで、コスプレ大会でもやっているのかな。


 最後に俺を睨んできた一人の青年らしき男の人。

 猛禽に違わぬ鋭い眼光がまごうことなき俺自身へと一直線に突き刺していたが、黄昏色を帯びた短髪が険しい両目をほんのりと緩和させてくれていた。


 其々が異なる摩訶不思議で物騒な武器を携帯し、仄かに血生臭さを漂わせる黒スーツを纏っていた。


 狐さんはまんまのふわふわした両手用の鉤爪で、眼帯さんは長方形の真っ黒でケース? を背負い、鷹は腰に真っ白な鞘に二本のナイフを収めていた。


「知り合い?」


 父に訊ねると、気怠そうに三人に目を泳がせる。


「一番左が花森に、前に居るのが喜田で、す――」


「そろそろ時間です、行きましょう」


 恐らく最後の一人であろう青年が父の言葉を遮ってしまい、肝心の鷹さんの名を聞きそびれてしまった。


 花森、華森、花守。喜多、喜田、記多、ど、どれだ? まぁ、際物の集まりだからきっと、名字も珍しい方だろう。


「記多さんと花守さんたちと、何処に行くの?」


「少し急用なんだ、朝までには必ず帰ってくるよ」


「そう、なんだ。気を付けてね」


「あぁ、ありがとう」


 俺は無意識に凝視する。そそくさと背を向けんと爪先を玄関に巡らし、居た堪れなさとまるで何かに怯えるかのような思いが入り混じった赤髪さんを。


 その視線に気づいたのか弓道部のような格好ですぐさま一瞥し、目線が緩やかに下へと流れていく。


 その歩みを止めた赤髪を疑問に思ったのか、鷹と狐も続くように踵を返して、こちらに振り返った。


 突然、鷹だけが静かに鼻を啜り出して。


「そろそろ言っ」

「まだだ」


 父の咳払いが声を震わす赤髪さんの言葉に被り、他の二人は疾くに赤髪さんに怪訝な眼差しを向けた。


「行くぞ」


「えぇ、そう……ね」


 父さんは靴を履き終えると、不完全燃焼のまま、いつもとはまるで形相の異なる厳かな面持ちで、右腕に不可思議で真っ白な機械鎧に等しき装備を纏い、皆んなの意識を引き締めるような声を上げて、無礼者御一行と共に何処かへ行ってしまった。


「ぁ。――ん?」


 何処からか仄かに皮膚のようなものと鉄臭い何かが焼け焦げた匂いが鼻の奥を突き抜けて、掌にはジンジンと鈍い痛みが絶えず襲っていた。


 掌に目を向ければ、じわじわと緋色の血潮が噴き出して、全ての爪が真っ赤な鮮血で染まっていた。


「は?」


 …………。


 顔でも洗うか。


 真っ暗闇な一階の廊下を体を傾げて曲がった先、鏡に映し出されたのは、異様な姿の少年であった。


 仄かに幼さを匂わせる無垢にして、父母とはやや異なった我ながらの眉目秀麗であるが、無造作で真っ黒な短髪の中から、疎にばら撒かれた都会に降り注ぐ、淡雪さながらの白髪が煩わしく外へと覗かせていた。


 そして、喉元には鋭く切り裂かれた傷痕が今も尚、俺の心までも深々と刻んで、じわじわと蝕んでいる。


 まぁ、俺。なんだけど。

黒瀬家の雑な紹介

黒瀬燈和。46歳。186cm72kg。誕生日、1月1日。

好きなもの。梅酒、鮭

異能。吸収、放出、一時的な著しい身体能力の向上。

種族・人間

日常生活、基本的に和服着用しての介護必至生活。

趣味、日向ぼっこと突然の真夜中の散歩に酒浴び。

服装、基本ストレートのワーク系。

小ネタ、冬木の木の部分の命名を酷く後悔している。


黒瀬愛衣。40歳。169cm50kg。誕生日、9月3日。

好きなもの。和菓子、花見

異能。不老、冷却、治癒。

種族・人間

日常生活、虚無感と共に過ごす病院生活。

趣味、昔はお菓子作り、今は編み物。

服装、凛として大人びた地味めな黒系が似合う色合い


黒瀬春奈、17歳。178cm68kg。誕生日、8月28日。

好きなもの。桜餅、冬木

異能。吸収、不老、常時身体能力の向上。

種族・人間

日常生活、外面は良く、内面はボロボロ。だが、食事の作法など一般的なマナーは絶対厳守を貫徹。

趣味、冬木に対するちょっかいや親友二人との映画鑑賞などの遊び三昧の日々。そして、ダークマター作り

服装、かわいい系が好きだけど、しっとりと大人びた格好が似合う。


異能ランキング、例、獄、秀、優、良、可、不可、無異能の基本的な強さや機能性、その代償などを含む。

黒瀬燈和 一つ目、良。二つ目、秀。三つ目、優。

黒瀬愛衣 一つ目、秀。二つ目、可。三つ目、優。

黒瀬春奈。一つ目、良。二つ目、秀。三つ目、優。


鎖の少年。7歳〜9歳程度。105〜110cm。体重不明

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冒頭のとても丁寧な謎の語り手と淡々と続く不気味な日常が次第に壊れていく危うい黒瀬家に魅入られました。前書きと後書きで開示されていく世界観の小ネタも、語り手っぽい子のこの世恨みつらみも、無駄に説明的にす…
[良い点] 拝読に参りました! 宜しくお願い致します♪ 詩的で古文書の朗読のような高尚な文章でとても読み応えがあり、また勉強になります(凄いです…! 13本の蝋燭というワードで13歳の誕生日をわか…
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