北限の地
011
なんなのだ、これは。
冷たい大理石の感触を背中に感じながらフィリップ・モナーク・カートレットは自問した。
周囲は炎と煙に包まれ、店の天井からは日の光を失った深い藍色の空を見ることができる。
時折聞こえるのは、何かが炸裂したかのような爆発音と地鳴り、亜龍の咆哮。そして老若男女を問わない苦痛に歪んだ悲鳴だった。煙と血と焼けた肉の匂いが鼻を突いた。
フィリップは自身の腕の中でうずくまる肉塊に視線を落とした。
理解ができない。
自分が何かを理解できていないことは、自分の内部にある冷静な部分が不思議と理解している。
だが、それがなんなのか。今、ハンプトンの街では何が起こっているのか。自分の腕の中にあるこの肉の塊はなぜここにあるのか。
わからない。
脳が理解を拒んでいる。
だが、涙は溢れてくる。額に負った火傷の痛みによるものじゃない。何か、大切なものを失ったのだ。もう、一生会えない。それは理解していた。
フィリップは腕の中の肉塊──樽一個分ほどのサイズ──を投げ捨て、よろよろと立ち上がった。肉は女性の上半身のように見えたが、気にしない。気にしてはならない。なぜが頭の中で強烈にそう思えた。
この時、フィリップの脳は一瞬の現実逃避を実行していた。幸せを自覚した直後の転落。その差に彼の精神は耐え切れなかったのだ。
店に直撃した爆弾。その破片で両断された美しい女性の存在を強制的に自身の脳内から削除することで、精神の崩壊を辛うじて阻止している。
フィリップスは壁に手をつき、店の外を目指して歩いた。あまりの高熱で変形すらしている壁は、彼の手のひらの皮を剥ぎ取り、そしてその手形を残した。
ありとありうる外的事象をシャットアウトしているフィリップスはそれに気づかず、進み続ける。焼かれ、切り刻まれた死体の散乱する店内を。
やがて道に出る。
逃げ回る人々を横目に、フィリップは火を吹き上げる街と黒煙に焦がされた空を飛ぶ龍兵の編隊を見た。
この時、フィリップの現実逃避に新たな要素が加わった。
俺はマーキュハスの艦長だ。だから、ドックに行って被害状況を確認せねば、である。
一瞬で世界でも稀に見る不幸に陥った海軍大佐は、よろめきながら海軍工廠へ歩いていった。この時響いた亜龍の咆哮が、なぜが耳にこびりついた。
012
強烈な寒風が吹きつけていた。
左側にはどこまでも続く白い砂漠が見えており、右側には無数の剣山がそびえている。
清浦篤胤ら〈皇国〉海軍西方先遣支隊がいる場所はそれらの間を縫う様に続いている“北限航路”──その最終行程のフィッツジェラルド海峡に差し掛かるあたりだ。
そこを四隻の黒龍型巡洋戦艦を基幹とする艦隊は単縦陣で進んでいた。
「前方より発光信号。されど解読不可!」
支隊主力戦隊の先頭を進む「黒龍」の露天艦橋に見張員の報告が飛び込んだ。
司令官席に身を沈める清浦はそれを聞いて片眉毛を少し上げただけだった。
なぜなら、極北用大外套すら貫通する寒風に身を縮こませることに忙しい。
それに、特にやることもない。
艦隊運動に関する命令は、すでに発している。
あとは部下次第だった。
「馬鹿野郎。そんな報告があるか!」
前檣楼見張分隊の先任海曹が怒鳴る。
清浦は見張員が可哀想だな、と思った。艦隊の周辺は“龍の鱗”と呼ばれる自然現象に覆われている。
つまり、暴風に混ざった氷の結晶が恒天の光を反射し、あたりは煌びやかな輝きに包まれていた。
「綺麗……」
艦橋脇に立つ朝比奈歌織がぼそりと呟いた。
龍神機関が指定してある神官用大外套に身を包んでいる彼女の肩には、二等神官補しめす二本の銀棒と二つの龍章──龍の横顔をかたどったものが付いている。
肩書きは派遣神官団筆頭契約神官、ということになるらしい。
「お母さんにも見せたかったな」
その言葉が耳に入り、清浦はちらりと彼女を見た。
極北の自然現象に魅入られた朝比奈歌織の横顔は美しかった。
だが、少し哀しみのようなものもうかがえる。
この航海中、清浦と朝比奈は〈龍〉やこれからの戦いについて議論を重ねてきたが、私的な事情を話題にするまでには至っていない。
清浦的には彼女に聞きたいことは多々あったものの、何か触れてはいけないものを感じ、話題にするのは憚られたのだ。
しかし、龍に願うものを尋ねた際の不穏な態度も気になる。
それを理解する一助になるかもしれないと思い、清浦はおもむろに訊ねた。
「お母様はご病気か何かで?」
「亡くなりました。三年前に」
清浦は表情を固めた。
「それは……。申し訳ないことを聞きました」
「いいえ、もう大丈夫です。それより、この海峡を超えたらいよいよ〈大龍洋〉ですね」
「三週間もかかりました」
清浦はため息混じりに言った。
───西遣支隊が淡浜泊地を出発したのが二二日前になる。〈諸王国聯合〉が〈帝国〉に宣戦布告をしたことを受け、一〇日早めた出港であった。
出港後、支隊は〈皇国〉北領群島の北を迂回し、北限航路へ進入した。
この航路は帆走艦時代の〈帝国〉海軍士官であるフィッツジェラルド卿が発見した比較的新しいもので、極北大陸の氷とユーランゲル大陸北海岸の間の、わずかな隙間を縫うようにして東西世界を結んでいる。
しかし、この“航路”と名付けられてはいる存在はその名を語る大型河川でしかなかった。
実際には運河ほどの幅しかない部分がほとんどであり、加えて極地であるため、流氷も多く、たびたび支隊は足止めを食わされることになった。
さらには同航路は東から西へ温暖な潮が流入することで氷結が防がれてるという特性があり、急激な海流に常に気を使う必要もあった。
この様な悪条件からこの航路を常用する国家はほとんどいない。
平時ならば、ユーランゲル大陸南方の温暖な大洋を横切る方が遥かに楽だからだ。
しかしながら現状、南方航路は封鎖されている。
〈帝国〉間〈諸王国聯合〉の北大龍洋を戦場とした戦いは激化している。
これを受け聯合と軍事同盟を締結している〈皇国〉は条項履行を名分として〈帝国〉に宣戦を布告した。
つまり、南方航路上の諸島や海洋は〈皇国〉と〈帝国〉の激しい制海権の争奪戦が繰り広げられる戦火の海と化しているのだ。
「そのような海域を強引に突破するのは危険きすぎる」と聯合艦隊が判断したため、支隊は座礁の危険の絶えない北限航路を進んでいた。
「右前方に艦影視認。嚮導隊旗艦と認む!」
見張員の新たな報告で清浦は追憶の渦から戻った。
報告にあった方向に双眼鏡を向ける。
すると、“龍の鱗”の先に、おぼろげにではあるが艦の輪郭を見ることができた。
襲撃艦より巨大で、装甲巡航艦より小さい。
磐渓型偵察巡航艦の一隻である「斬雪」だった。
南海艦隊から西遣支隊に配置替えとなった第二襲撃水雷戦隊の旗艦を務める艦で、現状では支隊主力戦隊の航路上の安全を確保する嚮導隊の旗艦となっている。
特徴的な見た目をしている。
大型艦橋と後部檣楼の間に五本の煙突が並んでいる様は、見間違えようがない。
「む」
清浦は片方の眉毛を上げた。
「斬雪」は発光信号を瞬かせていた。
だが“龍の鱗”に妨げられてよく見えない。
その時、報告が上げられた。
見張員からではなく、前部大檣楼の頂点に位置している主砲射撃指揮所からだった。
「射撃指揮所より操舵艦橋。前方に氷山。距離五〇〇レーテル。大きい」
それを聞いた朝比奈が顔を青くした。
「斬雪」は氷山を支隊主力に伝えるために航路をUターンしてきたのだ。過去、氷山にぶつかって沈んだ鋼鉄艦は数知れない。
「大丈夫ですよ」
清浦は能天気な態度で朝比奈に言った。彼女はえーという顔になった。
「針路速度そのまま」
艦橋の中央で仁王立ちになっている艦長が命じた。
それを聞いて朝比奈はますます顔を青くした。
彼女が昨夜、艦の娯楽室で沈没パニックものの映画を視聴していたことを清浦は思い出した。
微笑するのを必死に抑える。
「黒龍」の艦首喫水線下には敵艦や巨大海棲生物に体当たり攻撃ができるよう、衝角が搭載されている。
つまり氷山などはなんの問題ではないのだが、それを彼女は知らない。
艦橋要員の皆も何も教えない。ニヤニヤするだけだ。
「各部、衝撃に備え」
艦長の指示で、皆が何か手頃なものにつかまった。
朝比奈などは「なんなんですか〜」と言いながら羅針盤に抱きついている。
見張員が定期的に氷山との距離を報告する。
艦首からの衝撃。氷が砕かれる豪音。
氷山は大型戦闘艦が激突したことで二つに分裂した。
「黒龍」が前進するにつれ、舷側に沿いながら左右に離れてゆく。氷が鋼鉄をひっかく不快な音が辺りに響いた。
続く「劔龍」「蜷龍」「龍義」は、長姉が開いた航路に従って氷山が浮かんでいた海域を微速で通過する。
巡洋戦艦戦隊に続き、生駒型装甲巡航艦四隻で編成された第七戦隊と補給艦「仁仙丸」も通過する。
それらに加え、嚮導隊に属する第二襲雷戦隊の偵察巡航艦「斬雪」、襲撃艦「秋雨」「時雨」「氷雨」「淡雪」「綿雪」「粉雪」、水雷艇「霙」「雹」「露」「霧」、巡戦戦隊直轄の通報艦「巻瀬」を加えた二〇隻が〈西方海域先遣支隊〉の全容だった。
支隊はフィッツジェラルド海峡を通過し、今や戦禍の海となった〈北大龍洋〉に入った。
目的地は〈諸王国聯合〉極地海軍基地〈ノーザンハーフェン〉。
そこまで半日の距離に来ている。