戦雲
005
戦艦「大津」聯合艦隊司令長官公室。
その部屋は聯合艦隊司令長官が参謀との会議や接客、執務に使うための部屋であり、艦隊の総旗艦を務められるように建造された「大津」特有の設備の一つであった。
清浦はその部屋の前にいた。
隣の壁には縦に「長官公室」と彫られた樹齢数百年は下らないと思われる木板がかけられている。
それを確認するや否や、扉を軽く叩いた。
「西遣支隊司令官清浦准将。ただ今参りました」
扉の向こうから低い「おぅ」という声が聞こえた。
低くとも軽快さを失わぬ声。大賀長官の声だった。
「失礼します」
部屋の内部は〈皇国〉海軍実動部隊の長の部屋にしては質素なものだった。
接客用の卓とそれを囲むソファーが二つに、艦隊司令長官用の執務卓。
装飾らしい装飾はなく、壁にかけられた「大津」の油絵が唯一と言ってよい。
清浦は部屋の観察を一瞬で止め、執務卓の椅子に踏ん反り返る大賀に視線を据えた。その斜め後ろには副官らしき大尉が控え、ソファーには荒枝参謀長が腕を組んで座っている。
「急に呼び出して悪かった。朝比奈さんと談笑中だったと聞いているが……」
その時、荒枝がギロリとこっちを見た。
勘弁してくれ、と内心で毒づいた。
「いえ、お呼びとあれば何時でも」
「そうか。まぁ、掛けてくれ」
顎でソファーを示す。
清浦は荒枝の対角の身を沈めた。
「どうぞ」と副官が〈諸王国聯合〉産の紅茶を出してくれる。
ティーカップに入ったそれを啜ると、微かな渋みが舌を震わせた。
「調子はどうだね?」
大賀がおもむろに聞いてきた。
調子。どのような意図で発せられたのか困惑する。
「調子、とは……」
「ほら、あれだよ。君に預けた新型艦。私の記憶が正しければ、慣熟訓練が終了して半年が経った頃だが」
思い浮かべるのものは一つだった。
第三戦隊に籍を置き、姉妹全てが清浦の掌握下にある最新鋭艦たち。
三〇センチ砲が普通の〈皇国〉戦艦群のなかで初めて三六センチ砲を装備し、海軍一の打撃力を得ることになった巡洋戦艦級だ。
名を、黒龍型巡洋戦艦という。〈皇国〉本州東北地方に存在する龍峰山地に連なる四大剣山の名に由来し、長姉「黒龍」を筆頭に「劔龍」「蜷龍」「龍魏」という艦名を与えられていた。
「艦、乗組員共に万全の状況です。現在は派遣支隊入りも決まって士気も旺盛であります」
「結構。結構だ」
大賀はわざとらしく大きく頷いた。
「あの艦は我が〈皇国〉が満を侍して建造した艦級だからね。その動向は私も注視しているよ。〈諸王国聯合〉への派遣の件も、我が国の本気度を世界に示したいが故だ」
「まったく良い船です。私が掌握して良いのかと思うほど」
「君の経歴は知っているつもりだ。巡航艦航海長、砲士教官、戦艦『弓勢』艦長などを歴任。性格は冷静慎重。平民出にしては早い出世。政に興味もない。若さも相まって国民からの人気も高い。黒龍型を君に預けた海軍省の判断は間違ってないと思うがね」
「恐縮です」
大賀は卓上のペンを弄びながら続けた。
「軍令部の一部には君の出世をよく思っていない連中もいるが、気にしなくていい。そんな連中はいかに秀才でも少将止まりで予備役だ。将家出だろうが貴族出だろうが関係ない」
清浦は軽く黙礼するにとどめた。
「長官」
荒枝が大賀に視線を送る。
「……すまない、そろそろ本題に入ろう」
話題を変えた大賀は小箱から葉煙草を取り出した。
数年前に〈皇国〉の支配下に入った南方諸島国家のものだ。煙草産業が栄えており、その高級葉煙草が安く手に入るようになってからは、多くの〈皇国〉人に親しまれている。
大賀はそれを口に咥えると、もう一本抜き出して清浦に見せた。
「吸うかね」
「いえ、結構です」
大賀はつまらなそうに燐棒を擦り、火をつけた。端部を橙色に光らせながら「もう聞いていると思うが……」と切り出した。
「君を呼んだ理由は支隊の具体的編成について意見を聞きたかったからだ」
副官に目配せする。
何枚かの書類が卓上に並べられた。
清浦は卓上に視線を落とした。
並べられた書類には、いずれも支隊編成の案が記されている。
既存の黒龍型四隻を中心に、巡航戦隊を加えた案と、襲撃水雷戦隊を加えた案があった。
荒枝が説明を始めた。
「今まで〈諸王国聯合〉の増援要請に基づいて支隊を編成してきたわけだが、内容が変わった。戦艦のみだったものが、巡航艦だろうが襲撃艦だろうが、できるだけ派遣してくれ、と言ってきた。〈帝国〉との建艦競争に敗北した彼らからすれば少しでも艦艇がほしいのだろう。世界第二位の海軍力をもつ我が国の艦艇であればなおさらな」
清浦は紅茶を啜りながら西方世界の事情に思いを馳せた。
世界最大の大陸──ユーランゲル大陸の西端に位置している〈諸王国聯合〉と〈大龍洋〉を挟んだ大島に首邑を構える〈帝国〉。
いずれも領土を海に接し、なおかつここ数百年で勢力図を何度も書き換えてきた宿敵同士であるだけに、熾烈な建艦競争は帆走艦時代から常態化している。
(〈諸王国聯合〉の母体となった聖ゲルマニア騎士団は二〇〇年前の〈龍〉争奪戦の覇者でもあった)。
その拮抗状態が崩れ始めたのが約一〇年前。
〈諸王国聯合〉の東に長大な国境を接する〈中央異民族国家〉───それが国境に大軍を配し、軍事的圧迫を強めてきたのだ。
同国は〈諸王国聯合〉が蛮族と蔑視するめモンシェル系民族を主体とした諸部族共同国家である。歴史的に見て、『強力な騎馬民族であったモンシェルによる西方侵入と、それに対する王国の報復戦争』を繰り返してきた両国は、近代に入っても領土問題や歴史問題が絶えず、軍事的緊張が高まる八年前から断交状態にある。
“蛮族”からの軍事的圧迫は〈諸王国聯合〉陸軍にとって悪夢に等しかった。大陸中央に横たわるその広大な仮想敵国には、無限に近い天然資源と莫大な人口があり、かつ急速な近代化に成功した大規模陸軍を保有している。それに〈諸王国聯合〉においては〈帝国〉への対抗から海軍偏重な嫌いがあり、陸軍は常に慢性的な予算不足に悩まされているのだ(〈中央異民族国家〉陸軍の不自然なほど急速な近代化の裏には、当然〈帝国〉による各種支援が存在する)。
“蛮族”が総力を挙げて国境全線を越境した場合、〈諸王国聯合〉は国力をすり減らし、敗北はせずとも〈帝国〉と対決する力は完全に失われる。
〈諸王国聯合〉はその事実を無視することができず、新師団の増設など、陸軍拡張の必要に迫られることになったのだ。
軍艦の進歩は凄まじく、それに従うように建造・維持費も高騰し続けている。つまり、戦艦一隻にかかる費用は五〇年前と比較にならなず、陸軍に予算を取られる中、それを例年の勢いで建艦するなどなど、ピークを過ぎている老王国には不可能だった。
そのような不可抗力に流されるようにして〈諸王国聯合〉海軍が衰えてゆく中、元より国力の優っていた〈帝国〉は息を切らせず海軍の拡張を続けている。
龍暦一九一五年現在、友邦の建艦競走の敗北は決定的であるという見方は〈皇国〉海軍で大勢を占めていた。
(なんともはや)
清浦は心中で呟いた。
約一〇〇年ぶりとなる龍の顕現を受け、〈帝国〉は龍との契約を狙う姿勢を明確にしている。もしもそれが叶えられた場合〈帝国〉は長年の脅威であった〈諸王国聯合〉を〈龍〉の力を使って滅ぼす可能性もある。
〈皇国〉の同盟国は〈皇国〉よりも数段厳しい立場に立たされているのだ。
支隊増強要請も、その苦しい立場によるところが大きいのだろう。
「案としては甲案、乙案がある」
荒枝の言葉で清浦の思考は西方世界から眼前に戻った。
「甲案は装甲巡航艦で編成された戦隊が付く。乙案は偵察巡航艦一隻と襲撃艦六隻で編成された襲撃水雷戦隊だ」
すぐに頭を切り替え、書類に目を通した。
両者には面白いほど明確に長所と短所が互いに噛み合っていた。
装甲巡航艦戦隊が加われば、支隊の機動力を損わせないまま砲打撃力を底上げすることができる。だが、襲撃艦のような使い勝手の良さは少ない。
一方の襲雷戦隊は敵艦隊への斬り込み、大型艦の護衛、敵艦隊の偵察、沈没船の救助など多種多様な役割をこなせる便利屋だが、巡航艦のような砲打撃力は保有していない。
「ふむ……」
艦隊同士が砲戦で決着をつける「艦隊決戦主義」が主流である以上、準主力艦たる装甲巡航艦の戦隊が加われば心強いが、襲雷戦隊の任務対応性も捨てがたい。
特に〈皇国〉海軍が採用している一五式襲撃水雷(魚雷とも呼ばれる)は炸薬量、航続距離共に世界最高であり、それを主兵装としている襲雷戦隊は使いようによっては戦艦すら下せる力を持つのだ。
「どうだ?彼らの本音では、戦艦二個戦隊と一個機動艦隊くらいは欲しいらしいが、我々としては出せるのはこのくらいだ。なにせ、ユーランゲル大陸南岸諸国に陣取る〈帝国〉植民地軍も相手にせねばならないし、龍極大陸封鎖の任もある」
大賀が紫煙を吐きながら言った。独特の紋様が空間に現出し、上昇する。
煙が天井に消える直前、思考がまとまった。
「両方いただきたい」
こともなげに言ってみせた。「なっ!?」
それを聞いた荒枝が目を剥き、大賀は愉快と言いたげに口角を吊り上げた。
「それがどういうことか理解しているのか。准将どころか少将級の大所帯ではないか!」
清浦は真顔を貫くよう努力した。まぁわからんでもない。
「清浦准将。それにはどのような意図があるのか気になるところなのだが」
大賀は興味深々の様子だった。葉煙草を副官に渡し、執務卓から身を乗り出している。
「大龍洋の戦場において、西遣支隊は機動遊撃隊として運用される可能性が高いからです」
〈諸王国聯合〉海軍の対〈帝国〉戦略は〈大龍洋〉を東進する敵主力艦隊に対し、高速艦隊による一撃離脱攻撃を繰り返し、自国艦隊との戦力差を減らしつつ、来るべき決戦を有利に運ぶ、というものになっている。
これの遂行にあたって速い足を持つ西遣支隊は敵艦隊への断続的奇襲に使用される可能性が高く、故に巡戦戦隊単体ではその任務に耐えられない可能がある。
清浦はそう説明した。
説明しながら、ふと脳裏にトカゲ面が浮かんだ。
〈諸王国聯合〉の海軍士官学校に留学した自分が、最初に作った友人の顔だった。現在、友人は大佐の階級にあり、対〈帝国〉作戦の立案者が彼だった。
「なるほどな。支隊単独での戦闘が考えられる以上、諸艦種連合の方がなにかと便利、ということか。それに敵主力に喧嘩を売る以上、逃げ足を確保しつつの戦力増強を必要不可欠であると」
「左様です」
清浦は紅茶で口を湿らせてから続けた。「〈諸王国聯合〉海軍の戦艦隊列に組み込まれるならまだしも、巡戦四隻のみで大洋を進むのはなにかと危険ですから。敵艦隊とやり合うのもまた然りです」
「よかろう」
大賀は菓子をねだった息子に許可を出すように言った。
「長官」
荒枝が異議を唱える。「それでは支隊ではなく艦隊になってしまいます。司令官職には少将以上の階級が必要なはずですが」
「まぁ、いいじゃないか。清浦はユーランゲル大陸西部における〈皇国〉海軍最高位となるのだ。そういう意味では、准将と少将の違いは少ない」
荒枝は退いた。司令官の補佐を任務とする参謀に決定権はない。支隊編成案は決まった。
「決まりだな。西遣支隊には巡航艦戦隊と襲雷戦隊を各一個ずつ付随させる。副官」
後ろに控えていた大尉が応じた。「はッ」
大賀は卓上の鉛筆を艦隊司令部の刻印が刻まれた紙に走らせ、渡した。
「これを艦隊編務局へ。南海艦隊から二個戦隊を借り受ける、と。なるべくいいやつをだ。渋るようなら皇室艦隊から割くと言え」
副官は素早く部屋から出て行った。
大賀は副官が出ていった扉を数秒間見つめた後、清浦に向き直った。
「さて、ここからが真の本題だ」
煙草を灰皿に押し付けると、あらためて言った。
まとっていた空気が変わる。大賀は副官を部屋から去らせ、人払を済ませたのだ。
「〈龍〉についてだ」
清浦の背筋が自然と伸びる。
龍、だと?
「今日の会議で、龍神機関は我が軍の作戦行動に多少なりとも介入することを示唆した。彼らは三〇〇年前に〈龍〉は機関、戦闘は軍、という不可侵領分を定めた“龍武規範”を犯したことになる」
少しの冷や汗。この人は何を言おうとしているのだろう。
「つまり?」
「海軍も〈龍〉に介入する権利を得たと考えている」
大賀は清浦をまっすぐ見据えながら言った。
清浦の目線はずっとテーブルのカップに据えられていた。名分に過ぎない、と思っている。
「龍神機関は信用できない」
大賀は小さく肩をすくめると、椅子にふんぞりかえった。
「幻想の中に生きる者からなる世襲制の組織だからな。現実が見えていない。それに〈龍〉に関して言えば、畏れ多くも皇室から絶大な権限を賜っている。いや、賜ってしまった、危険な組織だ」
「そんな連中に〈龍〉との契約を履行させるわけにはいかない」
荒枝が言葉を添えた。
たしかに、と思った。
〈龍〉と契約した一人にしか適用されないとはいえ、ひとつだけなんでも願いを叶える存在の扱いは、相当神経質にならざる得ない。大賀も荒枝も、その常識の範疇で行動している。
だが、決めつけすぎではないだろうか。海軍が機関を非とするなら、機関も海軍を非とする。その理由は簡単だ。機関の尺度で選択された“願い”ではなく、海軍の尺度で選択された“願い”が叶えられる可能が高くなり、それはナショナリズムと拡張主義に裏打ちされたろくでもないものになるかもしれないからだ。
いや、うーん。清浦は迷った。『〈龍〉との契約』という超常現象の効力が大き過ぎて、それを獲得した際の両組織の善悪がわからなくなっている。
海軍にしろ機関にしろ、危険であることに変わりはない。
だとするならば、自分は海軍准将なのだし、大賀に従うと決めた。清浦は優秀な提督であり戦術家だったが、この手の政治的な駆け引きは大の苦手だった。
「私に何をしろと」
「難しい事ではない。龍神機関の機関員を見張ってほしい。そして〈龍〉との契約が可能になった時、巫女が何を願うのかを見極め、内容によっては阻止して欲しいのだ」
「阻止、ですか」
清浦の脳裏に可愛らしい巫女と、彼女が最後に見せた意味深な表情が蘇った。
「そうだ。君には巡戦四隻を含む支隊を与えている。完全武装の特別陸戦隊もだ。情報部の人間も何人か派遣する。契約の際に機関員数名を拘束することは造作もない」
大賀の声がやや高圧的なものに変わった。
清浦は支隊戦力の過剰性(甲乙案の併用や陸戦隊)について理解した。
〈帝国〉に勝つことも目的の一つだが、契約の際に派遣機関員たちを押さえ込むことも視野に入れている。神官の中には怪しげな妖術を使う者もいるらしいから、武装陸戦隊員が必要なのだ。
その時、壁にかけられていた逓信機が受信ベルの音を響かせた。
荒枝が素早く受話器を取り、耳に押し付ける。ラッパのように口を開かせる送音器を通じて二、三の言葉を交わし、大賀に受話器を差し出した。
「軍令部総長の瀬谷大将からです」
軍令部は海軍作戦全般の立案・指導を行う中央統括機関だ。その総長から直接電話がかかってきたとなれば、なにかとてつもないことが起こったのかもしれない。受話器を受け取った大賀は無言で耳を傾けた。
「了解した」
受話器を元に戻すと、ゆっくりと清浦を振り返った。
「この件、頼むことになりそうだ」
清浦は表情を固めた。「というと……」
「〈諸王国聯合〉が〈帝国〉に宣戦布告した。忙しくなるぞ、諸君。龍争奪大戦だ」