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はじめまして、僕はあなたが大好きです

作者: 望月くらげ

 ジリリリリ、と鳴る目覚ましの音で、私は目を覚ました。

 目覚まし時計のスイッチを止めると、いつも通りPCの電源を入れる。……やけに大きく設定された起動音が部屋に響いた。


「うるさい……。なんでこんなに大きくしたんだろ」


 音量を下げながら、日課であるメールのチェックとモニターに貼りつけた付箋を確認した。


「今日の予定は……っと」


 一人暮らしを始めた時に大事なことを忘れないようにと始めたけれど、そのおかげで何か忘れていることがあっても思い出せる。

 ゴミの日や書類の提出期限、その他にもいろいろ……。困った時に手を差し伸べてくれる――たとえば両親がいてくれれば困ることもないのだろうけど、その両親は私にはいない。……今はもういない両親の存在に思いを馳せようとした。――けれど、母親も、そして父親すらももう思い出すことは出来なかった。


「……今日の予定、確認しなくちゃ」


 胸がざわつくのを抑えながら、私はPCの画面に視線を向けた、


「えーっと、あれ? 高橋さんからメールが来てる」


 メール着信と書かれたポップアップには、お世話になっている出版社の人からメールが届いていることが表示されていた。

 何か用があっただろうか、締め切りはまだ先のはずだし……。


「えーっと? “担当変更のご連絡”?」


 そこには担当さんが新しい人になることと、挨拶に来ることが書かれていた。


「わざわざ挨拶になんて来なくてもいいのに……」


 そもそも変わったっていっても前の担当さん――。


「あれ……?」


 先日までの担当さんを思い出そうとしても上手く思い出すことができない。

 メールボックスには高橋さんの名前が並んでいるけれど、どれも古い日付ばかりだ。

 ……自分自身の記憶が一番当てにならないことはこれまでにもあったけれど、記録にも残ってないとなると本当にお手上げだ。


「嫌になるなぁ。……って、え!? 今日!?」


 自嘲気味に笑いながらもう一度メールに目を通すと、そこには本日挨拶に伺いますと書かれているのが見えた。時間は――。


「1時間後!?」


 今、目を覚ましたばかりだというのにどうしろというのか……。

 とりあえず、慌てて服を着替えると、朝ごはんもそこそこに私は部屋の中を片付け始めた。

 昨夜遅くまで原稿をしていたものだから、部屋中に紙が散乱している。

 印刷した原稿を一ヵ所に拾い集めると、背表紙に“片桐(かたぎり)千鶴(ちづる)”と、自分の名前が書かれた本が並ぶ本棚へと無造作に置いた。


「一、二、三、四……五冊かー」


 こうやって本を書くことを仕事にしてからもう数年が経った。初めこそどうしたらいいか分からないまま書き連ねていた文章も、今では少しマシになったんじゃないかと思う。

 ――あの時、信じられる人が誰もいなくなった私に、高橋さんが声をかけてくれたから、今こうやって一人で生きていくことができている。


「もう五年も経つんだなぁ」


 両親が亡くなってから、一人暮らしを始めてからいつの間にか五年が経っていた。幸いにも両親は多額の遺産を残してくれていたから当面の生活には困ることはなかった。でも、そんな生活を何年も続けることなんてできない。そんな時に声をかけてくれたのが父の古くからの知り合いだった高橋さんだった。

 おかげでベストセラーとまではいかないけれど、遺産の残りと小説を書いて得たお金でこうして生計を立てることができている。


「でも、ここを買った時は驚かれたなー」


 両親と暮らした家を売り払った私は、東京から船で少し離れたところにある島の小さな一軒家を買った。周囲の人には両親と暮らした家に一人でいるのは辛いから、というと反対する人は誰もいなかった。……もっとも、反対したり別れを惜しんでくれるような人なんていなかったのだけれど――。


「……いなかった、よね」


 思い出そうとすると頭にもやがかかったようになる。寝不足だろうか、今日はいつにも増して頭がボーっとする。

 コーヒーでも入れて目を覚まそうか……。そう思ってキッチンへと向かおうとした瞬間、チャイムの音が部屋に響いた。

 PCに貼られた付箋に来客の予定は書いていない。と、いうことは……予定の時間よりは少し早いけれど、新しい担当さんが来たのだろうか。

 はーい、と返事をしながらドアを開けた私の目の前に一人の男性が立っていた。


「っ……」

「あの……?」


 一瞬、その男性が泣きそうに見えた。けれど、私の声に慌てたようにすみませんと頭を掻いた。

 そして――。


「はじめまして。僕は――あなたが大好きです」


 優しげに笑うと、彼は私にそう言った。



◇◆◇



「あの……」


 突然の言葉に戸惑う私に、その人はふっと柔らかく笑った。


「すみません、急に言われてビックリですよね。僕は大沼(おおぬま)といいます。大沼飛鳥(あすか)です。……僕のこと、ご存じですか?」

「いえ……。あの、でも……新しい担当さん、じゃないんですか……?」

「――そうです」


 一瞬、笑顔が翳った気がした。けれど、彼――大沼さんはすぐにニッコリと微笑むと名刺を私に手渡した。


「あ、高橋さんから連絡いってましたか?」

「はい、今日挨拶に来るって。……わざわざ遠いところすみません」


 念のため、名刺に書かれた名前を確認する。……確かに、この人で間違いないようだ。


「突然すみません。是非お会いして挨拶をと思って。僕、片桐先生の作品が大好きなんです」


 ああ、それで――。先程の唐突な告白は、作品のことだったんだ……。あんなふうに言われることなんてなかったから、一瞬焦ってしまった。


「そうなんですね、ありがとうございます」

「今回こうやって担当になれて嬉しいです。僕にできることがあれば何でも言ってくださいね!」


 ニッコリと笑うと大沼さんは上がってもいいですか? と私に尋ねた。

 慌ててどうぞとスリッパを差して、リビングへと案内した。


「でも、すみません。せっかく来てくれたんですけどまだ仕上がってなくて……」

「あ、大丈夫です。顔合わせと進捗確認を兼ねてきたのでそこは気にしないでください」

「はぁ……」


 それならばテレビ電話でもよかったのではないだろうか、そう言いかけたけれど……優しげに微笑む大沼さんを見ると何故か口に出すことは出来なかった。


「あ、じゃあとりあえずこれ。昨日、印刷した分なんですけど……」


 先程かき集めた原稿を大沼さんに手渡した。まだ文章は荒いけれど、確認だけなら大丈夫だろう……そう思ったのだけれど、その原稿を手に取った瞬間、大沼さんが酷く動揺したのが分かった。


「大沼、さん……?」

「あ、えっと……す、すみません。憧れの先生の原稿だって思うとドキドキしちゃって」


 口ではそう言うけれど、どう見ても取り繕うように笑っている。いったいどうしたというんだろうか……。

 手渡した原稿を覗き込む、と――そこにはいくつかの書き込みがあった。こんなの、私書いたっけ……。

 必死に思い出そうとするけれど覚えがない。――けれどその文字には、何故か見覚えがあった。どこで……誰がどうして……。


「あの……それ……」

「拝見させて頂きますね。片桐先生はどうぞ続きを執筆しててください」

「……はい」


 なんとなく気持ち悪さは残るけれど……締め切りを考えるともう少し進めておきたいのも本音だったので、その言葉に甘えて私はPCの前に座った。



◇◆◇



 カチカチと時計の音が聞こえる。どれぐらいの時間が経ったかはわからないけれど、音が聞こえだしたということは集中力が途切れてきた証拠だ。

 そろそろ休憩しようかな……そう思ってPCから視線を外し伸びをすると――どうぞ、と声がした。


「え……?」

「よければこれ飲んでくださいね」


 そう言って机の上に置かれたのは、最近気に入って飲んでいるカフェオレだった。


「あ、りがとう……ございます」


 偶然だと分かっている。たまたま買ってきてくれたのが、たまたま私が好きなものだった。ただそれだけ――。

 なのに、朝から頭を覆うもやと、大沼さんを見ていると……何故だか胸がざわめく。

 今だってそうだ。ただソファーに座っているだけだというのにまるでいつもそこにいるかのような自然さを感じる。

 まるで何回もそこにいるのを見たことがあるような――。

 そんなわけないのに。そんなことあるわけないのに。


「疲れているのかな……」


 カフェオレに口を付けると、甘さとほろ苦さが広がる。


「……美味しいですか?」

「え……?」

「それ、美味しいですか?」

「あ、はい」


 頷く私を、大沼さんは満足そうに見ている。でも、どうしてそんなことを聞くんだろう。持ってきてくれたのはほかならぬ大沼さん本人なのに……。


「大沼さんはブラックなんですか?」

「そうなんです、僕は甘いのが少し苦手で」


 そう言って笑うけれど……じゃあ、どうして。


「どうして、これを?」

「え?」

「や、その……私はこれ好きなんですけど、どうしてこれを持ってきてくれたのかなって思いまして」


 普通はコーヒーとか、カフェオレを選ぶにしても普通のを買うんじゃないだろうか。

 こんな、牛乳が90%の甘党向けカフェオレをわざわざチョイスするだろうか……。


「……聞いたんです」

「聞いた?」

「はい、前任者から」


 そうだったのか。そんなところまで引継ぎをしてくれていたなんて……。

 もう誰が前任者だったのか、私にはわからないけれど――きっと、そんな人だったからこそ、私の中から消えてしまったんだろう。


「そうですか」

「はい」


 それ以上はお互い何も言わなかった。

 ただ静かに、時間だけが流れていった。



◇◆◇



 あの日から、月に何度か大沼さんは島を訪れるようになった。

 大沼さんとの仕事は、思った以上にやりやすかった。前の担当さんから聞いて私のやり方を知ってくれているのか、ペースをつかむのが上手いのか――同じ空間に人がいる中で仕事をするのが苦手な私にとって、大沼さんはそこにいることが苦痛にならない人だった。


「こんにちはー、進捗どうですかー?」


 今日も定期便のようにそう言って黒沼さんは現れた。


「ダメですねー、進まないです」

「そういうときもありますよねー」


 手に持った袋を見せると、大沼さんは笑う。


「シャーベット持ってきたんで、もうひと踏ん張り頑張ってください」

「わーい、ありがとうございますー」

「冷凍庫借りますね」


 台所へ向かいながら大沼さんは話を続ける。


「向こうを出る直前に買ったんですけど、ドライアイスが二時間しかもたないって言われたんでドキドキしながら来ましたよー。これで溶けてたらただのジュースになるーって」

「あはは、それは確かにドキドキですね。有名なところのなんですか?」

「最近できたところで、若い子に人気らしいですよー」


 その言い方がなんだかおじさんのように感じられて、思わず笑ってしまう。


「大沼さんだって、まだ若いじゃないですか」

「いやーアラサーはそろそろ若いって言えなくなってきてますよー。この間も新卒の子に、もうおじさんですねなんて言われちゃって」

「えー、それはひどい! ……あ、そうだ。冷凍庫!」


 私は思い出したことがあって慌ててキッチンへと向かった。


「大沼さんー、すみません。うちの冷凍庫……」


 中古で買った冷蔵庫は当初から冷凍庫が壊れていた。そのため、冷凍庫だけ別に買ったのだ。それを伝えようとキッチンにいる大沼さんに声をかけると――そこには当たり前のように冷凍庫にシャーベットを入れている大沼さんの姿があった。

 冷蔵庫に付属している方ではない、冷凍機能だけが付いているそれに――。


「大沼さん……?」

「はい?」

「……それ、冷凍庫だって私言いましたっけ?」


 一見するとただのボックスにしか見えないそれは、初見では到底冷凍庫だとは思えないデザインをしている。なのに、どうして大沼さんはそれが冷凍庫だと分かったんだろう……。


「大沼さん……?」

「――なんとなく、ですよ」


 大沼さんはいつものように、微笑む。けれど、一瞬――その笑顔が崩れて焦ったような表情を見せたのに……私は気付いてしまった。

 大沼さんは、何かを隠しているんじゃないだろうか。

 取り繕うように微笑むけれど、一瞬見せたその表情が、どうしても気になって仕方がなかった。



◇◆◇



 今日は、月に何度か作っている仕事をしない、完全なる休日で普段家の中でずっといる私だったけれど、珍しく外に出た。予定があるのだ。

 日差しを避けるように木々の下を歩きながら、私は小さな丘の上にあるこの島唯一の病院へと向かって歩いていた。

 特に具合が悪いわけじゃないけれど……幼い頃に発症した持病の定期検診にのために数か月に一度、病院を訪れていた。


「こんにちはー」

「やあ、千鶴ちゃん。こんにちは」


 白髪頭の先生が、いつもと変わらない優しい笑顔で私を迎え入れてくれる。


「今日はどうだい?」

「私はいつもとかわらないですよ」

「それはよかった」


 聴診器で胸の音を聞くこともしない。ただ先生と話してそれで終わり。

 持病の定期検診、なんていうと重病のように聞こえるけれど、別に身体が病魔に侵されているわけでもない。

 ただ――。


「違和感は、ないかね?」

「はい、特にないです」


 この島に移住してからの数年、持病が原因で困ったことはなかった。けれど、何かあった時のために私以外の人に私のことを知ってもらっておく必要がある。

 だから、病院通いは欠かせなかった。


「でもね、先生」


 カルテに今日の日付と問題なしと書きこむ先生に私は声をかける。


「違和感が生じたとしても、その時点で――私には何が違和感なのか分からないですよ」

「……そうかもしれないね」


 俯いたまま、悲しそうな表情を先生が見せたのに気付いた。

 ――いつからだっただろうか。私には記憶が抜け落ちることがあった。何故そうなるのかはいまだにわからない。でも、一つだけわかったことがある。


「それでも、原因を突き止めることができれば――」

「大丈夫ですよ、先生」


 私の言葉に、先生は不思議そうに視線を向けた。


「大切な人を作らなければいいんです」


 どうして母親のことを忘れるんだと、父から罵られたことがあった。でも、その時点で私には――母親と呼べる人が誰なのか、目の前にいる女の人が誰なのかもわからなかった。

 友人もいたと思う。でも、いつも最後は誰かから責められて終わった。

 何軒もの病院にも行った。けれど、どの先生も首をかしげ、私のことを疑い、そして――匙を投げた。

 原因は分からない。でも、きっかけなら分かる。

 いろんな人を悲しませて、傷付けて、怒らせて――そして私は気付いた。私の中から消えていくのは、大切な人の存在なのだと。

 どうして、と責められるたびにごめんなさいと言った。でも、どうしても思い出すことはできなかった。だって、私にとって目の前のその人は、見ず知らずの他人と同じだったから……。

 ただ、私のせいで相手を悲しませていることはよくわかった。それならば……大切な人を作らなければいい。人と関わり合わなければいい。そうすれば、誰にもあんな思いをさせなくてすむ――。

 だから両親が事故で亡くなった時、全てを売り払って誰も知り合いのいないこの島に移住した。

 ここでなら、誰ともかかわらずに生きていけると思ったから――。


「だから、大丈夫ですよ」

「千鶴ちゃん……じゃが、それでは君が……」

「私なら平気です。それに、誰かを傷付けることがないってわかっていると、気持ちが楽ですから」


 悲しそうに私を見つめる先生に微笑むと、私は失礼しますと病院をあとにした。



◇◆◇



 その日も、お土産を持って進捗確認に大沼さんは島を訪れていた。取り留めのない時間を過ごした後、携帯を見て大沼さんは立ち上がった。


「そろそろ失礼しますね。もう少し進んだらまた伺います」

「あ、はい」


 あまり無理しないでくださいね、と言って家を出た大沼さんを……私はなんとなく追いかけた。


「あのっ……」

「あれ? 片桐先生、どうかしましたか?」

「あの……その……か、買い物に、行こうと思って」


 一瞬、驚いた表情をしたけれど……大沼さんはいつものように優しく微笑んだ。


「それじゃあ、途中までご一緒してもいいですか?」

「はい……」


 本当は買い物なんて今じゃなくてもよかった。なのに、追いかけてきてしまったのはどうしてだろう……。

 大沼さんが帰ってしまうのを、寂しく思ってしまったのは――。


「わーい! 待って待ってー!」

「置いてくぞー!」


 そんなことをボーっと考えながら歩いていたからか……前から子供が走ってくるのに、気が付かなかった。


「危ない!」

「え……?」


 腕を掴んで引き寄せられたかと思うと、私の身体は大沼さんの腕の中にあった。

「こら、危ないぞ! 前見て走りなさい!」


「はーい!」

「ごめんなさーい!」

「全く……。大丈夫ですか?」

「は、い……」


 突然の出来事に、頭の中が真っ白になる。そして何より……心臓の音が、うるさい。


「あ、あの……」

「え?」

「も、もう大丈夫です……」

「あ、そうですね」


 身動き一つ出来ず立ち尽くす私を見て……大沼さんはふっと笑った。


「何か……?」

「いえ……。あっ! あれ見てください」

「……お祭り?」


 秋祭りの時期だったようで、神社の境内にはいつくかの屋台が出ていた。

 そんなに人口の多くない島の住人がみんな来ているのではないかと思うほど、たくさんの人でにぎわっている。


「少し見ていきませんか?」

「え?」

「ダメ、ですか?」


 大沼さんの言葉にどうするべきかと焦る私を見て……もう一度彼は笑った。


「困らせてすみません」

「あ……」

「気にしないでください、冗談です」


 その笑顔が……いつもより翳っていることに気付かないほど、大沼さんと過ごした時間は短くはなかった。


「――時間、大丈夫なんですか?」

「え?」

「お祭り……」

「十五分ぐらいなら」

「そう、ですか……」

「はい」


 そう言って、彼は嬉しそうに微笑んだ。

 二人で並んで境内を歩く。普段なら家の中で仕事をしているだけの私が、こうやって誰かと一緒にお祭りに来ているなんて……しかも、その相手が――。


「どうかしましたか?」

「あ……」


 視線に気付いたのか、大沼さんが不思議そうに私を見る。それだけのことなのに、息が出来ないほど、胸が苦しくなるのはどうして……。


「人が、多いなぁと思って」

「そうですね。……そろそろ戻りますか」

「……はい」


 もと来た道を二人で歩く。触れそうで触れない肩、届きそうで届かない手。

 会話も何もないけれど……とてもとてもあたたかい時間がそこには流れていた。



◇◆◇



 タイピング音だけが響く室内で、いつの間に降り始めたのか……パラパラと窓に雨が当たる音が聞こえてきた。


「雨、降ってきちゃったんだ」


 テレビをつけると、この後豪雨になると天気予報のお姉さんが言っていた。

 窓の向こうには。どんどんと黒い雲が押し寄せてくるのが見える。


「……大沼さん、大丈夫かな」


 思わず、私は呟いていた。

 あのお祭りの日から数週間がっ経ったある日、これから船に乗るという連絡が大沼さんからあった。

 いつ連絡が来るのだろうか、とそわそわしていた私は、待っていますとだけ返信を送ると、気にしていないふりをしながら携帯を机の上に置いて原稿の続きをしていた。

 連絡が来てから一時間以上が経っている、とっくに船は出発している頃だろう。

 向こうを出るときに豪雨なら欠航だったり引き返したりということも有り得るかもしれないけれど、このタイミングで降り始めたということは――。

 私は躊躇することなくPCの電源を切ると、傘を二本持って外へと飛び出した。



 私の住む家から港までは歩いて十五分ぐらいしかかからないはずだ。なのに……港に着く頃には雨は勢いを増して、私は全身ずぶ濡れになっていた。


「あのっ……!」


 船着き場の近くにある小屋の中で無線を片手に険しい顔をしていたおじさんに、私は声をかけた。


「今日って、船来ないですよね?」

「千鶴ちゃん、どうした。そんなに濡れて……」

「来ないですよね!?」


 祈るように尋ねた私に、おじさんは一層険しい顔を向けた。


「千鶴ちゃんの知り合い、乗ってるのかい?」

「っ……多分」

「そうか。……無事着くといいんじゃがな」


 高波が打ち付ける海を、おじさんは眉間に皺を寄せたまま見つめる。

 つられるようにして私もそちらを向いた。けれど、真っ黒い雲と大粒の雨、そして荒れ狂う波を飲み込む海以外に見えるものは何もなかった。

 手の中の携帯電話には今も何の通知も来ない。乗りそびれちゃいましたーなんて連絡が、今にも届く気がするのに……。


「……千鶴ちゃん、中に入りなさい」

「でも……」

「小屋の中からでも、外は十分に見えるよ」


 促されるように、私は小屋へと入る。でも――。


「ごめんなさい、やっぱり気になるから外で待ちます」

「おい、千鶴ちゃん……!」


 おじさんの声を背中に聞きながら、私は傘を差して船着き場へと向かった。

 どうしてこんなことをしているのか、自分自身でも分からない。でも、大沼さんが無事に着くように、祈ることしか出来ないから……。


「大沼さん……」


 打ち付ける雨の向こうに船が見えないかと、私は必死に目を凝らし続けた。

 ――どれぐらいの時間が経ったのだろう。真っ黒だった海に、一筋の光が差し込んだのが見えた。


「え……?」

「ああ、やっと雨が止んだようじゃな」


 いつの間にか小屋から出てきていたおじさんも、凪いできた海を見つめてホッとした声を出した。


「ああ、ほら。来たようじゃよ」

「あ……船」


 光に導かれるように、一艘の船が島へと向かってくるのが見えた。あの中にきっと――。


「……あれ? 片桐先生……?」

「大沼さん!!」


 船から降りてくるなり私を見つけた大沼さんは、驚いたような表情を見せた。


「よかった……!」

「え、片桐先生……? な、なんでここに……?」

「なんでって……」


 言葉に、詰まる。

 どうしてここにいるのかと、改めて聞かれるとなんて言っていいのかわからない。大沼さんが無事に着きますようにと、心配で――ただそれだけだったのだけれど……。


「片桐先生……?」

「おお、この人か。千鶴ちゃんの待ち人は」

「待ち人……?」

「お、おじさん……!」


 よかったなぁとおじさんは大沼さんの姿を見て、私に言った。


「あの雨の中、ずっと船が来るのを待っていたんじゃからな」

「そ、そんなこと……」

「小屋の中にいるように言っても、ここで待つと言って聞かなかったんじゃよ」


 おじさんの言葉に……大沼さんは驚いたように目を見開くと、私を見つめた。


「あんたのことが、余程心配だったんじゃなぁ」

「そうなん、ですか……?」

「…………」

「片桐先生……?」


 大沼さんの顔を、見ることができない。私は――視線を逸らしたまま、必死で言い訳にしかならない言葉を並べた。


「別に……! ただ、東京を出ると連絡があったきり音沙汰名がなかったので……もしかしたら船が事故にでもあったんじゃないかと思っただけです」

「……心配してくれていたんですね」

「…………」

「ありがとうございます」


 そう言った大沼さんが、何故か泣きそうな顔をしていたのを、私は見逃さなかった。

 こんな表情を、たまに大沼さんは見せる。特に何があったわけでもない瞬間に、悲しそうな切なそうな表情を見せる。

 そんな大沼さんを見ると、胸が苦しくなった。――でも、大沼さんの表情の理由を、私は聞けずにいた。

 大沼さんは何も言わない。だから、私も黙ったまま家までの道のりを歩く。


「……そういえば」

「え……?」


 けれど、そんな沈黙に耐え切れず、私は思い出したかのように大沼さんに話しかけた。


「今日はどうしたんですか? 何かありましたっけ……」

「あ、ああ……。これを、持ってきたんです」


 大沼さんは鞄から分厚い封筒を取り出すと私に差し出した。


「原稿です。校正済みなので、ご確認をと思いまして」

「ありがとうございます……」


 郵送でもよかったんじゃないか――そんな思いを代弁するかのように、大沼さんは言った。


「郵送でもよかったんですけどね……。僕の我が儘で持ってきちゃいました」


 そう言って笑うから……心臓をぎゅっと鷲掴みにされたかのように痛むのに必死で気付かないふりをして、そうですかと小さな声で言った。



◇◆◇



 集中していると時間が経つのが早く感じる。あんなに船が来るまでの時間は長く感じたのに、もうこんな時間だ――。


「あ、そろそろ出なくちゃいけませんね」


 時計を見ると、あと十五分足らずで今日の船の最終便が出てしまう時間になっていた。


「修正箇所の確認も出来ましたし、次に来る時までに仕上げておいてください」

「わかり、ました……」


 大沼さんの言葉に返事をしながらも、頭がボーっとして何を言われているのかよくわからない。

 雨に濡れたせいだろうか、寒気と体のだるさを感じる。とりあえず、大沼さんが帰ったらベッドに向かおう。それで少し休めば――。


「片桐先生?」


 ああ、大沼さんが何か言っている。でも、何を言われているのかよく聞き取れない。

 私のおでこに触れた大沼さんの手のひらが、ひんやりとしていて心地いい。どうしてだろう、この手に触れられていると――安心する。


「お、お……ぬ……」

「片桐先生……!」


 なんで、そんな慌てた顔をしているんだろう。どうしたんですかと聞きたいのに、身体が重くて……気が付くと私は意識を手放していた。



 目を開けると、辺りは真っ暗だった。

 ここはどこだろう、なんて一瞬考えたけれどなんてことはない、私の家のリビングだった。

 電気がついていないからこんなに暗いのだ――そう思って身体を起こそうとすると……私の手を握りしめる人の存在に気がついた。


「……大沼、さん……」


 そこには私の手を握りしめたままソファーに突っ伏して眠る大沼さんの姿があった。


「そ、っか。私――」


 夕方、大沼さんを見送ろうとした直後に倒れてしまったことを思い出した。

 握りしめていた手を見て、悪いことをしてしまったと申し訳なく思う。こんな時間までここにいるということは、私のせいで帰ることができなかったのだろう……。倒れてしまった私を放っておくことができずに、こうやってここに……。


「大沼さん……ありがとうございます」


 私の声に反応するかのように、大沼さんが小さく身じろいだ。

 まるでいやいやをする小さな子どものように頭を左右に振ると……さらりとした髪の毛が大沼さんの顔にかかるのが見えた。

 それは無意識の行動だった。

 そっと手を伸ばすと私は……大沼さんの髪の毛に触れていた。

 さらさらで、少し長めの前髪。うっすらと茶色の混ざる髪の毛。それらが何故か愛おしく感じて――。


「ち……づ…………」


 くすぐったかったのか……大沼さんは私の手首をつかむと――私の名前を呼んだ。

 千鶴、と――。


「っ……!!」


 その言葉に、思わず私は手を引っ込めた。


「……今」


 気のせいだと思いたかった。


「私の名前を、呼んだ……?」


 でも、大沼さんの口から紡がれた言葉に、心臓がきゅっと苦しくなった。


「大沼、さん……」


 ダメだ、と心が叫んでいる。


「大沼さん……」


 今ならまだ引き返せると。


「また私は――」


 このままでは、また大切な人を私は失ってしまう。

 失いたくないのに、消してしまいたくないのに。

 きっと、このままこの人のそばにいればいずれ大沼さんの存在も、私の中から消える――。

 そうはっきりと分かるぐらいには、私は大沼さんに惹かれてしまっていた。



◇◆◇



 翌朝、すっかり晴れた外を見つめていると、ガタンッと何かが落ちる音が聞こえた。


「……おはようございます」

「おはようございます……! す、すみません、いつの間にか寝てしまっていて……」


 焦った様子の大沼さんとは反対に、私の心は落ち着いていた。


「こちらこそすみません。私のせいで、帰れなくしてしまって……」

「いえ、僕がしたくてしたことですので。……体調大丈夫ですか?」

「はい」


 心配そうな表情の大沼さんに私は――無表情で返事をした。


「……片桐先生?」

「もう大丈夫です。なので、申し訳ないのですが一度帰って頂いてもいいですか?」

「え……?」

「作業もありますし……」

「あ、そうですよね。すみません……」


 慌てて頭を下げると、大沼さんは来た時と同じように鞄をかかえて私の部屋をあとにした。

 残されたのは――私だけ。


「まだ、大丈夫」


 そう、まだ大丈夫だ。今ならまだこの想いだけを忘れられる。


「なんにも始まってなんて、いないもの」


 ただ、少し胸がざわつくだけ。それだけ。

 なのに……。


「どうして、涙が溢れてくるの……?」


 次から次へと零れ落ちる涙は、まるで私の記憶から消えていく想いのようで。


「失いたく、ない……」


 今まで何度もたくさんの人を記憶の中から失ってきた。でも、あの人のことだけは――。


「大沼、さん……」

「――はい」

「っ……!!」


 その声に振り返ると……そこには、帰ったはずの大沼さんが、悲しそうな表情で立っていた。


「どうして……」

「帰れるわけ、ないじゃないですか。そんな顔の、あなたを置いて」


 一歩、また一歩と大沼さんが近付いてくる。


「大丈夫ですか?」

「わた、私……」

「片桐先生……?」

「大丈夫、です……」


 嘘だ。本当は大丈夫なんかじゃない。でも、大丈夫だと虚勢を張っていないと、目の前のこの人の胸に縋りついてしまいそうで――。


「……嘘、つかないでください」

「っ……!!」


 そう言ったかと思うと――大沼さんは、私の身体を抱きしめた。


「やっ……」

「そんな顔で、強がって、一人で泣かないでください」

「なに……」

「僕が、そばにいます」

「っ……あ、あああああ!!!」


 その言葉に私は、大沼さんの腕に抱きしめられたまま、子どものように大きな声を上げて泣いた。


「怖い、怖いんです……!」

「何が怖いのですか……?」

「大沼さんのことを忘れてしまうのが怖い! 忘れたくない、失いたくないよ! だから、だからこれ以上――私の心に入って来ないで! 今なら、まだ――」

「千鶴!」


 抱きしめる腕に力を入れると、大沼さんは私の名前を呼んだ。


「大丈夫、大丈夫だから」

「大沼、さん……」

「君がもしまた僕を忘れてしまったとしても、僕は千鶴を忘れない」


 その言葉に、私は、確信した。

 ああ、私たちの終わりは、これが初めてじゃないのだ、と。


「何度君に忘れられたとしても、僕は君が大好きだから」


 優しく、大沼さんは微笑んだ。


「――そんなの、意味ないじゃない」

「え?」

「何回好きになったって、そのたびに大沼さんのことを忘れてしまうんじゃあ、好きになる意味なんてないじゃない!」

「そんなことないよ」


 感情的に言う私とは対照的に、大沼さんは優しい口調で言った。


「意味がないことなんてないんだ。もしかしたら次こそは忘れないかもしれない。次はダメでもその次は。――いつか君が大切な人のことを忘れなくなったその時、隣でいるのは僕でありたい。だからその時まで、僕は何度でも君に好きだと伝えるよ」

「大沼さん……」

「おっと……」


 抱きしめられていた身体から、力が抜けていく。

 頭が重い。

「でも……」

「ん?」

「でも、もし大沼さんが私を、好きじゃなくなったら……?」


 途切れそうになる意識の中、私は必死に口を動かす。

 喋るのをやめたら、そこで終わる気がして――。


「もし好きじゃなくなったら、私のこの気持ちも全部全部なかったことになっちゃう」

「ならないよ」

「どう、して……?」

「僕が君を好きじゃなくなる日なんて来ない。何があっても、ずっとずっと千鶴のことが好きだよ」


 大沼さんの言葉に、止まったはずの涙が溢れてくる。


「これから先、何度君が僕を忘れてしまっても、僕は君のことを愛していることはかわらないから」

「大沼、さん……」


 頬を伝う涙を大沼さんはそっと拭うと……大沼さんは私の身体をベッドへと寝かせた。


「何にも心配しなくていいから、休むといいよ」

「わた、し……」

「大丈夫。僕はここにいるよ」

「大沼さん……」

「大好きだよ、千鶴」


 大沼さんの手が、私の額に触れる。

 優しく二度三度と撫でられるうちに――私の意識は微睡みの中へと落ちていった。



◇◆◇



 ジリリリリ、と目覚ましの鳴る音で私は目を覚ました。

 ボーっとする頭で辺りを見渡すと、机の上には校正が完了した原稿があった。

 いつものようにPCを起ち上げると、メールと付箋のチェックをする。


「あれ? 担当さん新しくなるの?」


 そこには、新しく担当になる人が挨拶がてら原稿を受け取りに行きますと書かれていた。新しい担当さんの名前は――。


「大沼……飛鳥? 聞いたことない人だなー」


 新人さんかな? なんて思いながら高橋さんからのメールを閉じると、私は机の上の原稿を手に取った。

 さっきから頭が重くて、昨日チェックしたはずの内容を思い出せない。

 原稿に貼った付箋に、「校正済み」と書かれてるからおそらく完了しているはずだけれど――。


「念のため、確認しておこうかな」


 パラパラと原稿をめくると、確かに修正が完了しているのが確認できた。

 ただ――。


「あれ……?」


 ところどころに私の使っている付箋が貼られているのに気付いた。ただ、そこに書かれた筆跡は私のではなくて……。

 なのに、どうしてだろう。この文字を、よく知っている気がする……。


「っ……」


 思い出そうとすればするほど、頭の中にもやがかかる。

 もう一度確認しようと原稿用紙に手を伸ばした時、部屋の中にチャイムの音が鳴り響いた。

 慌てて付箋を確認するけれど、来客の予定は特にない。と、いうことは高橋さんからのメールに書いていた新しい担当さんだろうか。。


「はーい」


 玄関のドアを開けると、そこには優しそうに微笑む男性が立っていた。


「あの……?」


 怪訝そうに見つめる私に、その男性は優しげにと笑うとこう言った。


「はじめまして。僕は――あなたが大好きです」


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