指輪と秘密【15】
ウメの拳が三つに分裂した……ように見えた。瞬間、ブレードが根本から破壊されて、あらぬ方へ飛んでいった。
「へ?」
『ただのジャブよ』
言うと直ぐに二撃目が来た。
ボディーど真ん中への一撃。あまりに早く、意識外からの攻撃と変わりなかった。
「ぐぅぅ……」
声すら出なかった。
ACSを装備しているのに、衝撃波だけで内臓へダメージを与えて来た。
フォンは体を折って、ふらつきながら後ろへ下がった。そして膝をつく。
「な、何が……起こって……」
『これでも手加減してるのよ。さっきまでは、ただ触れてたって感じ』
フォンはごほっごほっと咳き込んだ。
朝一で軽く飲んだ酒が胃液と共に飛び散り、ACSの中を嫌な臭いで満たす。
『怪魚はね、私の友達なの』
「何を馬鹿な……」
『いい子達よ。皆。人間よりもずっと心が綺麗。そんな子達にあなたは酷い事をしてたの。いったいどれだけ殺したの? 十? 二十? そんなレベルじゃないでしょ?』
「し、仕事の邪魔で……」
『殺人だってしてるのに、何をいまさら。やりたいからやってたんでしょ。いい? あなたがいじめてたあの子達の中に私の主人がいるの』
「……はぁ?」
『命の恩人よ。主人が危険な目に会ってたら助けるのは普通じゃない? それに大怪我してる人もいる……。許せると思う?』
「……だから私を始末するって事?」
『私は殺らないわ。手を下すのは怪魚達。私はそこに連れて行くだけ。でも、意識がある状態で連れていけるか不安なの。もうね、冷静になるので精一杯って感じだから』
「語ってろっ。このアマ!」
フォンはバックステップで距離を取り、グラップルフィンガーを射出した。
ウメの上半身を掴んだ事を確認した後、チェーンの接続を切った。普通は引き寄せる為に使うが、今回ばかりは違う。少しでも相手の動きを止める為、グラップルフィンガーは切り捨てる事にした。
フォンは即座に飛行し、逃げた。
ジャブとボディーブローだけで、これは勝てないと理解した。
仕事を二度も失敗し、大嫌いな先生に冷たい笑顔を向けられる屈辱。想像しただけで嫌になるが、命を失うよりはずっとマシ。
怪魚の巣へ連れて行かれたら、どんな悲惨な死を迎えるか。考えるだけでおぞましい。
ドナヴナの回収も一瞬考えたが、捨て置くと決めた。放置すれば恐らく、ドナヴナは再起不能になる。今現在、やりたい放題やってるであろう彼を、ウメが許す筈がない。
他人がどうなろうと知った事ではない。
自分の命の方が大切なのだ。
「必ず借りは返す。覚えてなさい」
言ってフォンは方向転換し、一気に加速しようとする。……が、出来なかった。
見ると、小さな機械が下腹部にくっついていた。そこからウメまで青い光のロープが伸びている。
「何? これ」
いつの間にこんなものを? と考えた。
ボディーへの一撃。タイミングはそこしかない。
ここでハッと気づいた。
もう一つ、遊ぶ為の道具があるとウメは言った。武器でないのなら大したものでは無いだろうと思っていたが、これが一番厄介な物だったと今気づいた。
相手を引き寄せるグラップルフィンガー。用途はそれと同じ物だった。
相手を逃がさないようにする道具。遊ぶ為とは、逃がさずに殴り合えるという事だった。
「あ、ちょ、嘘!」
全力で噴射しているのに全く進まない。むしろ逆に、凄い勢いで引っ張られた。
「こぉんのーっ。放せよくそがー!」
フォンは飛行システムを全て停止し、重力制御も切った。
引かれる力と重力と体重を乗せたパンチ。逃げられないのならば、全てを乗せた渾身の一撃を食らわせてやる。
やる事成す事上手く行かない苛立ちが、フォンの冷静さを欠いた。
フォンは未だかつて出した事の無いありったけの力を込めて、拳を放った。
相手もそれに答えて振りかぶる。
フォンの拳とウメの拳がぶつかり、轟音が響いた。
鉄の様に硬い拳と拳とがぶつかったとしても、こんな音は出ない。音の出所はフォンの腕だった。
拳から順を追って、分解さながらに爆散していく。ACSの中には義肢がある。それも含めて飛び散り、生身との接続部分までが消えて無くなった。
「んぅあああぁぁぁ」
肩辺りからぴゅく、ぴゅくっと少量の血が飛び出している。
『インパクトナックル。これでも超低威力なの』
言うと直ぐに足払いをしてきた。
ぽーんと蹴られ、フォンは顔面から突っ伏した。
すると背中の飛行システムをバキバキと二、三度殴られ、完全に壊された。空中でバランスを取る為、噴射機構は全身至る所にある。だが、それを稼働させる本体は背中にあるシステムが全て。これでもう、逃げる事は叶わない。
「ま、待って、私が悪かったわ。何でもするから、見逃して」
『無理よ』
ウメの冷たい声が聞こえた。
助けを懇願した所で一ミクロンも聞き入れないだろうと、一瞬で悟った。
次いで破壊したのは両足だった。膝裏を踏まれて潰される。
「うぎぃぃ」
一瞬だが痛みが走った。
両足ももう、辛うじて繋がっているだけの鉄の塊になった。残るは手首から先が無い腕一本。この腕も真後ろに固められ、関節からバキンと折られた。
これは骨ごと折られたようで、フォンは「ぎゃあっ」と悲鳴をあげた。
「ゆ……許して……」
『駄目よ』
腹部を蹴られて転がった。ベーオにぶつかり、そして止まる。
「うぅぅ、うぅぅいたぃぃ」
ボロボロと涙が出て来た。
ACSの中で泣いた所で誰もその表情は分からない。悲痛な顔も何もかも、訴えた所で誰も見てくれない。
ガッと頭を掴まれて強制的に起こされた。ベーオの幹へ頭を叩きつけられ、ぶらんとぶら下がる。
ウメは片手で頭を持ったまま、無言で殴って来た。
拳と幹で挟まれる顔。殴る度にバキャっとACSが潰れ、顔を圧迫してくる。
「やめ……やめて……」
わざと力を抜いて、少しずつダメージを与えている。
殴る度に衝撃が伝わり、凹んだり裂けたりするACSが顔を歪ませ、傷を作る。
「ご……ごめんなざい……ゆるじて……」
自分の顔は、それを映し出す何かを介さないと分からない。
フォンは思った。
血と涙でぐちゃぐちゃになった顔。裂傷と圧迫でぐちゃぐちゃになった顔。
そんな自分を見なくて済む。見られなくて済む。それだけでも救いだ、と。
フォンはネードで食事処を営む父と母の間に生まれた。
店は小さく、且つあまり美味しい店ではなかった為に客は殆ど来なかったが、陽気で親切な周囲の助けもあり、細々と食いつないでいた。
フォンは、その生活が大っ嫌いだった。
両親は優しいし、近所の大人も優しい。でも、同情故にそうあるのだ、と思っていた。
フォンは美人とは言えない顔に生まれた。近所の子供達から何度か冷やかされた事もあった。そんな事をするのは友達の中のごく一部だったが、悔しくて悔しくて仕方がなかった。
どうして私はこんなに地味で不細工な顔に生まれたのだろうか。どうしてウチの店は【デニス&フィンジャン】の様な美味しい料理が作れないのだろうか。
毎日そう思い、そしていつか、こんな生活から抜け出してやろうと考えた。
フォンが十五歳になった頃、クドパスから来たという男に出会った。夢を語り、愛を囁く男の事を直ぐに好きになった。そして、両親にも友人にも誰にも伝える事なくネードを去った。
男に付いていき、クドパスで生活する事に希望を感じていたが、実際のところはフォンが働き、男は日がな一日ぶらぶらするという毎日が続いた。フォンは夜遅くまで必死に働いた。ある日、仕事が急に無くなり、普段いない時間帯に帰る事となった。驚かそうと部屋をひっそり覗くと、裸の男と裸の女がいた。女は美人だった。
ああ、そうか。と、この時に気づいた。
美人でなくては何も上手くいかないのだ。地味で不細工は罪であり、生きてる価値のない底辺の人間なのだ。と。
フォンは密かに溜めた金と借金で整形をした。何度も繰り返し、理想の顔が出来上がった時には男は他の女と共に姿を消していた。
だがそんな事はどうでも良かった。
作り上げた理想の自分は、ちょっと声をかけただけで男が釣れる最強の武器になっていたから。
フォンは、沢山の男を惚れさせて自由気ままに生きた。全てを吸い取られて破滅する男を量産し続けたが、自分には関係ないものとし、使えない男は即座に排除する方針は変えなかった。
フォンが二十六の時、全ての罰が下った。
気持ち良く男と寝て、気持ち良く金をせびり、気持ち良く酒を飲んで、気持ち良く帰宅する途中、不意に誰かに刺された。
気弱そうで痩せた男だった。騙した男は数知れず。言うまでもなく、その男の事は記憶になかった。
大量に血を流し、うずくまるフォンを助けたのは知的で線の細い男だった。
気が付くと手術が終わり、知らないベッドで寝ていた。
暫く療養して元気になった頃、助けてくれた男から手術代と今までの生活費用を要求された。その金額はあり得ないくらいに高額だった。当然、支払いなぞ出来ず、男の提案を受ける事にした。
提案はちょっとした実験に付き合う事。痛くもないし、体にも命にも何の影響もないという。ただ少しだけ寝ていればいいとの事だった。
そして空白の三か月を過ごす事となる。
これが、本当の記憶。本当の人生。
フォンは知っていた。
真実とは別に、もう一つ作られた記憶と人生がある事を。
もう一つは、クドパスの裏路地で犯罪まがいの賭博行為をしている両親の子として生まれた人生。その影響でフォン自身も賭け事の中毒者として成長し、浮き沈みの激しい人生を送る事となる。
ある日、とある事件で両親が殺される。頭を潰された両親を冷ややかな目で見つめるフォン。生き物は何でこんなに脆いのだろうか。地面を這う虫と変わらないではないか。
そういう性癖を持つフォン。
それ故に、先生の誘いを受け、今に至る。
これら全てが偽物。
だが、博打好き、殺害が快感という趣味だけが根強く浸透している。
本当の自分を、本当の記憶を取り戻したのは二年前。
飲み過ぎて階段を踏み外し、頭を強く打った。たったそれだけの事だった。
破裂する様に思い出し、脳内を駆け巡った記憶は、時折頭痛を引き起こすようになった。
酷い頭痛は、博打と殺しで緩和する。
中毒者、性癖、そんな所だけが残り、精神を蝕む。
だからこそ、偶然思い出した本当の記憶と人生は大切にしたいと思った。
こんな自分を作り上げた先生は憎くて仕方ない。だが、記憶を取り戻したと知れば、何をしてくるか分からない。博打に使う金も必要で、命も大切。よって、今まで通り偽の人生を歩んだフォンとして、生きていくと決めた。
なのに、これだ。
嫌いな男の命令を聞いて仕事をした結果、今まさに死の淵を彷徨う肉塊と化している。
自分でも分かっている。そもそも、根本的に、自分は非情で冷酷な女なのだ。
男達の人生、男達の命、そんなものはゴミカスの様な物。自分が気持ち良ければそれでいい。博打や殺しの趣味が追加されようとも、既に土台が腐っている。
そう、自分でも分かっているのだ。そういう女だと。知ったところで罪悪感の欠片も感じない女なのだと。
「お……おねがいじまず……もう、やめ……で……」
この言葉が最後だった。顎が潰されて喋ることすら出来なくなった。
カメラも潰されて、外の様子は殆ど分からない。しかし、一つだけ生きていた。
血でぼやけ始めた目で見たのは、レーザー弾と壁でストレスを与えて来た地味ガキだった。
数十メートル先にいる筈なのに、バグったシステムが勝手にズームアップし、女の顔をはっきりと映し出した。
――やめて……見ないで。
驚いているような、憐れんでいるような、悲しんでいるような、何とも言えない表情をしていた。
自分が嫌った地味な顔。女としての色気も化粧っ気もない顔。
そんな顔の女が、美しくなった自分に同情とも取れる一番嫌いな目を向ける。
――見ないで、見ないで、見ないで、見ないで。
今自分はこの世で一番醜い顔になっているだろう。
怪魚なんかよりもずっと醜くなっているだろう。
私の尊厳を踏みにじるのか。
そんな目で私を見るな。
――見るんじゃねーよ! クソガキがー!
心の中でそう叫んだ瞬間、フォンの意識は飛んだ。
潰れたACSの中で、ボフッと内側から頭が破裂して、死んだ。




