ネード海【7】
四日前の……あの日、ハヤヂはレジェプーと共に小型艇に乗って、海面の警戒をしていた。
前日のエメの店でのひと時。素晴らしい夜だったとオーカッドが感謝していて、船員皆の意向もあり、滅多に食べない秘蔵の燻製肉をルマーナ達の昼食としてプレゼントする事になった。
とても貴重な魚の燻製肉で、一口齧っただけで溢れる唾液と共に、もの凄い旨味が広がる代物。酒のつまみとしても、パンのお供としても最高のパートナーとなる。
ハヤヂ達は一度海の監視をストップして、その品物をルマーナの船へ運んだ。
あの日は穏やかな海で、青く綺麗な海面だった。監視も警戒もしやすくて何も問題が無いと思える海。漁をするなら最高の日だった。
だから油断したのだ。誰もが油断したのだ。
予想外の出来事があったにせよ、本当は警戒を怠ってはならなかった。小型艇でずっと飛び回っていれば、空船で何が起きようとも、先んじてレインシャークの存在に気づけた筈だったのだ……。
甲板に降り立つと、数人の船員が海を眺めていた。ほっそりとしていて背筋が伸びた男性が一人と、女性が四人。その女性の内二人は昨夜一緒に飲み食いしたティニャとパウリナだった。
男性はオーカッドからの連絡を受けて荷物を受け取りに来た人物。キエルドと名乗って荷物を受け取り、礼を言う。
ティニャとパウリナを含めた女性全員が近寄って来て「昨夜は楽しかった」「料理が美味しかった」「私達も参加したかった」等と軽い世間話を始めた。
話をしている最中にキエルドは荷物を持って船内に去って行き、ハヤヂ達も会話の切り時を見極めてから早々に海の警戒へ戻ろうと考えていた。
しかしその時、オーカッドの船が騒がしい事に気が付いた。
皆、何が起きたのかと注目し始める。
漁業空船は最後方に小型艇格納庫と資材倉庫があり、次いで見下ろし型のブリッジがある。中央から船首までの区間には、網用ウインチやコンベヤーやフィッシュハッチ等があって、広い甲板は全て漁業の為の作業スペースとなっている。
よって、船尾だけを眺めていても、何が起こっているのか分からない。だが、音が聞こえる。オーカッド空漁商会は銃を所持していない為、当然、銃声は聞こえない。聞こえて来たのは、船員達の騒ぐ声と、人の物では無い奇声、そしてズンズンと何かを殴りつける音だった。
パウリナが「オーカッドの船で何か問題が起きているかもしれない」と言いだし、それを伝えて来るように、と他の女性二人に指示を出す。
ハッとしたレジェプーは急いで小型艇へ走り、起動準備をした。
と、そんな時にソレはやってきた。
ズンっと船が揺れたと感じて船首付近に顔を向けると、黒い何かが立っていた。威圧感というか、得体の知れない存在感が嫌な寒気と共に襲って来た。
予想外の出来事に驚いて、皆の時が止まる。
すると幾らか先を航行しているオーカッドの空船から、数体の怪魚が飛び移ってきた。オーカッドの空船は三十メートル以上も先にある。そこから飛び移るのだから恐ろしいくらいの脚力。実際、怪魚は信じられないスピードで泳ぐ事が出来て、その勢いと共に引き上げた魚網に飛び移る事が出来る。並みの脚力では出来ない芸当なのだから船から船への曲芸なんて出来て当然。現に、船の下からも数体の怪魚が顔を出して来ていた。
黒い何かは襲い来る怪魚と交戦しながら真っ直ぐにハヤヂ達の所へ歩いて来た。
パウリナからの言伝もあり、異常事態に気づいた船員が数名、銃を持って甲板に出て来た。
船員達から銃を受け取ったパウリナは黒い何かへ攻撃を仕掛け、守って欲しいと言って、ティニャを預けてきた。
銃を扱った事の無いハヤヂは、役に立たない自分を自覚し、抱きしめるようにティニャをかばった。そして小型艇の影で様子を伺う。
怪魚と黒い何かは、双方に天敵なのだろうと思えた。
何故ならば、怪魚は人間に一切興味を持たず、どんな怪我を負おうとも目の前の敵にのみ攻撃をしかけていたからだ。
殴り飛ばされたり、胸を貫かれたり、頭を砕かれたり。そんな圧倒的な格の違いを見せつけられても、怯まずソレに襲い掛かる。
だからか、応戦する皆も、狙い撃つのは黒い方だけだった。状況的に一番凶悪なのは黒い方であり怪魚では無い、と瞬時に判断したのだろう。
そもそも、姿形を見れば、何が一番恐ろしい存在か直ぐに分かる。
怪魚はサイズも形態も様々だが、生物としての認識が出来る範囲にある。だが、黒い何かは、本当に”得体の知れない何か”であって、生き物かどうかも怪しいのだ。
両足は角ばってるようにみえるが、しかし何故か妙に流線的。胴体も似た感じだが、頭部は独特。口は無く、十個以上もある目が光を灯し、ロングヘアーのような鉄板を頭頂部からぶら下げている。それが広がれば両肩を覆えるだろうという気がして、空気や水の抵抗を無くす為の部位である雰囲気がした。人型である為、両腕も勿論ある。しかし、左腕は手のひらの代わりに何でも掴み取れる様な爪があり、右腕の前腕部側面には鋭利な刃が付いている。
全体的に見れば、黒光りする鉄の鎧で身を固めた生物。
動きも歩き方も知恵がある雰囲気がして、その姿形さえなければ人間にすら見える。
「ティニャを船内まで連れていって!」
とパウリナが叫んだ。すると「いつでも飛べるっ。その子を避難させたら直ぐに乗れ! 船まで戻るぞ」とレジェプーも叫んだ。
ハヤヂは直ぐにティニャの手を引いて走り出した。しかし即、立ち止まる事となった。
黒い何かは、怪魚の腕をもぎ取り、勢いよく投げつけて来た。
太い腕は赤い血を撒き散らしながらダンっと甲板にぶつかって跳ね飛んだ。
ハヤヂもティニャもビクッと驚き、足を止める。
明らかに、その場から動くな、という威嚇だった。
「大丈夫!?」
「あ、はい!」
パウリナは一瞬だけ振り向いて無事を確認すると直ぐに射撃体勢へ戻り、撃っても殆どダメージを負わない敵の様子を見て「何なの!? アイツ!」と叫んだ。
「行こう!」
そう言ってハヤヂはまた走り出す。
とその時、目の前に透明な何かが見えた。下から上へもの凄い勢いで飛んでいく。
あと一歩前に出ていたら、股の間から脳天に向かって長い風穴が開いていた。
「うそ、だろ?」
ハヤヂは足元を見た。
そこには拳大の穴が開いていてヌルッとした粘液が付着していた。
「レインシャークだ!」
そう叫んだ瞬間、船の至る所からレインシャークの水針が飛び出して来た。
船底から襲い掛かる水針は、いとも簡単に空船を突き抜ける。屈んだ所で、下からの攻撃を避ける事なんて出来ないが、皆、射撃の手を止めて膝を折る。
意外な事に、その水針は黒い何かへダメージを与えた。
ギャンッという音と共に胴体から頭部に掛けて鉄の体が削られたのだ。
そして怯んだ隙に怪魚達が取り押さえようと襲い掛かる。
と同時に、別の生物も襲い掛かって来た。
だが、狙う相手は……空船。
「ま、マズイ! レジェプーさん!」
「くそっ! いつの間にかこんなに高く! 焦ったな!?」
襲って来た生物はガッバード。一定の高度に達すると彼らの領域となり、縄張りを守ろうとして襲い掛かる大きな鳥。
鋭い爪で船体に引っ付き、くちばしで豪快につつく。又は勢いよく飛んできてライフラインを噛み千切る。
旋回してレインシャークの攻撃範囲から逃れていたが、今度はガッバードの猛攻が続いた。
「高度を下げろ! 早く!」
レジェプーが叫ぶ。そして「駄目だ! このままだと巻き込まれる!」と続ける。
その意味は、この船は落ちるかもしれない、という事。
「ハヤヂっ乗れ! その子も一緒だ!」
空船に残すべきか、小型艇に乗せるべきか……。
その時は、繋いだ手を離す訳にはいかない、という意志だけが働いた。
「はい!」
ハヤヂはティニャの手をギュッと握り「ここから離脱する。おいでっ」と言う。
「え? でもっ」
ティニャは困った顔をして周囲を見回した。
皆を置いて自分だけ逃げる訳にはいかない、という意志表示だった。
するとパウリナが「ティニャ、早く行きなさい!」と許可を出した。そして「その子をお願い!」とハヤヂに向かって言う。
ハヤヂはコクリと頷いて、ティニャの手を引っ張った。彼女は素直に付いて来た。
しかし走る先は小型艇ではなく、パウリナの元へ。
ハヤヂは「もう一人乗れますっ! パウリナさんも一緒に!」と言って手を差し出した。一瞬無言になったパウリナはティニャを見つめてから頷いた。
そして三人で小型艇へ乗り込んだ。
襲い掛かるガッバードを避けつつ甲板を離れ、一気に降下する。
しかし既に小型艇もかなりの損傷を受けている。
水針の穴、ガッバードが空けた裂け目、それらは恐らく、重力制御装置も傷つけていたのだろう。
降下は殆ど任意の物ではなく、自然に落ちていく感じに近い状態だった。
手すりに掴まるパウリナと、彼女にしがみつくティニャを見たら、小型艇に乗せる選択は間違っていたのかもしれないと後悔した。
これは……死ぬかもしれない。
そう思いつつ見上げるとガッバードが空けた天井の裂け目があった。
その裂け目から何かが見えた。
それは例の黒い何か。
追って来たのだと直ぐに分かった。しかし、ガッバードの体当たりがそれを阻止した。
その一瞬、ハヤヂは見た。
水針によって裂けた頭部から、ほんの少しだけ……ほんの少しだけだが、人と同じ肌が露出していた事を。
そして覚えている。
もう一つ、茶黒い瞳があった事を。
「もう寝よう」
レジェプーが言った。
「寝付けないのよ」
外はもう夜。
体力を温存するには寝るべきだ、とハヤヂも思う。
「その子を見習え。ぐっすり寝てるだろ?」
「そうね。なかなか度胸がある子で……ほんと将来が怖いくらい」
「あんたの娘か? 似てないが」
「ルマーナ様の子よ」
「あの女船長の? ……確かに、目元とか少し似てるな。色は違うが」
「……そうなの。本当に似てる。……不思議なくらい」
パウリナの表情は本当に不思議そうだった。
親子なのだから当然の事だろうと思ったが、何やら深い事情がありそうだった。
「どういう意味だ?」
と、レジェプーが即座に問う。
しかし、パウリナは無言でティニャの頭を撫でた。サラッとした前髪を摘まんで傷口から遠ざける。そして「……何でもないわ。気にしないで」と答えた。
「そういう姿を見てると、あんたの娘のように見える」
「この子の母親はルマーナ様。でも、お店の子達皆が母……とも言えるわね。可愛くって仕方ないもの」
「あんたは子供居ないのか?」
「……出来ないの」
「……そうか、悪い事を聞いた。……まぁ、とにかく今後が楽しみだな。絶対に美人になるぞ。その子は」
「女が苦手って言ってたけど……嘘でしょ。そんなセリフ言えるなら幾らでも口説けるわよ?」
「う……ああ。うん。そうだな。とにかく寝た方がいい。明日、水を探しに行くなら尚更だ」
レジェプーは腕を組んで目を閉じた。
所謂”慣れ”だ、とハヤヂは思った。
積極的に女性と話して慣れて行けば、結婚も夢じゃない。
――エメ……泣いてるだろうな。
ふとエメの事を想った。
この四日間、何度も彼女の心情を気にかけた。
行方不明は死亡宣言と同じ。
今頃は目を腫らしているに違いない。
絶対に帰らなくちゃならない。絶対に。
そう思い、ハヤヂも生きる為に目を閉じた。




