ネード海【1】
昼間の少し濁った空気に比べて、朝は幾分マシだった。
アズリの朝は早く、自身もこの空気を吸う為に早起きしている……というのは気持ち半分で、本当はベルの花屋を手伝う為に起きている。
商店街の人々も朝早い内から今日一日の準備を始めるが、まだポツポツと人影が見える程度だ。
ゴウンゴウンと街の中を流れるネオイットが静かに聞こえ、朝霧なのか密集した家々から出て来る蒸気なのか分からないが、街を薄い雲の中へといざなっていた。
店内に仕舞ってある花達を店先に並べていると「おはよう。今日は花屋かい?」と声をかけられた。
近くにある果物屋のおじさんだった。
いつも暗い内に起きて、散歩するのだという。
「おはようございます。今日はオフなのでこっちです」
アズリも挨拶すると「偉いね」とおじさんは言った。
「お世話になってますから、これくらいは」
「ベルさんも喜んでるだろうよ」
「なら嬉しいですけど」
「俺ぁ船掘がどんな仕事か知らんが、危険な仕事だって事は理解している。いつも気を張って仕事してるんだろ? ここに居る時くらいはのんびりやってればいい」
言っておじさんが優しく微笑む。
「ありがとうございます。でも最近は何事も無く平和に出来てますから大丈夫ですよ」
「それならベルさんも安心だな。おっとそうだ。珍しい果物が手に入ったんだ。買い出しついでに寄ってくれ。おまけするからよ」
アズリが「はい」と答えると、おじさんは軽く手を振りながら歩いて行った。
最近は忙しくて、買い出しも必要最低限の物ばかりだった。今はお金に余裕があるし、たまには果物を買っても良いだろう。きっとマツリも喜ぶだろう、とアズリは思った。
「アズリ、おはよう」
また声をかけられた。
聞き慣れた声に驚いたアズリは「え? あ、おはよう?」と少し疑問形で返してしまった。
「いつも早いわね」
「うん。体が慣れてるってのもあるし。……それよりも、こんなに早くどうしたの? カナ姐」
声の主はカナリエだった。
カナリエも孤児院や船掘の朝食作りで早起きには慣れている。だが、人通りが少ない朝一番でベルの花屋へ来るのは珍しい。否、初めての事だった。
スッキリした朝霧がかかる朝一番に、硬い表情をしたカナリエが立っている。
……嫌な予感がした。
「アズリ。……仕事よ」
トーンが落ちた、カナリエの重苦しそうな一言。
普通の仕事では無いと思った。
食事の時間はサリーナル号のスピードが落ちる。夕食ならば数時間程度のんびりと航行するが、今日は二時間だけと決まった。
どんよりとした雲がいつもの星空を隠してしまい、サリーナル号の甲板に居ても、一向に気分が上を向かない。風と景色が気持ち良いはずの甲板も、これでは居る意味が無い、とすら思える。
だが、隣に誰かがいるだけで、会話できるだけで、不安は少し紛れる。
「急いで向かってますけど、あと二日もかかるんです。長いですね」
アズリは甲板のライフラインに背を預けて座っていた。
言いながら一瞬、ロクセを見ようと顔を向けたが躊躇して、抱えた膝に顔を埋めた。
「彼女達はたくましいですから。信じましょう」
ライフラインに寄りかかって腕を組むロクセ。
相変わらず抑揚の無い声。
「ティニャちゃんはまだ十歳なんです。ルマーナさんがついていてくれたら良いけど……」
「船影は確認出来ているんです。船の中に籠っていれば数日程度は大丈夫でしょう。無事だと思うしかありません」
「……そう……ですけど……」
カナリエから聞かされた話はラブリー☆ルマーナ号が落ちた、という話だった。
昨夜遅くにオルホエイから連絡が入り、仕事に参加できる仲間達を朝一番でかき集めようとしていた。起きない奴は叩き起こすと言っていた。
勿論アズリは二つ返事で参加する意思を示し、緊急の仕事である事をベルとマツリに話してから商会の事務所へ向かった。
暫くすると、半数以上の仲間達が集まって来て、ブリーフィングが始まった。
朝の段階では詳しい状況は分からない。とにかくネード海に浮かぶ何処かの島に落ちた為、緊急救助の依頼が組合の方に入った、という話だった。
船掘商会や狩猟商会の船が落ちるという話は時折ある。だがどちらかと言えば、行方不明か現地でほぼ全滅という話ばかり。救助要請が入った場合は、各々の組合へ連絡が行き、有志で何処かの商会が助けに行くというシステムになっている。
そして今回は墜落。予備の小型重力制御装置がある為、船体はそう易々と墜落飛散しない。故に、墜落救助案件は現地修理、又はワイヤーフックで吊るしてドックのある安全圏まで運ぶ事が仕事となる。
そんなに難しい仕事ではないが、今回は違った。
救助支援の連絡はオーカッド空漁商会という所からだった。そして、かなり危険な島へ落ちたかもしれないという一言があったという。
連絡が別の商会から来るという事は、ルマーナ達の連絡手段が失われたと言う事。損傷が激しい可能性を示唆している。
危険な島、という事もあって、今回はガレート狩猟商会も参加する事となった。
オルホエイとカテガレートが出る、と言う事で他の商会は手を貸さなかった。この二人なら大丈夫だろうという他者からの信頼もあるが、正直言って他の商会は冷たい人達だとアズリは思った。
南端の国ネードは遠く、数日間の拘束は確実。危険な仕事になるかもしれない。当然お金にはならないボランティア活動。それでも参加してくれますか? と、アマネルから念を押した確認があった。
不参加を示す仲間は誰も居なかった。
ルマーナが仕切る二番通りにお世話になっている仲間も結構居る様で「当分は酒代に困らないだろう」とか「売れる時に恩は売っておかないとな」等と下心丸出しのセリフを恥ずかしげも無く口にする者もいた。
ともかく集まった仲間は皆参加する事となった。
出航はオルホエイ組が先。カテガレート組は追加の連絡を待って、それに応じて装備や道具を整えてから追って出航する事となった。
お昼前にオーカッド空漁商会から追加の連絡が入った。
他の空漁商会に頼んで安否確認した所、ラブリー☆ルマーナ号の船影を確認出来たとの事だった。しかし、周囲が危険すぎて近寄る事が出来ず、しかも落ちた島も大変危ない島だったとの事。その島の情報はカテガレートに伝わり、相応の準備を整え次第、即出航となった。詳しい作戦はネードに着いてから決めるという話になった為、オルホエイ組はとにかく急いでネードへ向かっている、というのが現在の状況だった。
「でもまさか、こんな形でネードに行くなんて……」
アズリは呟くように言った。
「どういう国なんですか? ネードは」
「……つい先日、ティニャちゃんとパウリナさんとでお茶したんです。バカンス気分で行って来るってパウリナさん言ってました。……治安が良くてお魚が美味しい国だ、って……楽しみだ、って……ティニャちゃんもパウリナさんも笑顔で話すんです。いいなぁ、羨ましいなぁって思いました。マツリと行ったら楽しいだろうなぁって……。タタラさんそこの出身だって言ってたし、行ってみたいなぁなんて最近本気で思ったりしました。でも……」
「でも?」
「こんな形で行くのは……違うんです。気分的に」
ロクセは何も答えてくれなかった。
「船影は見えたって言ってましたけど、損傷具合は言ってませんでした。いくら船が無事でも、落ちた衝撃ってあると思うんです。遺物船って勢いよく落ちる割に中は結構無傷だったりします。船体は頑丈だし、そもそもベルトとかでちゃんと固定されてるのが凄いって思うんですけど。……でも私たちはそうじゃないですから。船内でも普通に生活してますし」
「墜落した場合、普段はどういった状況なのですか?」
「私は一度しか救助した事ないですから詳しく分かりません。でも私の時は皆かすり傷程度でした。動力の不具合で着陸した程度でしたから損傷少なかったし。でも、今回は違うみたいです。衝撃は結構あったかもしれないです」
「今はどうする事も出来ません」
「……そうですけど。皆気持ちが軽いです。私が心配しすぎってだけかもしれませんけど」
ルマーナには世話になった。お店の皆も優しかったし、ティニャも良い子だ。
もう、友達だという認識がある。だからこそ、勝手に自分だけが大きな不安を感じているのかもしれない、と思う。
とはいえ、下心丸出しの仲間達は少し不謹慎だ。
数秒の沈黙。
ロクセは何も答えてくれない。
船の風を切る音が薄暗い夜に溶けていた。
「そうでもないわよ」
不意に声をかけられた。
驚いたアズリは顔を向けた。
驚きの中には、ロクセと二人っきりの所を見られたという恥ずかしさもあった。
「……タタラさん」
こちらに歩いて来るのはタタラだった。
後ろで手を組んで、少し背伸びをした感じで歩いている。
空を見上げて「う~ん。外は気持ちいい。でも少し寒いし星が見えないのは残念ね」と独り言の様に言う。
近くまで来て、チラチラとロクセとアズリを交互に見る。
そしてアズリに視線を固定して「彼らも美味しそうに飲んでないわ。お酒」と言った。
「え?」
「顔に出さないだけ。危ない状況だって、皆分かってる」
その一言だけでハッと思い直した。
恥ずかしくなった。
ロクセが何も答えなかったのは”顔に出さないだけ”なのかもしれない。
元々表情は薄いが……。
「……そっか。そうですね。ごめんなさい」
タタラは小さく笑った。いつものケラケラ笑いでは無かった。
「星が見えないんじゃどんよりしちゃう。こんな所に居たら余計に滅入っちゃうわよ」
腰に手を当てながら言い「二人で何してたか分からないけど」と余計な一言を付け加える。
「確かにな。これでは気分も落ちる。早く済ませて戻るとしよう」
答えたのはロクセ。
ロクセと二人で済ませるはずだった”用事”を今、行うという。
甲板に二人っきりで居た理由もそれ。
「あれ? 何? 私、邪魔だった? 年齢差考えた方がいいよ?」
「……何を言ってる」
「そういう趣味だったの?」
「……本気で言ってるのか?」
「子供達と一緒に食事した仲なんだから、もう家族なの。私の許可が必要なのよ?」
「からかうな」
「ごめん、ごめん。冗談よ。あ、でも、当然許さないから。取られるの嫌だし」
初顔合わせから二、三日だというのに長年の友人という雰囲気で話す二人。
いつの間に仲良くなったのだろう……私には敬語なのにタタラさんには敬語じゃない……等と思い、薄い苛立ちが混じった疑問が頭を通過した。
それよりも趣味とか許可とかどういう意味なのだろう。
「えっと……」
と、アズリはロクセへ目配せするように二度三度タタラを見た。
「持って来てますね? 腕に装備して貰えますか?」
そんな目配せを気にもせずにロクセは言う。
「え? ……は、はい……」
少し躊躇したが素直に例の”板”を出した。
今はまだ”板”の存在を隠したかった。
「補充する準備が出来た」とロクセに言われた時、甲板へ来る様に誘ったのもその為だったし、彼もそれに応じた。
だが、ロクセはタタラが居ても平気な顔で居る。
アズリは言われた通りグローブの形へ変形させ、腕に装着させた。
するとロクセはアズリの腕を上向きに引き寄せて、マガジンと思しき半球体へ触れた。時計回りに回転させると、プシュっと中の空気が漏れる音がして、蓋が自動的にスライドした。続けて小さな油差しのような物を懐から取り出し、チューっと液体を流し込んだ。
「ネオイット……」
濃い青色の液体だった。
遺物船から得られるネオイット。
エネルギー媒体として街中を巡るネオイットや、様々な事で使用されるネオイットはかなり薄められている。
少量とはいえ、ネオイットの原液はそれなりに価値がある。
申し訳なさを感じ「ありがとうございます」と言うと「必要な分だけです」とロクセは答えた。
「それと……」
注入が終わり、油差しを仕舞う。
次いで取り出したのは指輪が入っていそうな小箱。
パカッと開き、中身を摘まむ。
「え? こ、これって!」
「わぉ。お金持ち」
ロクセが摘み取った物はベリテ鉱石だった。小指の先程度のサイズがある。
アズリはビクッと驚き、タタラは皮肉っぽい雰囲気で驚く仕草をする。
「ま、待って下さい。ど、何処でこれを?」
「ん? 知り合いに譲って貰ったんですが?」
平気な顔でロクセは答えた。
「譲って……え? こ、こんなの貰えません!」
言いながら手を引っ込めるが、握られた腕はビクともしない。
優しく握らている筈なのに硬く固定されている。
ベリテ鉱石は核とも呼ばれ、ネオイットに浸すと尋常でない程のエネルギーを発するという。目が飛び出るくらいの高値で取引される物であり、指先サイズもあれば新品の小型艇が一艇は楽に買える。
「気にしないでください。タダで貰った様なものですから」
「タダ……え? タダ⁉」
それはあり得ない。
平気な顔でバレバレの嘘をつくロクセ。
こんな高価な物を貰ってしまったら、どうやって返せば良いのか……。
マツリの薬代を考えると、一生かかっても返せる自信がない。それこそロンライン一番通りで体を売らなければ返せないだろう、という考えが頭を過る。
因みにロンライン一番通りがどういう場所なのかは最近知った。
知った時は心が痛かった。
ロクセは摘まんだ核を、ネオイットの中へポチャと入れた。それも適当に、考え無しに、慣れた手つきで、放り込む様に……。
「さぁ。これで補充できました。いつでも使えます。かなりの弾数ですが、使い方によってはあっという間に消費します。残量には注意して下さい」
マガジンの蓋を閉めてから言う。
「……こんなに高価な物……どうやってお返ししたら……」
「ん? いつも世話になってる礼ですよ? 返す必要なんてありません。あと、使い切ってしまったら言って下さい。また補充しますので」
返す言葉が見つからず、アズリはポカンと口を開いた。
すると「SPEE-3か……凄いの持ってるわね」とタタラが声をかけてきた。
「え? 知ってるんですか? これ」
「あ……」
しまった、という表情でタタラは目を逸らす。
「ずっと前に見た事がある……様な無い様な……」
分かりやすい誤魔化し方だった。
「ここに居ては冷えます。さぁ、戻りましょう」
すかさずロクセが会話を遮り、アズリの背中へ手をあてる。
急かす様に背中を押すロクセの手は温かかった。
少しドキッとした。




