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新星のアズリ  作者: 赤城イサミ
【エピソード1】 プロローグ
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プロローグ

 もうこれ以上は進めない。もう逃げられない。

 

 ここから先へ進もうとするならば、確実に死が待っている。戻ったとしても死が待っているとしか思えない。

 少女は震える手を胸元に引き寄せ、力を込める。何処かに逃げ道は無いかと探す様に周囲を見回した。

 しかし、逃げ道など何処にも無い。適当に走り抜けられるのであれば、まだ逃げられるだろうが、そんな事をした瞬間、死だ。ここは闇雲に走って逃げられる場所では無いし、既にもう、足を踏み出して進む場所すら無かった。


――もう駄目。


 そう思うと同時に少女は妹の顔を思い出した。辛い人生の中にある小さな幸せ。妹の笑顔もその一つ。

「ごめんね……。ごめんね……」

 謝るしかなかった。もう妹の元には帰ってあげれないのだから。


 数十メートルにも及ぶ木々が鬱蒼と生え、日の光を遮るこの森も少女を精神的に追い詰めた。薄暗く湿気の強い空気、奇妙な声で鳴く見た事もない生物、それらに混じってカッカッと声帯を鳴らす音まで聞こえた。

 追っ手はもうすぐそこまで来ている。逃げる自信も勇気もすでに打ち砕かれた少女は、その場にしゃがみ込んだ。

 殺されるその時を想像する。人の形をしていない肉の塊に成り果てた自分を想像する。

 頭に浮かぶ悪夢でしかないその光景は、少女が死を覚悟するには十分だった。

 手が震え、唇も歯音と共に震えた。肩も、足も、腕も、全てが震えた。

 絶望に身が包まれ、最後にもう一度「ごめんね」と妹の為に呟こうとしたその時だった。


「こっちよ。飛び込みなさい。早く」


 声が聞こえた。普通は人なんて立ち入る事の出来ないこの森で、自分以外の声が聞こえた。

 少女はハッと顔を上げ、声のした方を振り向いた。

「足元には気をつけて。蔦があるかもしれない。踏まない様に、一気に飛び込みなさい」

 少女から見て一番近くにある大木からその声は聞こえた。正確には大木の根元からだ。

 

 数十本もの細い木が幾重にも重なり、とぐろを巻く様に天高くそびえるこの森の木々。その根元はまるで格子で出来たドームの様になっている。

 偶然なのか、誰かが手を加えたのか、声がする大木の根元には、人一人が通り抜けられそうな穴があった。

 

 少女は迷った。こんな所に人が居るはずも無いからだ。しかし、カッカッと鳴り響く声帯の音はどんどんと近づいて来ている。そしてついに姿が見えた。大木の枝にしがみつき、声帯を鳴らしながら周囲を見回すおぞましい姿の追っ手が数体。

 もう迷っている暇は無かった。少女は数歩後ろに下がると、勢いを付けて一気にその穴に飛び込んだ。

 背中を丸めゴロゴロと転がり、ぶつかって止まる。


「痛……」


 木のささくれた部分にでも引っ掛けた様で、左頬から耳まで軽く切れている。少女はゆっくりと体を起こし、周りを見回した。

 想像よりも根元のドーム内は広かった。少し湿り気のある植物が服を濡らし、不快感がある。でも周囲の木に守られている様な妙な安心感があった。


「多分、ここには蔓は無いわ。安心して」


 はっきりとした声が聞こえた。自分をここに導いた声の主は近くに居る。しかしその姿は見えない。膝丈程度の雑草の中で、もしかしたら、隠れる様に寝そべっているのかもしれない。

 そんな事を考え、声のした方へ少女は近寄ろうとした。

 しかし「動かないで。音を立てちゃ駄目」と言う言葉は少女の動きを止めた。

 声帯が鳴る音がいつの間にか大きくなっている。いつ見つかってもおかしくない程に近くまで追っ手が来ているのが分かった。


 少女は両手で口元を押さえ、膝を折って丸くなる。先程まで死を覚悟し涙まで浮かべていたのに、人の声が聞こえた事とこの木々の保護感によって、少女は一瞬自分が追われている事を忘れてしまっていた。

 今は生と死の分かれ目なのだ。見つかったら逃れる術はない。死ぬだけだ。


 ガサッガサッと、枝に飛び移る音が大きくなる。そして増えている。最初は一体しか居なかった追っ手も、今では何体居るのかさえ分からない。少女にはその声帯の音と、枝葉が擦れる音が死の警告に聞こえた。

 少女は更に体を縮こませ、両手に力を込めた。

 ガサッという枝葉の音が真上で聞こえた。

 とうとう少女の隠れているこの大木までやって来たのだ。カッカッと鳴らす声帯が大きく聞こえる。

 少女は荒くなる息を両手で抑え込む。全身に力を込めても体の震えが止まらず、冷たい汗が背中を伝った。


 追っ手は、ただでさえ張り裂けそうな少女の心臓に、追い打ちをかける。枝から足と触手を離し、一体が少女の隠れているドーム型の根元に降り立ったのだ。

 自分を守っているドーム状の木がグワンと震え少女は悲鳴を上げそうになった。格子の様な木々であっても、根元に立ったのであれば追っ手のおぞましい姿がはっきりと見える。それは目の前で声帯を鳴らし、長い首を上下左右に振っている。

 もう心臓の音で居場所が知られるのではないかと思える程に、鼓動は高鳴った。


――大丈夫大丈夫。見つからない。早く、早く行って。


 目を閉じ、息を殺し、縮こまる少女は祈った。


――お願いお願いお願い。


 その祈りは天に届いたのか、視覚の無いそのおぞましい姿の追っ手は再度木々を揺らし次の枝へと飛び立った。五月蝿い程に沢山あった声帯の音は、枝葉の音と共に次々と遠くなっていく。


 しかし、少女は気がつかなかった。祈る事に一心不乱だった。


――生きなきゃいけないの。戻らなくちゃいけないの。お願い。お願い。


 祈る少女の意識を戻したのは「もう行ったわ。大丈夫」という言葉だった。

 少女はその言葉を聞いてハッと上を向く。もうあのおぞましい姿は見えない。ずっと遠くの方でまだ声帯を鳴らす音は聞こえるが、ここはもう見つからないだろうと思えた。


「はぁぁ。良かった」


 ドッと力が抜けて、疲労感が少女を襲う。

 しかし、未だに恐怖がこびり付いたままだった。唇の震えは止まったが体の震えはまだ止まらない。正直このまま一度休みたいと少女は思った。

 とはいえ、助けて貰った礼は言わなくてはならない。

 

 少女は滲んだ涙を拭いながら「助けてくれてありがとうございます」と誰とも分からない声の主に言った。

「どういたしまして。無事で良かったね」

 今まで気にする余裕なんて無かったが、良く聴くと女性の声だ。

「あの……あなたはこの木の妖精さんですか? 姿が見えないから」

 少女は素っ頓狂な質問をしたのだろう。声の主は一瞬戸惑った気配を見せたが、すぐにケラケラと笑った。

「妖精って。ファンタジーじゃあるまいし。面白い事言うね。あなた」

「ファン……タ? え? 何ですか?」

「ん? 物語のジャンルなんだけど……そっか。何処の国も本は管理貴族しか基本的に読めないものね。でも、妖精って言葉は知ってるのね。不思議」

 

 先程からこの声の主は何を言ってるのか少女には分からなかったが、平民は滅多に本なんて嗜好品を手に入れる事は出来ないと知っている。

 勿論、文字を覚える為の教科書のような物だけは普通に出回っている事も。

「ま、とりあえず私は妖精じゃ無いわ。安心して」

 声の主、否、彼女は、またケラケラと笑った。

 可愛らしくもあって、表裏の無さそうなその笑い声は、十分彼女の人柄を表していた。

 ほんの少し前の恐怖が、彼女のその笑い声でゆっくりと落ち着いて行くのが分かった。

 誰かが傍にいるというのは、こんなにも安心するものなのだろうか。と、少女は思った。

「妖精じゃないなら……あなたは一体……。そっちに行ってもいいですか?」


 少女の質問に沈黙が走る。

 彼女は思案しているのだろう、姿を見られたく無い理由があるのかもしれない。どちらにせよ傍に居るだけで、話せるだけで不安は紛れた。

「あ、嫌ならいいんです。助けてくれた方がどんな方か知りたかっただけで……。誰か私を探しに来てくれる……かは分かりませんけど、それまでこうしてお話しして貰えるだけで十分です」

 少女は沈黙に耐えきれず遠慮がちに言った。良く見ると、エシムの実が雑草に紛れて生えている。小さな実なのだが、非常に栄養価が高く、品質によっては高値で取り引きされる場合が多い。この実があれば二、三日間は生きていける。


「探しに来てくれる……ね。難しいかもね」

 彼女は口を開いた。姿を見たいという質問には答えず、助かるかどうかの質問には答えたのを見ると、やはり姿を見られたくないのだろうと思えた。直ぐ傍から聞こえる声なのだが、無理やりにでも姿を見ようなんて、覗こうなんて、恩人に対して無粋な真似はしたくない。

 少女は幾ばくかの好奇心を胸に閉じ込めた。

「そう……ですよね。この森に入って、更にこの場所を探し出す……なんて不可能ですよね。やっぱり来た道を戻るしかない……ですね」

 

 一人になってしまった場所からここまでの道を逆に辿れば戻れるとは思うが、追われて必死に逃げてきた為、正確に道筋を覚えてる訳ではない。ここまで逃げれただけで奇跡の様な物。それに、またあのおぞましい生き物に見つからずに戻る自信は無かった。

 

 また沈黙が走る。やはり先程から彼女は思案しながら話している様に思えた。何か伝えたい事があるのかもしれないが良く分からない。

 少女はまた沈黙に耐え切れず口を開こうとしたが、やめた。

 助けを待つ事も戻る事もどちらも現実的では無く、既に助かる見込みは無いのかも知れない。それを分かっているからこそ、彼女は口を閉ざしているのかも知れない。実際に彼女が妖精では無く、人なのであれば、ここに留まっている理由も分かる。


――現実的に考えても、戻るなんて事は一番無理……。そっか……そうだよね。だからこの人もここに留まってるんだ。今こうして命拾いはしたけど、結局は助からない。家に帰れない……。そっか……そっか……。

 

 思うと、じわりとまた涙が滲んできた。

 仲間達は皆、本当に良い人達ばかりだ。見捨てるなんて事はしない。きっとしない。しかし、何の装備も無く足を踏み込んだら、ほぼ間違いなく死が待ち受けているこの森に、自分を探す為にやって来るのであれば、多大な犠牲を敷くのは目に見えている。最悪の場合、全滅だ。

 そう考えれば考える程に助かる未来は見えず、少女は膝を抱え丸くなった。涙を拭う事もせず、声を殺して泣いた。


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