俺の名前は––––––
◆◆◆◆◆◆◆◆
「よっと」
綾乃の視点からでは、六人目の男の顔が『勝手』に切断された様に見えた。
少年が歩み寄り、腰を屈めてその顔を覗き込んで何かを告げた後、ずるんとしか形容できない音で盗賊の顔が滑り落ちたのだ。
「んぅー、っと」
右手を持って背伸びをする少年。
そのままくるりと向きを変え、軽い足取りで歩き出す。
突き刺した大剣を取りに戻ったのだろう。
その姿は、今まさに六人もの人間を惨殺した人殺しとは思えないほどあどけなかった。
歳は綾乃と同世代、もしかしたら年下かもしれない。
ボサボサに伸び散らかした頭髪と髭の存在があってですらそう感じるのだから、実際はもっと若い可能性もある。
ただ、そんな事はどうでも良い。
問題なのは、目の前の人物が下手したら盗賊達よりも危険な存在なのかもしれないという事だ。
儀式剣を正眼に構えながら、綾乃の足は小刻みに震えている。
腰は引け、唇はまるで楽器の様にカタカタと音を立てている。
あっという間だった。
人が六人も死んでいい時間じゃなかった。
正直何が起こってこの結果になったのか、綾乃にはさっぱりわからない。
見えなかった部分が沢山あった。
自分の知っている人間の動き。
それを超越した挙動だった事ぐらいしか理解が追いつかない。
「んで」
少年は地面に刺さったままの赤黒い大剣を取り、綾乃に向かって向き直す。
「ソイツ、どうする?」
左手の人差し指で指差しているのは、『荷造り人』の中年男性だった。
「ひっ、ひぃいいい!」
幼げな眼差しを向けられた中年は猛烈な勢いで腰を地面に落とすと、綾乃の服を掴んで背後に回る。
さっき自分が綾乃に向かって吐いた台詞を忘れたのだろうか。
土埃と汗でまとわりつくジーンズがただでさえ不快なのに、成人男性分の体重が掛かった事でさらに不快に感じられる。
「や、柳原さんは、殺さないで」
こういう場面で冷静で居られる自分を、綾乃は少し誇らしく思う。
ただ目にした現実についていけてないだけかも知れないが、この不愉快な中年に死なれると困る事情がまだ頭の片隅に残っていた事に気づけたのだから。
「裏切られたのに?」
キョトン、と頭を傾げて少年は大剣を一度振り、右肩に担いだ。
大剣の重量がまるで無いようなその仕草に、思わず違和感を覚えてしまう。
「うう、裏切ってない! 裏切ってないです! あの状況じゃしょうがないじゃないか!」
柳原と呼ばれた中年が、ブンブンと頭を振って叫ぶ。
縋り付いているのは自分より一回り以上離れた女子だと言うのに、まるで守られて当然と言わんばかりに綾乃の体を盾にして少年の視界からなんとか逃げ出そうとしている。
「……う、裏切られたけど。この人の持ってる水は必要な物だから。死んだらアイテムスロットごと消えちゃう」
そう。
そうでなきゃこんな性格に問題のある人物を連れて、危険な家の外を出歩いたりしない。
家には後何人か『荷造り人」の職を持つ人が居るが、一番多く運べるのは柳原だったのだ。
綾乃達は週に一度、化物の出ない新月の曜日にしか家の外に出れない。
戦闘経験のあるメンバーは慢性的に不足している。
化物達に囲まれて、その少ないメンバーすら失ってしまったら、次に外に出れる機会すら失われてしまう。
いや、もう手遅れではある。
数少ない『軽戦士』が、今日だけで五人も死んでしまったのだから。
「ああ、『荷造り人』か。このオッさん」
綾乃の短い説明に納得したのか、少年は興味無さそうに頷くと綾乃へと歩み寄る。
先程見た殺戮劇を脳裏に思い出し、咄嗟に後退ろうとした綾乃だが、未だ小刻みに震えてしがみつく柳原の身体が邪魔で身動きが取れない。
どこまでも厄介な男だ、と思った。
「んじゃ、ソイツはあんたに任せるわ。約束通り水を––––––」
「綾乃ちゃん!!」
少年が左手の平を綾乃に差し出したタイミングで、背後から綾乃にとって聞き覚えのある大声が聞こえてきた。
すぐに首を声に向け、邪魔な柳原の体を押しのける。
「陽子姉さん!!」
待ち望んでいた人物だった。
綾乃と柳原を逃がすために、十名を超える盗賊達を一手に引き受けて殿として残っていた人物だ。
太いジーンズに厚手の黒のジャケットを身につけ、ボロボロの布をマントのようにたなびかせ、ショートカットの茶髪を左右に揺らしながら、極めて女性的な肉体もついでに揺らして、綾乃が姉と慕う彼女––––––陽子が駆け寄ってくる。
「無事なのね!?」
「う、うん。姉さんこそ、大丈夫なの?」
綾乃の肩に優しく手を置いて、次にその頬と髪を撫でる。
片方の手には、細く鋭い切っ先を持つ片手剣。
俗に言う、レイピアが握られている。
鍔の部分は握った拳全体を守るように円形のグリップガードが存在し、全体的に緑色の装飾が施されている。
(……属性剣?)
少年は拠り所を無くして差し出した手をそのままに、陽子の持つ剣をジロジロと確認する。
(風属性……って訳でも無さそうだな。飾りの模様が風っぽくない。どちらにせよあそこまで『剣』を進化させられてるってことは高レベル……か?)
『剣』の意匠は、ある程度所持者の情報を表している。
(細剣ってことは、素早さで撹乱するタイプか。軽戦士か、もしくは固有派生職……)
先程の盗賊のように、儀式剣を見て何も察することのできない者は愚かだ。
その人物のレベル帯・職・戦闘スタイルなど、『剣』を通じて読むことのできる情報はかなり多い。
少年が持つ大剣はもう隠す事が出来ないほど大きくなってしまったが、本来は無意味に他者に晒すなど愚策なのだ。
「良かった。ごめんね? こっちに盗賊のリーダーがいたみたいでかなり手間取っちゃって、お陰で何人か取り逃がしてしまったわ」
「ううん。無事で良かった……ほんと、に……無事で……」
フルフルと頭を振る綾乃の声が、徐々にか細くなっていく。
「––––––良かったぁ……」
やがて声を震わせた。
緊張で張り詰めた精神が、ずっと気にかけていた陽子の登場で切れてしまったのだろう。
厚手のジャケットに包まれてなお豊満とはっきり分かるその胸に顔を埋めた。
仕方の無い事だろう。
17歳になりたての、普通の少女が見る光景としては些か酷すぎる物を連続で見たのだ。
本来なら悲鳴をあげ、取り乱していてもおかしくない。
「……ごめんね? 心配かけて」
細剣を地面に突き立て、綾乃の頭を両手で抱きしめる陽子。
慈しみと安堵を含んだ優しい笑みを浮かべて、震えが止まらないその頭に頬を寄せた。
「––––––ひっ、うっ、ううん? あっ、謝らなきゃいけないのは、わ、私だから。なんの役にも立たなくて、ごめんなさい」
我慢してもとめどなく出てくる嗚咽。
それでも綾乃は謝罪の言葉を絞り出す。
四方を下卑た笑いを浮かべる男達に囲まれて、身体が竦んでしまった。
あんな絶望的な状況で、一人置き去りにするしか無かったことを悔やんでいるのだ。
自分にもっと戦う力があれば、一緒に戦えたはずだと。
今までコツコツと積み上げてきた自信が、音を立てて崩れていくのを感じる。
分かっていたのに。
今の東京は、戦う力こそ生き抜くために必要な物だと。
あれほど痛感していた筈なのに––––––。
「––––––あー、もしもし?」
綾乃と陽子、二人して強く抱きしめ合い無事を喜んでいるその空気の中、少年が申し訳なさそうに口を開いた。
柳原はと言えば、抱き合う女性二人を地面から見上げて、バツが悪そうに縮こまっている。
「俺、さ。もう限界ってぐらい喉が乾いてんのね? 先に一杯、一杯だけで良いから。お水を恵んで下さい」
少年は、深々と頭を下げて物乞いをした。
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「ぷっはあ!! あぁ生き返る!」
ポリタンクから直接水をガブ飲みし、口を離した少年が叫ぶ。
「いやほんと、マジで死ぬかと思った! マジでありがとう!」
そしてまたポリタンクの口にかぶりつく。
「そ、それは良かったわ」
「う、うん」
その余りの勢いを見て、綾乃と陽子は若干引き気味である。
事の経緯は、少年が浴びるように水を飲んでいる時に説明していた。
陽子は若干怪しんで少年を見たが、その顔を注意深く観察した後は不思議と何かを納得したように頷くだけだった。
柳原と言えば、陽子のアイテムスロットに入っていた麻縄で雁字搦めに縛られている。
本人は何故か冤罪を主張していたが、元々家内でもあまり好意的に見られてなかったせいで信用度が無い。
有無を言わさぬ陽子の視線と、侮蔑を強烈に含んだ綾乃の視線とに射殺され、すぐに何も言えずに大人しく縛られるしか無かった。
ポリタンクの半分ほどが喉を通過した段階で満足したのだろう。
少年がポリタンクを下ろしてキャップを閉め、綾乃に差し出した。
「ふぅ、何度も言うけど助かった。もう余裕なくてさ」
「う、うん」
この量が一体この体のどこに消えたと言うのか。
綾乃がポリタンクの蓋を見てハテナマークを沢山浮かべる。
行儀が良いのか悪いのか、一滴足りとも地面に溢れていないのもまた謎だった。
「ああ、冷静になって考えりゃやり過ぎたな。喉乾いててカリカリしちゃってて」
そう言って少年は元盗賊だった物––––––死体を見る。
「いえ、助けてくれてありがとう。こちらこそ感謝してるわ」
陽子がにこやかに手を差し出す。
(ね、姉さん! いいの?)
その姿を見た綾乃が慌てて陽子の耳元で囁いた。
(たしかに彼は相当な人殺しだけど、助けて貰った事には変わりないわ。それに貴女が見た光景が本当で、この子が実は悪人だとしたら、その気さえあれば私達なんてあっという間に殺されている筈よ?)
(そ、そうだけど)
(どちらにせよ、今は下手に刺激しない方がいいのは確かよ。それに私達だけで家に辿り着くのはもう難しいわ。ほら)
陽子が指差したのは、ビルとビルの間。
好き勝手に伸びる樹木の幹と蔦の隙間から見える、白んだ空だ。
(新月の夜はもうお終い。もうじき化物達が湧き出す時間よ。役立たずな上に身動きすら取らせたくない柳原さんを連れて、二人だけで帰るのは––––––無理ね)
(……姉さんがそう言うなら)
ゆっくりゆっくりと空は色を変えていく。
東京が今の状況になった発端のあの日。
『終末週間』といつのまにか呼ばれたあの七日間から、月と太陽は姿を変えた。
東から昇らず、薄い輪郭を濃くするように天上の中心に現れる捻れた太陽。
西に落ちず、霞み行くように消え、そして時々『笑う』それは、もはや柔らかな日光を照らす大いなる天体とは思えない。
一番奇異で、一番重要なのは、日によって劇的にその姿を変容させる月だ。
月曜日は真っ赤に染まる。
火曜日は下弦の月が左右に揺れる。
水曜日は上弦の月が、上下に落ちる。
木曜日は半月は右と左で点灯を繰り返し、金曜日は虹色のグラデーションに発光する。
土曜日だけは唯一『普通』の満月で、日曜日はその姿をぽっかりと消して新月となる。
注意するのは月曜日だ。
月が真っ赤に染まるその日、地上は地獄と化す。
どこからともなく湧いて出た多種多様な化物達が縦横無尽に闊歩し、生きた人間と死んだ人間を貪り食う。
その強さも他の曜日を遥かに超え、月曜日に安全地帯から出歩けば、『確実な死』が待っているだろう。
その傾向は月曜日の日中から現れ始め、これから徐々に通りを化物達が埋め尽くす筈だ。
(それに……人を殺したって点では私も同じよ)
困ったように笑みを浮かべて、陽子はまた綾乃の頬を撫でた。
「そっ、それはみんなを守るために仕方なく!」
思わず声を上げてしまった。
綾乃は知っている。
今日の盗賊達もそうだが、陽子はかつて人を殺した事が何度もある。
例えばつい最近、一週間ほど前の事だ。
彼は家に最初から居た最古参の男性で、常に何かに怯えて居た。
かつての七日間で、救いを求めてきた人々らを押しのけて逃げ出した事を悔やんでおり、その罪悪感を募らせてついには妄想を拗らせて、家にいる子供一人を人質にとって妄想から逃れようとした。
仕方が無かった。
子供を道連れに家から出れば、二人とも化物の餌食になってしまう。
錯乱した男性は、子供を身代わりにして逃げるだろう。
だから、殺すしか無かった。
そして家内でソレを実行できるほど肝の座っていた人物は、陽子しか居なかったのだ。
他にも外から家を襲うためにやってきたゴロツキなんかも、陽子はその手にかけていた。
どれも仕方の無い事だ。
「……でも、結果は同じ」
「そ、そんなの! そんなの––––––」
違う! と反論しようにも、綾乃には陽子の言葉を覆すほどの明確な言葉が無い。
うなだれるように首を落とし、綾乃は沈黙する。
陽子本人が言っている言葉だ。
実際に動けず、見てるだけだった自分が何かを言える立場では無い。
それが綾乃には、理解できてしまうのだ。
「えっと、内緒話は終わった?」
いつのまにか廃墟の瓦礫に腰掛けていた少年が、頬杖をついて綾乃と陽子を見ていた。
「え、ええ。ごめんなさいね? ちょっと貴方にお願いがあ––––––」
「護衛でしょ?」
若干食い気味で、少年は笑いながら言う。
「お姉さん達の住んでる安全地帯まで、一緒に行って欲しい。違う?」
「––––––そ、そうだけど」
思いもしなかった反応に、陽子は面食らう。
「良いよ。一緒に行こう」
「––––––良いの? 私達に出せる物なんて、お水しか無いよ? そのお水も多くはあげられないし……」
そう聞き返したのは、綾乃だ。
まだ少年に警戒心を持っている。
本音を言えば、怖い。
断って欲しかった。
だけど確かに、綾乃と陽子の二人––––––役立たずの柳原も含めて三人では、この後の帰路は危険でしかない。
「ん。何も要らないから安心してくれ。俺は俺で別の目的––––––情報収集がしたいんだ。あんたらの住処にいる人達から、いくつか話が聞ければそれでいいから」
そう言いながら少年は瓦礫から立ち上がる。
赤黒い大剣をぐるんと勢いよく肩に担ぎ、白み始めた空を眺めた。
「あ、ありがとう。私は陽子。水野陽子。この子は––––––」
「蓮花、綾乃」
自己紹介は自分でする––––––と陽子の言葉を遮って、綾乃は少年の横顔をまじまじと見つめる。
強くなってきた空の光––––––太陽から発せられていない不可思議なその光を薄めで眺める少年の顔は、とてもさっき人を殺していた時と同一人物だとは思えない。
穏やかで、優しげで、でもとても強い瞳の光をを携えたただの少年だっ。
「貴方の名前を聞いても良い?」
陽子がにこやかに手を差し出す。
少年は顔を陽子に向け、続いてその手をしばらく眺めた。
数秒の沈黙が流れ、ゆっくりと口を開く。
「––––––大河」
声色に、なんの色も感じない。
「へ?」
あんまりにも無色透明だったその声は、陽子の耳には聞こえなかった。
だから、聞き返した。
「俺の名前は––––––大河だ」
少年は、今度ははっきりと。
獰猛な笑みを浮かべて、自身の名前を告げた。