第一話 目覚めたら
ラトリア王国コンドラッド領北西部、幾つかの小さな村が点在するだけの辺境の地に、"迷いの森"と呼ばれる場所があった。その名前が示す通り、例え熟練の狩人であろうとも入った者は必ず道に迷い遭難してしまう、そんないわくつきの森だった。
「神隠しに遭う」、「人食いの魔物がいる」、「魔女が棲む」、「過去に迷い人となった亡霊が襲ってくる」など様々な噂があったが、その謎を解明出来た者はいなかった。付近の村人たちは只々"迷いの森"を恐れ、誰も立ち入ろうとはしなかった。
いや、それでも立ち入る人間は存在した。眉唾話を偶々耳にした冒険者や武者修行の者達、そんな輩が忘れた頃に都から訪れ、村人たちの忠告を無視しては"迷いの森"へと入っていった。「俺が森の謎を解明してやる」「人食いの魔物が出ても俺がいれば大丈夫」―――彼らは皆腕に自信があったようで、決まってそんな大口を叩いていた。だが、結局、誰一人戻ってくる事はなかった。村人達の"迷いの森"に対する畏怖の念はますます強くなり、いつの間にか、森に近付く事自体が禁忌とされた。
それは戒めとして、村の親から子、子から孫へと代々伝えられていった。戒めは大切に守られ、何百年もの間、その森に近付く村人はいなかった。
だから、何百年もの間、村人達は知らなかった。
その森に、一見古い洞穴にしか見えない人工的な穴が存在する事を。そして、その洞穴の奥には、幼い頃のお伽噺で誰でも一度は耳にしたことがある大魔法使いが眠り続けている事を―――。
――――
そこは、奇妙な造りをした部屋だった。
壁は岩に似た硬質の素材で作られているようだが、岩特有のゴツゴツした感触はなく、まるでヤスリ掛けしたかのように滑らかだった。棚には医療器具のような不思議な形状の道具や、計測器のようなものが雑然と並んでおり、まるで何かの実験室を連想させた。
その部屋の一角には簡素なベッドが備え付けられていた。
そして、そこには一人の少年が静かに横たわっていた。
淡い、黄色の光に包まれながら―――。
やがて、少年の身を纏う光が少しずつ弱くなっていく。
完全にその光が消えたと同時に、少年の瞼が薄っすらと開かれた。
目覚めた少年は、ベッドの上で上半身をムクリと起こし、ボンヤリした目つきで周囲を見渡す。そして、机の上に置いてある数字の書かれた機械のような物に目を留め、ポツリと呟いた。
「……長期睡眠の期間は七〇三年か。大体計算通りじゃな」
少年の口調はその見た目に不相応な、まるでお爺さんのような喋り方だった。独り言を呟きながら少年はベッドから降りると、壁に設置してある計器をチェックしはじめる。
「人避けの結界は七〇〇年間無事に稼働していたようじゃな。研究所への侵入者の形跡は、無しか。それにしても、何とも久しぶりな気がするのぉ。体感的には一晩寝て目覚めたようなものなんじゃろうが、まるで、長い長い夢を見ていたような、そんな気分じゃ……」
一通り計器のチェックを終えた少年は、実験室の脇にある小部屋に向かった。
その部屋は造りからしてどうやら洗面所のようだった。
「―――なっ! ……なんと」
鏡に映った自分の顔を見た瞬間、少年は絶句してしまった。少年は鏡に擦り寄り、そこに映る自分の顔を食い入るように見つめる。そんな少年の瞳には、薄っすらと涙が浮かんでいた。
「これが、あの皺くちゃだった儂の顔……。おぉぉ、髪の毛が、こんなに……」
たっぷり一時間ほど自分の顔を眺めた少年の瞳には、今度はギラギラと滾るような色が宿っていた。
「ふふふ、見ていろよ、儂……いや、俺は生まれ変わったのだ。このオルクス・リュドー、今こそ昔日の屈辱を晴らす時……!」
もはや口調さえ変わってしまった少年――オルクスは、壁に書かれた文字に視線を向ける。
―――"もうハゲなんて言わせない"
それは、オルクスが苦しい研究生活の中で自ら戒めとして壁に記した言葉。
若返りの術は簡単な術ではない。過去に何人もの賢者が挑み叶えられなかった、伝説と呼ぶべき大魔術なのだ。天才であるオルクスは何とかその秘術を完成させることが出来たが、それでも三十年という長い研究の時間が必要だった。長く苦しいその過程において、時にオルクスも行き詰まり挫折しかける事があった。そんな時にオルクスを奮起させてくれたのが、この壁に記した戒めの言葉だった。
「全盛期の髪を取り戻した俺に最早死角はない。待っていろよ、世の女ども……」
壁の文字を指でなぞり、万感の思いでそう呟くと、オルクスは早速外に出る準備を始めた。
「……この研究所はどうするかな。まぁ、盗られて困るものもないし置いておくか」
オルクスは壁際に設置してある魔法陣に移動し、予め決めておいた起動コードを唱えた。魔法陣から溢れ出した光がオルクスの身体を包み込んだ瞬間、オルクスの姿を掻き消してしまった。次にオルクスが現れたのは"迷いの森"の奥深くにある洞窟の奥だった。先ほどの転移魔法陣は地下深くにある研究所とこの洞窟を結ぶ、詰まるところ玄関になる。転移魔法陣が発動したのは実に七〇〇年前ぶりなのだが、魔法陣の動きはそんな事を感じさせないスムーズなものだった。
オルクスは早速フライの魔法を使って"迷いの森"の外に飛び出ると、そのまま高速で移動を開始した。
「この辺りの風景はほとんど変わってないようだな」
遠くに見える山々の頂きやその合間を縫って流れる河を眺めながら、オルクスは独り言ちる。
オルクスはこの地――ラトリア王国コンドラッド領で産まれ育った。眼下の風景は慣れ親しんだものであり、七〇〇年前と大きく変わった所があれば気付きそうなものなのだが、先ほどから自分の記憶の中の景色と大差のない眺めが続いていた。もっとも、この辺りは田舎で有名なコンドラッド領の中でも更に辺境の地にあたる。七〇〇年前でも開発を行うような酔狂な者はいなかったし、仮に七〇〇年後も同じ景色が続いていても驚かない自信がある。
オルクスが目指しているのはコンドラッド領の領都コンドラだ。コンドラは国内でもそこそこ発展した都市の一つに数えられる。オルクスの恋を実現する為には、まずは人の多い所に行く必要があった。
普通ならこの辺境からコンドラまで徒歩で二、三日は掛かる道のりなのだが、オルクスは山も川も飛び越す高速飛行によって、ものの数時間でコンドラに到着しようとしていた。
「……ん?」
ふと、オルクスの視界に見慣れぬ物が映った。蝙蝠のような翼を広げた巨大な爬虫類、竜の亜種であるワイバーンだ。ワイバーンは十匹ほどの群れを成し、大空を我が物顔で飛んでいた。
ワイバーンはしばしば人里を襲い、その度に甚大な被害をもたらす害獣である。さすがに本物の竜には及ばないものの、その戦闘力は侮れない。発見されれば即、討伐怜が下されることほどだ。しかも、目の前のワイバーンは十匹の群れを成している。こうなると王都の騎士団に討伐依頼が出されるほどの危険な案件だった。
「このコンドラッド領を白昼堂々ワイバーンが飛ぶようになっているとは……嘆かわしい」
オルクスはやれやれと首を振り、そんなことを言った。
七〇〇年前にも勿論ワイバーンはいた。だが、このコンドラッド領ではほとんど目撃される事はなかった。それは、オルクスが害獣駆除と素材集めを兼ねて狩り尽くしてしまったからだ。領外を住み処としていたワイバーンもコンドラッド領に入った途端に狩られてしまうものだから、七〇〇年前にコンドラッド領の付近の空を飛ぶワイバーンは皆無であった。
「若返った肉体の感覚を試す良い機会だ。悪いが実験台になってもらうぞ」
オルクスは不敵に笑い、遠方の空で翼を広げているワイバーンの一体に掌をかざす。
「エアカッター」
オルクスがノーモーション放ったのは風の初級魔法エアカッターだ。
ワイバーンは超高速で飛来するエアカッターを全く関知することが出来なかった。数百メートルほど離れた場所で、ワイバーンの首と胴体がスパッと離れ、事切れたワイバーンが地上に落下していった。
「おお! 身体への魔力伝導が全く違う!」
魔法を放った自身の手を見つめ、オルクスは歓喜の声をあげた。
一般的に魔法は年老いた者の方が練達と言われているが、それは年を取り経験を積むにつれ扱える魔法が増えていくからだ。実は、魔法を放つスピードや魔力を身体に巡らせる魔力伝導は若い者の方が優れているのである。
オルクスは知識としてそのことを知っていたが、実際に体感してこれほどの差がある事に驚いた。
オルクスが七〇〇年の眠りに入る寸前、肉体年齢は九〇近かった。先ほどオルクスは、その身体の感覚で魔法を放った。しかし、実際のエアカッターの威力はオルクスの記憶の物とかけ離れていた。オルクスは改めて十五歳の肉体に歓喜した。そして、今ならどんな魔法でもかつての数倍の威力で放つことができると確信したのだった。
「ワイバーンよ、今日の俺にあったことが不運だったな。サンダー!」
群れの一体が突然狙撃されたことでワイバーンの群れには動揺が走っていた。隊列は大きく乱れ、ワイバーン達はバラバラにその付近を旋回していた。そんな中、更に一体のワイバーンが雷撃の魔法によって撃墜された。狙撃されたワイバーンは真っ黒になり煙をあげながら落下していく。この頃になってようやく、ワイバーン達は狙撃手の居場所に見当がついた。ギャアギャアと威嚇するような声をあげると、ワイバーン達はオルクスに向かって殺到してきた。
「ようやく俺の場所に気付いたか……。だがもう遅い」
オルクスが詠唱を始めると、視認できるほど濃密な魔力がオルクスの全身から溢れ始めた。その魔力はうねりながら両手に集まっていき、さらにその濃さを増していく。
この時、オルクスは一つのミスを犯していた。オルクスには珍しく、調子に乗っていたのだ。
基本的にオルクスは慢心するタイプの人間ではない。尊大な口調が目立つものの、それは自分の力と相手の力を慎重かつ正確に見極め、その上で確たる勝利の自信があるからだ。そして、オルクスはほぼ常勝の存在なので、そのような口調でいる事が普通になってしまった。しかし、勝算が見えない時――例えば女性関係など――は慎重な行動をとる人間だった。
そんなオルクスが、この時は勝算抜きに浮かれていた。しかし、それは止むを得ない部分もあるかもしれない。若返りの秘術の成功という歴史に名を残す偉業をやってのけた上に、その秘術は予想より遥かに高い効果を発揮したのだ。オルクスでなくともほとんどの人間が己に陶酔してしまうことだろう。もっとも、オルクス自身はそんな名誉よりも長年の悲願が成就した事が一番嬉しかったようだが。
詠唱を終えたオルクスが、こちらに急接近中のワイバーン達に向かって手をかざす
「大紅炎―――!」
オルクスの掌から無数の閃光が放たれ、赤い網目を形成していく。もしも地上でこの様子を見ていた人間がいたら我が目を疑っていただろう。空を覆わんばかりの巨大な赤い網が突如として出現したのだから。
巨大な網はまるで小魚を一網打尽にするかの如くワイバーンの群れに覆い被さる。赤い網の正体は一本一本が超高温の炎であり、その網に僅かでも触れたワイバーンから忽ち消し炭になっていく。
明らかにオーバーキルの威力だったが、この時のオルクスはそんな事を全く考えていなかった。老体だった時よりも遥かにスムーズに魔法を放てることが愉しく、そして快感だった。
オルクスがようやく異変に気付いたのは、ワイバーンの最後の一体が消し炭になって落下した時だった。
「……なんだ? 目が、ボヤける……。身体が、重い……」
オルクスは急に訪れた身体の変調に困惑していた。魔力は忽ち制御が効かなくなり、やがてフライも維持できなくなったオルクスは、地面に向けて落下していった。急速に意識が遠のく中、オルクスはこの感覚を遠い昔に経験した事あるのに気が付いた。
(あ、これ魔力切れだ……)
その思考を最後に、オルクスは意識を手放した。
―――
「ん……?」
オルクスが目を覚ますと、薄暗い空間の中にいた。
(ここは、部屋……? いや、地面が揺れている。乗り物の中、か?)
オルクスがいるのはそれなりに大きな馬車ようだった。まだ視界が慣れていないのでハッキリとは分からないが、暗い馬車内には他にも複数の人間がいる気配がする。オルクスはそんな馬車の一角に寝かせられていた。
何でこんなところに? と考えかけた所で、オルクスは自分が魔力切れを起こし意識を失ったことを思い出した。倒れていた所を付近を通った乗合馬車にでも拾われたのだろうか? オルクスはそんなことを考えていた。
「……目、覚ました?」
オルクスがぼんやり物思いに耽っていると、不意に声が掛けられた。
声の主は隣に座っている少女だった。
オルクスはその少女に問い掛けた。
「ここは……?」
「……」
しかし、少女は何も答えなかった。他の乗客も同じだ。みんな同じようにオルクスに対して何も話そうとしなかった。
少し間が空いて、少女が躊躇いがちに口を開いた。
「……ここは、奴隷商の馬車の中。道端で倒れていた貴方を、この馬車の主――奴隷商が拾った」
「奴隷商?」
次第に薄暗い馬車内にも目が慣れてきた。改めて少女を見ると、頭には獣の耳があり尻尾が生えていることに気が付く。獣人だった。馬車に同乗している他の者もそのほとんどが獣人のようだ。
ラトリア王国では奴隷商売が合法だ。そして、緩やかではあるが人族至上主義を掲げるラトリア王国内で、奴隷として最も多く取引されるのが非人族である獣人だった。
少女が獣人だという事が分かり、オルクスにも今の状況が理解できてきた。ここに乗せられている者はみな奴隷となってしまった獣人達だろう。そして、普段から差別を受けている獣人は基本的に人族を嫌っている。少女がオルクスに対して余所余所しい理由は、それが原因なのだろう。
「……貴方を拾った奴隷商から、貴方の面倒を見るように言われた」
本当は不本意だけどね。少女の顔にはそんな気持ちがアリアリと現れていた。
だが、次に少女が続けた言葉はオルクスにとって予想外のものだった。
「人間は嫌い。だけど、貴方の境遇には同情する……。まさか道端で倒れていたところを奴隷にされるなんてね」
「―――はぁ?」
オルクスは思わずそんな間の抜けた声を出してしまった。
「奴隷商が言ってた、貴方は竜とワイバーンの戦いに巻き込まれて気絶しちゃったんだろうって。確かに、貴方が倒れていた近くには、焼き殺されたワイバーンの死体がいくつもあった。ワイバーン相手にあんな事が出来るのは竜ぐらい。よくそんな現場にいて命があったものね。貴方、覚えてないの?」
何故かワイバーンを倒したのがオルクスではなく竜の仕業になっていたが、オルクスにはこの際どうでもよかった。それよりも聞き捨てならない話が少女の台詞の中にはあった。
「そんなことより、先ほど、"俺が奴隷にされた" そう言ったのか?」
「うん」
少女はそう言うと、自らの首とオルクスの首を交互に指差す。
そのジェスチャーで少女の言わんとするところを察したオルクスは、恐る恐る自分の首に手を遣った。
するとそこには、少女のものと同じ首輪が嵌められていた。