無人島に潜伏する者
ホプキンの悲鳴が聞こえたのは一度きりだった。それにもかかわらず,俺が迷わずにホプキンの元に辿り着くことができたのは,テレーゼの咽び声がそこまで案内してくれたからだった。
教会の裏庭の芝生の上で,ホプキンは倒れていた。
ホプキンの頭はテレーゼの膝枕の上に乗せられ,テレーゼの涙の滝を浴びていた。
「ホプキン! ドウシテ死ンジャッタノ!? ホプキン! 目ヲ覚マシテ! ホプキン!」
二度と返事をすることのない屍に,必死で応答を求めるテレーゼの姿は見るに堪えなかった。ましてや声をかけることなど到底出来ない。
「ホプキン! ホプキン! ドウシテナノ!? ホプキン!」
テレーゼがホプキンの身体を揺さぶったとき,ホプキンの着ていたシャツが捲れ上がり,お腹が露見した。
ホプキンのお腹は赤く変色していた。地肌の色が違うために断言はできないが,マリアンヌの腕に表れていた症状と全く同じ症状がホプキンにも表れているように見えた。
辺りを見渡すと,腕の長さくらいに切られたギイヌクサが,ホプキンの足先2メートルほどの位置の芝生に落ちていた。間違いない。ホプキンは,マリアンヌ同様,ギイヌクサの神経毒によって殺されたのである。
俺はさらにホプキンから10メートルほど離れた位置に,紙片が落ちているのを発見した。
拾い上げると,それには,次のように書かれていた。
「私は,私の母である来栖房子を殺した奴を幸せにはできない」
「藪坂サン」
突然後ろから声を掛けられたとき,俺は心臓が止まるかと思った。反射的に,俺は紙片をポケットの中に入れる。
振り返ると,そこにはエドモンドがいて,その少し後ろには崎戸がいた。
「…エドモンドさん,崎戸さん,今来たんですか?」
肩で息をしながら,2人が同時に頷く。
「藪坂サン,ホプキンハ大丈夫デスカ?」
「…いや,残念ながら…」
俺は大きくかぶりを振る。
エドモンドがテレーゼではなく,俺に安否を確認したのは,テレーゼに尋ねることが憚れたからだろう。
「…ソウデスカ…」
エドモンドが肩を落とした。
「藪坂サン」
涙声で俺に声を掛けたのは,テレーゼだった。
「ホプキンハ死ニマシタ。ホプキンハ私ノ恋人デシタ」
やはりテレーゼとホプキンは恋仲だった。
「ホプキンハ,コノ島ニ潜ンデイル何者カニヨッテ殺サレタノデス」
ホプキンは,ホプキン以外の全員が男性キャスト控え室にいる間に殺された。
犯人は結婚式関係者以外の者である,ということは今や疑いようがない。
「藪坂サン,アナタハ今,ココニイル場合デハアリマセン。来栖サンヲ一人キリニシタラ危ナイデスカラ」
テレーゼの言う通りである。
マリアンヌもホプキンも,犯人の餌食となったのは,一人きりとなったタイミングである。
今,裏庭の芝生には奈加子以外の全員が揃っている。裏を返せば,奈加子は今,一人きりになっているということである。奈加子が犯人に襲われてしまうおそれがある。
それに-俺はポケットに手を入れる。この紙片に書かれていることについて,すぐにでも奈加子と話さなければならない。
メッセージに書かれていた「来栖房子」は,一昨年に自殺した,奈加子の母親の名前だった。
俺が男性キャスト控え室に戻ると,奈加子は,机に突っ伏して泣いていた。
「…仁君,行けなくてごめん。私怖くて…」
俺の気配を察知した奈加子が,声を絞り出す。
「大丈夫。別に奈加子が来る必要はなかったから」
「…ホプキンさんは無事だったの?」
俺が何も答えなかったことからホプキンの死を悟った奈加子は,大きな嗚咽を漏らした。
奈加子が泣き止むのを待ってから,俺は奈加子に話しかける。
「悪い。奈加子,ちょっといいかな?」
「…何?」
「これを見て欲しいんだ」
俺はポケットから紙片を取り出すと,明朝体の文字が書かれた面を表にして,奈加子の目の前に突き出した。
「…私は,私の母である来栖房子を殺した奴を幸せにはできない」
奈加子が紙片の文字をそっくりそのまま読み上げる。
「仁君,これ,どういうこと? ママは誰にも殺されてなんかいないわ。自殺よ」
「そうだよな。俺もそう思う」
房子が死んだのは,2年前の秋。俺が奈加子と交際を始める前である。
房子が自宅の風呂場で手首を切って倒れているところを,使用人が発見した。使用人が発見したときには,すでに房子は絶命していたとのことだ。
「ママはパパの浮気が許せなくて,それで自殺をしたの。だから,誰もママを殺していないわ」
一代で財をなした社長にありがちなように,奈加子の父,すなわち房子の夫である来栖陸夫は,女癖が悪かった。
房子が自らの命を絶ったのは,陸夫が銀座のホステスと10年以上関係を続けていたことを房子が知ってから,一週間も経たない頃だった。房子が自殺した原因は夫の浮気である,というのが,来栖家においても,陸夫が社長を務める会社内においても,さらには醜聞を扱う週刊誌においても,定説だった。
房子の死を不審がる者など,俺は一人も知らない。
「…仁君,私のママに何かしたの?」
奈加子の大きな瞳がまっすぐに俺を捉えた。
「…もちろん,何もしてないよ。会ったことだって数回程度だ」
奈加子と付き合う前から,俺は陸夫が立ち上げた繊維企業に勤めており,なおかつ,俺はもっとも陸夫に気に入られた社員の一人だった。そのため,房子の生前,俺は陸夫の家に招待されたことが何回かあった。
そのときに房子とは顔を合わせているが,それだけの関係である。
房子の死に関与している,と糾弾されても,心当たりは一切ない。
「だよね。仁君がママを『殺す』わけがないよね」
「もちろん,奈加子がママを『殺す』わけもない。あれは自殺なんだ。それにもかかわらず,誰かがその事件を,自殺じゃない,と勘違いして,蒸し返そうとしている。しかも,その誰かは『犯人』が俺か奈加子のどちらかだと勘違いしている。その上,関係のない人を2人も殺すだなんて,その誰かはどこまでも狂ってるよ」
俺は,握り拳で机を叩くことによって怒りを露わにした。
「というか,奈加子,確認だが,奈加子は一人っ子だよな?」
紙片には,「私の母である来栖房子」と書かれている。このメッセージを素直に読めば,犯人は房子の子供,ということになる。だからこそ,俺は拾った紙片を誰にも見せずにポケットに入れたのだった。この紙片に書いてあることをそのまま解釈すれば,今回の事件の犯人は,奈加子ということになってしまう。
もっとも,仮に奈加子以外に房子の子供がいるのだとすれば,そいつが今回の事件の犯人である可能性が生じてくる。
ただし,今まで俺は,奈加子以外に房子に子供がいる,という話は一度も聞いたことがなかった。
予想外なことに,俺の質問に対して,奈加子は即答しなかった。
「おい,奈加子,答えてくれ。奈加子は一人っ子だよな?」
「…仁君,実はね,私には姉がいるの」
「え!?」
寝耳に水だった。そんな話は社内では一切知られていないし,奈加子自身からも聞いたことがない。
「仁君,今まで隠しててごめんね」
「おい! どういうことなんだよ!? そんな話,聞いてないぞ!」
俺は奈加子の肩を大きく揺さぶった。
「仁君,そんなに取り乱さないでよ。お姉ちゃんは,少なくとも法律上は,もう死んでるから」
「…どういうことだ?」
俺は奈加子の肩から手を離す。
「私のお姉ちゃんは,伽倻子っていうの。お姉ちゃんは自由な人だったから,パパの会社を手伝う気もなかったし,ましてや,会社の跡取りとなる男性と結婚をする気もなかった。だから,大学生の頃,パパとママの許しも得ないまま,中東へと飛び出して行っちゃったの」
奈加子同様,伽倻子も社長令嬢である以上,人生にある程度レールが敷かれていたということだろう。
側から見ると羨ましい話であるが,実際にその環境に置かれた者が,レールから逸脱したくなる,ということは想像できない話ではない。
「お姉ちゃんのあまりの自由奔放さに,パパもママも目くじらを立てちゃって,特にパパなんてカンカンでさ。国際電話で,『お前なんか勘当してやる』って叫んでた。まさか,その数ヶ月後には,金輪際,お姉ちゃんに本当に会えなくなるなんて思わずにね」
「何があったんだ?」
奈加子が大きく息を吸う。
「お姉ちゃんがイラクの首都のバグダッドに行ってたときに,大規模な自爆テロがあったの。一瞬にして人や建物が火だるまになって,死者は200名を超えた」
「…お姉さんは,テロの犠牲者になったということか?」
「…分からないの。本当のところはね。というのも,爆発の威力があまりに強過ぎて,死体の半分以上は,損傷が激しくて身元を特定することができなかった。私たち家族が分かってることは,バグダッドで大規模な自爆テロがあったことと,その日にお姉ちゃんがバグダッドにいたということ,そして,その日を境にしてお姉ちゃんとは一切音信不通になっちゃったということだけ」
「つまり,失踪か」
「そう。私たち家族はお姉ちゃんの失踪届を出した。もう10年以上も前にね。だから,法律上,お姉ちゃんは死亡したとみなされている」
民法上,事故に巻き込まれた等,危難が訪れ,ある者の行方が知れなくなったときには,その危難があってから1年後に,失踪宣告がなされ,そのある者は死亡したものとみなされる。仮に危難がなかったとしても,7年間生死不明の状態が続けば,同様に失踪宣告がなされる。
いずれにせよ,法律上は伽倻子は死んでいるということで間違いない。
「…じゃあ,もしかして,奈加子は,そのお姉さんが実は生きていて,今回の事件を引き起こしているとでもいうのか?」
「…可能性はゼロじゃないかな,って」
たしかに論理的に考えればその可能性はゼロではない。
それどころか,「私は,私の母である来栖房子を殺した奴を幸せにはできない」というメッセージを素直に解釈すれば,犯人は伽倻子以外には考えられないということになる。
実は伽倻子が生きている。そして,伽倻子は,房子の死について,俺か奈加子が関与していると考えている。
そのために伽倻子は俺たちに先立ってアイジャンガリ島に乗り込み,俺と奈加子の結婚式を妨害するため,今回の事件を起こした。
突飛なように思えるが,今のところ,これが一番筋の通る説明なのである。