現れないパイプオルガン奏者
教会のホールは,太陽が与える自然の光によって優しい明るさを保っている。本番はもう少し採光を限って暗くするそうだ。
ステージ上の俺は,改めてぐるりと一周ホールを見渡す。
外見の調度もすごかったが,華美で荘厳な屋内はより圧巻である。
高い天井に釣り下がっているシャンデリアは,巨大な宝石のように輝いている。
聖書のワンシーンを描いているのであろうステンドグラスは,一人一人の人物の表情に凝っており,3日3晩眺めていても飽きないだろう。
この素敵な空間がたった1時間程度の儀式のために消費されてしまうと考えると,いささか勿体無い気さえする。
「どうしよう。こんなに大勢の人は呼んでないんだけど」
奈加子が指を差して客席の数をカウントする。
「うわあ,100席以上あるねこれ。全然埋まらないよ…」
ウエディングドレス姿の奈加子が目を泳がせる。奈加子が今身に纏っているのは,本番で着用する物と同じドレスである。リハーサルでここまでする必要はないとも思うのだが,入退場やベールを外す練習のためには,本番同様の格好をした方がよいそうだ。
もっとも,本番とは違って化粧っ気はないため,奈加子の「人生で一番美しい姿」はまだ明日に取り置かれている。
なお,俺もちゃっかり白いタキシードを着用している。
「奈加子,何言ってるんだよ。客席の数については,教会を選ぶときに確認しただろ。本番のときには後ろ半分を布で覆って隠すって,ウェデイングプランナーの佐藤さんが言ってたよな」
「ああ,そうだった! 仁君,よく覚えてるね!」
奈加子がパチンと手を叩く。この天然さ加減は,世間における「社長令嬢」のステレオタイプ通りかもしれない。
奈加子は大手繊維メーカーの社長令嬢であり,俺はその企業の重役候補である。
そのため,取引先の人間などが,種々の思惑から,2人の結婚式に参加したい,と考えてもオカシくはない。
しかし,結婚式をきな臭い場にしたくないという奈加子の希望から,招待状は,2人の親族および本当に親しい間柄の者にしか出していなかった。
「藪坂仁太サン,来栖奈加子サン,飛行機デハ眠レマシタカ?」
片言の日本語で2人に話しかけたのは,黒いケープで身を包んだ神父だった。名前はエドモンド。
「はい。おうちみたいにグッスリ眠れました」
奈加子がクシャッとした笑顔を見せる。
奈加子が離陸早々に深い眠りに落ちていたことについては,飛行機で隣の席に座っていた俺も証言可能である。
「ソレハ良カッタデス。藪坂サンハドウデシタカ?」
「奈加子ほどではないですが,それなりには」
「ソレハ良カッタデス」
エドモンドは俺に優しく微笑みかけた。
エドモンドは,俺が事前に思い浮かべていた神父のイメージに完全に合致する,温和な性格の人間のようだ。
「コノ人ナンテ,飛行機ノ中デ鼾ガウルサクテ大変ダッタンデスヨ」
エドモンドよりも流暢な日本語で会話に加わってきたのは,コーラスを担当する金髪の女性だった。名前はテレーゼ。
「ダカラ,音楽ヲ聴キナガラ寝ロ,ッテ言ッタデショ!」
同業者に非難された黒人の男性が,躍起になって声を上げた。彼の名前はホプキン。
結婚式でコーラスを担当する男女2人は,どうやら飛行機の中で隣同士の席だったらしい。
日本のブライダル会社に依頼したので当然かもしれないが,結婚式の演者は全員外国人でありながらも,相当に日本語が上手かった。同宿の者と言葉が通じるというのは,それだけで安心する。
「ところで,リハーサルはいつになったら始めるんですか? もう予定の時間は過ぎているみたいですが…」
奈加子が,俺が身につけている腕時計を見ながら,エドモンドに尋ねる。
「パイプオルガン担当ノマリアンヌガマダ来テナイデス」
たしかにパイプオルガンの目の前の椅子は空席となっている。
マリアンヌとは船を降りた直後に何言か交わした記憶があるが,細身の白人の女性だった。
「着替エニ時間ガカカッテルンデスカネ?」
というホプキンの仮説に,テレーゼがすかさず,
「ソレニシテモ遅イワヨ」
と反証する。
たしかにリハーサル開始予定時刻をもう15分近く過ぎている。たとえ,急な腹痛に襲われた,ということだとしても,とっくに現れているべきである。
「私,女性キャスト控え室を見てきますね」
そう言って立ち上がったのは,客席にいたウェデイングプランナーの崎戸未彩だった。
俺と奈加子は,崎戸とは初対面だった。
元々この結婚式のウェデイングプランナーを務めていたのは,佐藤さんという初老の女性だったが,佐藤さんの日程調整が難航したらしい。そこで,結婚式の本番及びリハーサルのみ,佐藤さんよりも1回りも2回りも若い崎戸が代打を務めることとなった,とのことだ。
スラックス姿の崎戸は,ポニーテールを揺らしながら,小走りで教会のホールを出て行った。
「最悪,マリアンヌさんがいなかったら,私がパイプオルガンを弾いてもいいんだけどね」
奈加子は幼少の頃からピアノを習っていた。学生の頃にはいくつか受賞歴もあるらしい。
「奈加子,冗談はやめろよ。奈加子がピアノで入場曲を弾いてる間,誰が花嫁として入場すればいいんだよ」
結婚を控えた2人が笑い合っていると,崎戸が出て行くときに開け放たれていた教会のドアから,鋭い女性の悲鳴が飛び込んできた。
「きゃああああああああ!」
悲鳴にまず反応したのは,神父のエドモンドだった。
駆け足でステージの階段を駆け下りると,そのまま教会を飛び出していった。
「…仁君,あれって,崎戸さんの声だよね?」
「…多分」
俺の腕を掴んだ奈加子の手は小刻みに震えていた。悪寒が底知れぬ恐怖となって,奈加子の華奢な身体を襲っているに違いない。
「…仁君,どうしよう…」
「ゴキブリが出た,とかだといいんだけど。…とりあえず,様子を見に行こう」
俺は奈加子と腕を組んだまま,ドレスを引き摺りながら歩く奈加子に歩幅を合わせ,ゆっくりと教会を出た。
幅の広い廊下を歩きながら女性キャスト控え室に向かう最中,奈加子は涙目だった。
女性キャスト控え室のドアは開け放たれていた。
部屋に入ってまず見えたのは,崎戸とエドモンドの背中だったが,背後に気配を感じた2人がさっと避けると,そこには黒いケープを纏った女性がうつ伏せで倒れていた。
血は一切流れていない。しかし,着衣の捲られた女性の右腕は異常なくらいに赤く変色している。
女性の横には,見慣れない植物のツタのような物,そして,俺の位置からは文字を読むことができないが,白い紙片のような物が落ちていた。
「…これって…」
「…マリアンヌサンデス」
「…無事なんですか?」
俺の問いかけに対して,エドモンドさんは俯いて床を見た。
「イイエ。先ホド脈を確認シタノデスガ,彼女ハモウ死ンデイマス」
エドモンドが「死」という言葉を口にすると同時に,俺の腕にかかっていたいた力が,ふっと消えた。
気絶した奈加子がその場に倒れてしまったのである。
「奈加子! おい! 奈加子! しっかりしろ!」
しゃがみ込んだ俺は,奈加子の身体を揺らす。
「藪坂サン,アナタハ奈加子サンノ面倒ヲ見テクダサイ。コノ場ハ私タチデナントカシマス」
「…ありがとうございます」
俺は,ウェディングドレス姿の奈加子を抱きかかえると,教会と屋外の廊下によって繋がれた,宿泊予定の部屋へと向かった。