「結婚式専用」の無人島
何もなかった水平線の先に,朧だが島のようなものが見えてきた。
「船長,あれがアイジャンガリ島ですか!?」
来栖奈加子が俺と組んだ腕を離さないままで,子供のように高い声を出す。
浅黒い色の肌をした船長は,日本語が分からないながらも,奈加子の質問の内容を概ね察し,「イエス」と言って,親指を立てた。
奈加子は,とてもよく懐いた猫のように,俺の頰に自らの頰を寄せる。
「仁君,ワクワクするね」
「ああ」
俺は奈加子の,晴れ舞台のために染め直した茶色い髪を優しく撫でる。
やけに上機嫌な奈加子は,赤く染まった頰を,今度は俺の胸に沈めた。
アイジャンガリ島は,インドネシアにある無人島である。
そこには,小型船が離発着できる小さな港と,大きな山と,建物が一つしかない。
人々がアイジャンガリ島に向かう目的は一通りしか考えられない。結婚式を挙げるため,である。
アイジャンガリ島にある唯一の建物は,ペンション風の居住空間を併設した,西洋風の教会である。
教会は比較的新しく,非日常空間である無人島で結婚式を挙げたいという海外客の需要に応える形で作られたものだ。
港も,教会が作られた後に設置されたものである。
つまり,アイジャンガリ島は「結婚式専用」の無人島なのである。ほんの十数年前までは文字通りの無人島で,人が出入りすることは一切無かったと聞く。
「船長さん,この船って次はいつ来るんですか?」
奈加子が,愛嬌のある大きな目を船長に向ける。
奈加子の発した言葉が分からず,インドネシア現地人の船長が困り果てているのを見て,奈加子が同じ目を俺に向ける。
「well…when next ship gonna come the island?」
「Oh! I see! Tomorrow. With your families or frends and so on」
「Thanks」
尊敬のまなざしで俺を見つめる奈加子に対して,俺は通訳の成果を伝える。
「俺たちを島に送った後は,明日まで来ないそうだ。明日,結婚式の参加者をこの島に連れて来なくちゃならないが,それまでは来る必要ないからな」
「なるほど。じゃあ,明日まで無人島で2人きりってことか。仁君に襲われちゃったらどうしよう…」
俺は苦笑いをする。奈加子の言う「襲う」の意味がどちらか分からないとなかなか反応が難しい。
「というか,奈加子,言っとくけど俺ら2人きりじゃないからな。神父さん,パイプオルガンの演奏者,コーラスの方々,それにウェデイングプランナーの方もいるだろ」
俺と奈加子が結婚式の前日にわざわざアイジャンガリ島に前乗りしたのは,結婚式のリハーサルをするためである。そのため,結婚式に必要なキャストには,全員帯同してもらっている。
「ああ,そうだったね」
「同じ船に乗ってるのに忘れるなんて,相変わらず奈加子は天然が過ぎるな」
「だってまだほとんどお話もしてないから…」
奈加子の言う通り,彼らとは船に乗る前に軽く会釈をしたくらいで,ロクに挨拶もしていない。
乗船早々,「海が見たい」と奈加子に手を引かれ客席の外に出てしまったため,彼らと客席で口をきく機会もなかった。
リハーサルをする今日,結婚式本番の明日,と1泊2日をともにするのだから,船を降りたら真っ先に名刺交換をしよう,と俺は心に決める。
「無人島で結婚式なんてすごいロマンチック! 仁君,私のわがままに付き合ってくれてありがとう」
「いやいや,俺はスケジュールを空けただけだから,お金もほとんど奈加子が出してくれてるわけだし」
無人島での挙式,しかも,神父さん等のキャストを2日間も拘束するとなると,その費用は莫大なものとなる。一般的な結婚式とは桁が変わってくる。
しかし,奈加子はいわゆる社長令嬢である。
ウェデイングプランナーが提示した息を呑むような予算額も,奈加子は2つ返事で了承していた。
「超楽しみ!」
「緊張はしてないの?」
「してるけど,それも含めて楽しみなの!」
奈加子が挙式を楽しみにしていることは,ヒシヒシと伝わってきていた。元々無邪気なところはあるが,普段はもう少し落ち着きでコーティングされている。今日の奈加子のテンションは特別である。
「Look! We will arrive!」
船長が声を張り上げる。
それと同時に俺と奈加子が船の進行方向に目を遣る。
先ほどまで朧げな影だった孤島が,いつの間にやら目前にまで迫っていた。
「わあ,素敵…」
声には出さなかったものの,俺も奈加子と全く同じ感想を抱いた。
太陽が受ける光を全て吸収する真っ白な砂浜。飴細工のような細かい調度が施されたチャペルの屋根。島の全てを上空から見守るように高くそびえる山。その全てが,日本には決してない,神聖な場を構成していたのである。