約束のアイスティー
試しに引っ張ったら屋上へ続く扉と僕を隔てていた南京錠は開いていた。
「何だ鍵かかって無いんだ」
見た目に騙されたが、危険防止の役目を果たしていなかった少し錆びた南京錠をポケットにしまった。重たい扉を押すと寒い風に襲われる。正午とはいえまだ冬が残っている。僕はそれでも進んだ。
「久々だなあ」
呑気そうな嗄れた声に僕は足を止めた。出入り口脇に白髪混じりの中年が座っていた。手に紙パックのアイスティーを持っている。よぼよぼで如何にも定年間近という容姿。狸みたいな顔をしている。こんな先生居たっけ?僕は回れ右をした。
「共犯だ」
ズボンの裾を捕まれて僕は足を止めた。
「これやるから黙っていてくれよ」
先生が僕にストローが刺さった、どう見ても飲みかけのアイスティーを差し出した。
「いりません。でも黙ってます」
僕は先生を拒絶するように屋上から退散した。ポケットから南京錠を出して扉前に置いていった。放課後、屋上に続く扉にはピカピカの南京錠が締められていた。翌日の昼休みはまた錆びた古い南京錠に変わっていた。
***
新学期、担任は屋上で会った狸先生だった。細川勝俊なのに何故かあだ名がテーチー。自らそう名乗った。
テーチークラスは問題児クラスと呼ばれた。不登校や不良かぶれが集まっていて、僕はこのクラスになった事を最初恨んだ。面倒そうだったからだ。クラスの縦半分窓側が問題児生徒の領域。そして廊下側は普通の生徒の領域。教科担当は廊下側しか相手にしなかった。窓側の生徒にはテーチーの個別プリントが配られる。最初は反発しそうな雰囲気もあったが、テーチーの表情は穏やかなのに目が鋭く厳しくて誰も逆らわなかった。
絶対保護者が騒ぎ出すと思ったけれど平穏なまま月日が流れていった。
窓側の生徒は勉強は出来なくてもお祭り騒ぎは得意な奴ら。受験生でも最後の思い出だと行事に燃えた。面倒だけど付き合っていると想像より楽しかった。家事と勉強漬けの僕に友達が出来るとは思っていなかった。
***
「頭良い奴は教えるのも上手いな」
中一の範囲の数学を何とか解いた透が紙パックのアイスティーを飲みながら感嘆の声をあげた。
「そーか?ってか、それどうしたんだ?」
ごく自然にアイスティーを飲んでいる透。結露が出ているから直前まで冷えていたのだろう。もう放課後だから登校時に買ったとは思えない。
「テーチーに言うとくれるぜ。知ってるか明。テーチーはアイスティー中毒。職員室の冷蔵庫にテーチーのアイスティーが沢山ある。俺らの先輩に付けられたあだ名って言ってた」
「ふーん」
「昔さ、生徒に俺も禁煙するからお前も禁煙しろって啖呵切ったけど口寂しくて飲みはじめたって」
透はどこでそんな情報を手に入れたのか。
「へえ。細川先生の啖呵って想像つかないな」
「空手の達人らしいぞ。すごむと怖いもんなあ」
狸拳法などと考えてみて僕は吹き出した。全く似合っていない。
***
昨年末から容態の芳しくなかった母が、茹だるような夏の日に亡くなった。僕はぷっつりと糸が切れて家事も勉強も投げ捨てた。夏休みが明けても一週間登校しなかった。
***
八日目の早朝、まだ五時に玄関チャイムが鳴った。それと激しくドアを叩く音がして僕は目を覚ました。インターホンのモニターの向こうにテーチーが立っている。
「おはよう。迎えに来たよ」
僕が首を捻ると後ろに父がいて、旅行鞄を持っていた。
「よろしくお願いします」
父が口にするやいなやテーチーは父から荷物を受け取り、反対の手で僕の手首を掴んで歩き出した。ずんぐりむっくりといった体の何処にそんな力があるのだろう。
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テーチーの家は古びた平屋。洗濯機が二層式というのを初めて見た。風呂は五右衛門風呂。冷蔵庫には作り置きの料理と紙パックのアイスティーが並ぶ。無造作に置かれた貯金箱にはお金が増えたり減ったりした。僕は一週間その奇妙な家で過ごした。
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鍵のかかってないテーチーの家には色んな人が出入りした。会う人皆んな僕の先輩だと言った。僕が知る限りでも夕方現れる女性が三名。料理に洗濯、掃除に子守を手伝わされた。初日の夜、警察官が野菜を持ってきた。次の日には僕を将棋に付き合わす男が現れた。その翌日はぶすくれた透。親が暴れるとだけ教えてくれた。あまりに賑やかな家で僕は落ち込む暇などなかった。
***
同時に僕はテーチーの古びた平屋から毎日追い出されるように登校させられた。学校では廊下側に席が移動させられて一限目だけプリントが配られた。「九九の三の段を全て記入しなさい」「円周率3桁は」「とりと漢字で書きなさい」そんなくだらない問題が一問だけのプリント。必ず最後にこう書いてあった。「自習は屋上で」
一限目に出席する。プリントを解く。屋上に行くという単純作業を繰り返した。僕は日がな一日ぼんやりしたり泣いていた。そのうち参考書を読むようになった。昼休みになると必ず透が給食とアイスティーの紙パックが届けてくれた。くだらない雑談をすると気持ちが楽になった。
僕達テーチークラスは問題児ばかり。このぐらいのことなら皆そっとしておいてくれた。それがとても嬉しかった。
***
父が迎えに来た日、テーチーが僕に紙パックのアイスティーを差し出した。
「あげたんじゃない。返すんだぞ」
訳が分からなかったが僕は小さく頷いていた。
***
あれから二十年が経つ。僕は通い慣れた古い木造の家の玄関を開けた。いつも通り鍵は掛かっていなかった。コンビニで仕入れてきた紙パックのアイスティーを冷蔵庫にしまう。相変わらず奥の方にこっそりコーヒーやジュースの紙パックが並んでいた。僕はゆっくりと縁側に向かった。
「テーチー先生。診察に来ました。アイスティーも返しましたからね」
縁側で猫を撫でるテーチーが眉毛をハの字にしていた。将棋盤の上を見つめて唸っている。テーチーの向かいにはまだ見た事が無い少年が座っていた。色白で薄暗さを帯びた黒い目が印象的でいかにも気弱そうだ。
「ほう。君の方が優勢だ」
少年が僕を見上げたので僕は微笑んだ。少年は少し顔を強張らせて俯くだけだった。僕のスマートフォンに通知が一件入った。送信者名は透。メッセージ内容は「明の働く病院へ社会科見学の依頼を今年もする」
少年はまた明の生徒かもしれない。
「先輩と呼べばいい。沢山くるぞ。多すぎて覚えるの大変だからみんな先輩でいい」
玄関のガラガラと扉が開く音がした。
「テーチー!柿持って来たよ!あとアイスティー返しにきた!」
「全くお前達はいつまで返しにくるんだ。飲みきれん」
ほっほっとテーチーが皺だらけになった顔を綻ばせた。
***
冷蔵庫に常に補充されるアイスティー。
それは僕等先輩が用意する、後輩とテーチーの絆を作る約束のアイスティー。