前編
「御同輩。殺人と殺害は違う、って話、聴いたことあるか?」
「……何処かで聞いたような話だね」
僕は、フェンスに乗って気軽に掛けてくる彼の言葉に、そう返す他なかった。
その話は確かに、何処かで耳にしたような気がする。
でも、果たして何処で聞いたのかは、まるっきり覚えていない。
僕がそう返すと、嬉しそうに笑っていた彼は、その顔は少し残念そうに曇らせた。
それでも話は続けたいらしく、ぎぃこぎぃことフェンスを揺らしながら、話を続け始めた。
「そうか、知らないか……まぁ、知らなくても良い。簡単な説明をしてやるよ」
「……ありがとう?」
「ん、説明してやろう」
「そうだな……まぁ、簡単に言えば、誰かを殺すか、それとも他人を殺すか、の違いなんだろうな」
いきなり不思議な事を言う。『他人』と『誰か』を、違うものとして扱うらしい。
そんなもの、名称の違いであって根本的な前提を大きく履き違えているような気がする。人と物を同列に扱っているかのような、それぐらい違和感のある説明だ。
僕は、いきなりなんだその説明は、と問い詰めようとした所で、彼からタイミングよく停止の声を聴かされた。
「まぁまぁ落ち着け。息が乱れてるぜ? 話はここからなんだ……誰かっていうのは、自分にとっての誰か、だ。自分とは違う、他人じゃあない」
「……?」
ますます分からなくなってきた。
彼は抽象的な考えを好むようだけれど、如何せん抽象的過ぎて説明になってない、気がする。
「例えば、今そこに転がっている女がいるだろ? あれは数カ月前から狙っていたオレの物だ。ウマそうな体付きしてるから、準備に準備を重ねてきたんだ」
頭を動かして見てみれば、黒い染みの中で女性が壁を背にして寝転がっている。
目蓋は閉じられていて、一見しただけならば腕や足を丸めて寝てしまっているだけのようにも見える。酔い潰れて路地で寝てしまった、とも思うかもしれない。
そもそも、転がしたのは僕なのだけれど。
でも確かに、その穏やかな表情は、もしかすると『美人』と言われる類の顔付きなのかもしれない。
「そう、それだ!」
僕が女性を注視したのを、ズバッと指差して、彼は嬉しそうに笑った。
一体何の話なのだろう。未だに着地点が見えてこない。僕はまだ何も言っていないのに。
「今、お前は女────まぁ、そいつ、『三字滑 鈴花』って名前なんだけどな。今お前がようやくそこまで認識したから、そいつはお前にとっての他人じゃなくて、誰かになった」
「……ああ、なるほど」
つまり、彼はこう言いたいらしい。
自分が認識して、知らないから知っているに変わった人物が、『誰か』で、自分が認識したとしても、知ろうと思わない人物、知らなくてもどうだって良い人物が、『他人』。
今、そこで寝ている彼女──『三字滑 鈴花』さん──は、僕が名前を覚えて、顔も認識して、ちゃんと、きちんと覚えようと、知ろうとしたから、彼の言う通りに言うならば、『僕にとっての、他人から誰かになった』、ということらしい。
それなら僕にとって、彼もまた、他人から誰かになった人物なのだろう。
彼の流儀に合わせるならば、の話だけど。
「理解したか? そうだな……狙っている奴は全部、オレは誰かにしている。オレが狙っているんだから、オレが知っていなくちゃ駄目だ。そう思って行動している。それがオレの流儀だ」
「……面白い流儀だね」
「お前はどうなんだ? 誰かさんよ?」
「ふふ……生憎と、僕は何も考えていないよ」
というか、そこまでペラペラと喋ってくれると、何を言いたいのかが分かってしまう。
ただ、分かっていた所で結論はそんなには変わらないだろう。
変えても良いけど、変えちゃ駄目だ。
結論、過程、動機、前提。どれも一つたりとて変えちゃ駄目なものだ。
「僕はただ、気になっただけなんだ」
「何を?」
「……なんて言うのかな。君に合わせて言うなら、他人が他人のまま、気になるんだ」
「んー、随分とむつかしい事考えるんだな? 御同輩」
「君の方こそ」
少なくとも、彼に言われるまで僕は自分の行いをここまで考えたことはなかった。
そこまで考えなくとも、どう行動すれば求める結果が得られるのかが分かっていたし、それに従っていれば選択を間違えた、と思うようなこともなかった。
まぁ、今まで気になったことがそのまま分かる形で返って来たという経験は、一度もないんだけれどね。
照明のない裏路地で空を見上げれば、ビルとビルの隙間から星空が見える。
今まで無機物に興味を惹かれたことはあんまりないけど、今日はなんだか流れ星とかが見えそうなほど、夜空に近付いているような気がした。
深く息を吸って、大きく吐き出せば……吐息が見えないまま空へと消えていく。
「で、結局何が気になったんだ?」
「……君がそんなに注目している女性って、どうなんだろうな、って」
「おいおい……はじめから目的はオレだってのか?」
「まぁ……結果から言えば、他人が他人を気にしているってのが、気になってさ──」
つい一週間前だったか、高校の帰り道で、ふと雑踏の中にいる女性にピントが合った。
ピントが合う体験は、今までに何十何百としていて、その度に気にはなっていたんだけど、それでも今回は『何か』が違った。
翌日、感覚に従って高校をズル休みし、反対方向にある駅の喫茶店に寄って珈琲を飲んでいたら、テーブル席に座っている女性を見付けた。
今までピントが合った時は、その人物がズームされすぎたような感じで、その人しか見えず、その人も見えないというような感じだったけれど、今回はそうでなかった。
それが今回の、『何かが違う』という違和感だった。
今回は、その女性の周りにピントが合いすぎていて、逆に彼女自身は見えないような……生理的暗点に近かったんだ。
「せいりてき……なんだって?」
「……『マリオット盲点』で調べれば、色々と面白いのが出てくると思うよ」
「まりおっともうてん、ね。今度調べてみるよ」
彼は僕の訥々と話す物語に、質問を一度挟んだぐらいで、ほとんど黙ってじいっと聴いていてくれていた。
気になった人物で、こうも話を聴いてあげようと近付いてくれる人物は、今日に至るまで一人も居なかったから、少し新鮮な感覚だ。
彼女以外にピントがあっている所為か、彼女自身がよく見えない。
けれども気になっている点は、間違いなく彼女自身でもあった。
だからこそ、今、こうなっているんだけどね。
感覚に従うままに行動すれば、気になっている点は自ずと見えてくるし、求めた結果が返ってくる。
気になった問題の答えは返ってこなくとも、望んだ結論がどう計算すれば求められるかは、簡単に分かってしまう。
それの結果が今、彼と出逢ってお喋りができたという形になった。
彼女に近付いて、路地まで連れ立って歩き、そうして彼に出逢えた。
彼に逢うことで、ようやくピントが完全に一致した感覚がなければ、彼もまた他人のままであったのかもしれない。
……いや、結局の所、僕の『気になる』というのは、あくまで僕の中の一つの意見であって、彼に言わせれば未だに他人のままだったんじゃないだろうか。
僕が気になるのは、『気になった人』ではなく、『気になった(人の形をした)点』だと思うから。
彼の話を聴いてからだと、ふと、そういう考えもあるのではないかと、思ってしまう。
「──ふぅん……中々お前もキチってるなぁ」
「そうでなきゃ……こうはならないでしょ」
「違いない」
彼はそう笑って、フェンスから飛び降りた。
金に輝く長い髪が翻って、そしてまた彼の着ている臙脂色のコートにまた落ちてくる。
綺麗だった。
「じゃあな。もう会うことはないだろうけど」
「……どうだろう。もっと君のことが気になってきたから、また逢いに行くかもしれない」
「おいおい、化けて出ても困るぜ? どうにもできねぇからよ」
彼はそう笑って返しながらも、三字滑さんを抱きしめて持ち上げている。
日常で言う『お持ち帰り』だろうか。比較的格好良く綺麗で中性的な二人だ。そう咎められたり質問を受けたりもしないんじゃないだろうか。
生憎とお世話になったことは一度もないから、どういう状況なら問い詰められるかのかは知らないけれど。
用意していたのだろう、路地の隅に置かれていた毛布で手際よく三字滑さんを包み込んで、再びお姫様抱っこのように軽々と持ち上げて、路地の外へと歩き始めた。
もう交わす言葉はない、とでも言うかのように、その足取りは無関心で、早かった。
その後ろ姿からは、さっきまで意見を交換しあっていた同輩とは思えないほどに、──こちらへの興味関心が──色がない背中で、もう彼にとって、僕はそこらの他人と変わらないのだろうと、気付いてしまった。
この路地には、彼にとっての誰かは、三字滑さんしか居ないのだろう。
僕には今まで、誰かが居なかった。
誰かが出来ても、すぐに居なくなる。居なくなってしまう。
それは確かに、偶然でなく必然だったのだろうと思う。
でも、それは果たして、本当に誰かだったのだろうか。
だからか、居なくならなかった彼のことが、とても気になってしまう。
初めて僕は、点じゃなくて、人が、気になっているのかもしれない。
初めて、僕は誰かが気になっているのかもしれない。
「……名前、なんだっけ?」
「ああ?」
「君の、名前」
「……ハッ、今度会えたら教えてやるよ!」
「……そうか……じゃあ、またね」
「ああ、サヨナラ」
じゃあ、今度逢えるまで、今をなんとかしなくちゃね……。
そう考えて、僕は目蓋を閉じた。
のぼせそうな程の熱い外気と、背中に感じる路地のとてつもない冷たさと、隙間から見える満天の星空を最後に感じながら、目蓋をそっと閉じた。
彼らに向けて振っていた右手を、ゆっくりと染みに落とし、そうしてようやく僕は自分の意識を飛ばすことができた。




