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ピンポン。
あれから思う存分飲んで、自分でも分かる。
私、多分、酔っぱらってる。
今まで抑えてきた色んな感情がどんどん溢れてきて、あいつに一言言って、殴ってやると、酔いの勢いに任せて彼の部屋までやって来てしまった。
ピンポン、ピンポン、ピンポン。
夏木め、いい加減な事を言って、いないじゃないか。
諦めて帰ろうとした所で、ドアの奥から物音がして、気だるそうな足音がゆっくりと近づいてきた。
ガチャ。
「うるさい。」
「お久しぶりです。」
本当に久しぶりに見た彼は、夏木さんが言っていた通り、とても不健康そうで、全身を心地好く廻っていた酔いが一気に覚めた。
「大丈夫ですか?」
思わず伸びた手は彼に触れることはなく、気づいた時には彼の腕の中にいた。
ボタンを止めていないワイシャツは、しわくちゃで、アルコールの匂いが強烈に鼻についた。
「舞、舞、舞。」
「はい。」
「ダメだ。
俺、おまえがいないと駄目なんだ。
ごめん。
ごめんな。
側にいてくれよ。
頼むよ。
頼むよ。」
苦しい。
彼に押し潰されるかと思うくらい抱き締められて、離れてから、ずっと感じていたポッカリ空いた穴が埋まっていく気がした。
涙が勝手に流れていく。
背中に手をまわすと、いっそう彼の匂いや体温が私を包んだ。
酔いの廻っている私の身体は、誘われるように眠りに支配されていった。
眩しくて目が覚めた。
彼に抱き締められて、眠くなった所までは覚えているけど、それ以降は分からない。
周りを見渡すと、時計が目に入った。
午前10時を過ぎている。
最近の寝不足が嘘のように、よく眠ったらしい。
隣で眠っている彼を見ると、泣いたかのように目の辺りが赤い。
口を開けて惰眠を貪る彼に、日頃見られる鋭さはない。
あっ、ヨダレまで・・・
一先ず、起きようと静かにベッドからはい出る。
リヴィングに向かうとビール缶が、あちこちに散乱している。
ふと、あの時の事を思い出しそうになったが、それを無理矢理、押しやり片付けを始めた。
掃除をしながら、昨夜の事を考える。
彼は謝って、側にいてくれと言ってくれた。
あの時は、私と同じ気持ちでいてくれたって嬉しかった。
今は、自信がない。
転がっているビール缶の数から考えるに、かなり酔っていたのは間違いない。
もしかしたら、昨夜、言ってくれた内容を忘れてしまっているんじゃないかな。
それだけじゃなくて、私がここにいること自体、驚かれたりして・・・
そう考えると、ここにいられない気がしてきた。
1度帰ってから、出直してきた方がいいかもしれない。
お風呂に入りたいし。
自分の中での逃げ口上を正当化して、そさくさと玄関まで急ぐ。
ガチャ。
玄関の扉を開ける音は、思ったより廊下に響いたけれど静かなまま。
ホッとした瞬間、バンッ、バンッと続いて彼が、凄い形相で走ってきた。
思わず一歩下がって、振り返りドアを開けようとした。
認めます。
臆病風に吹かれました。
だって怖かったんだ。
ドアノブを掴んでいる手を後ろから握られ、そのまま二人して、ドアに激突した。
「痛った。」
勢いのままドアに激突してしまったせいで、おでこをぶつけてしまった。
「どこに行く?」
「・・・一旦、帰ろうかと。」
「ダメだ。
絶対に離さない。」
彼の速い息遣いが首にかかる。
何だか急に恥ずかしくなって、身を捩るけど、彼の腕が更に締め付けた。
「絶対に離さない。」
左手は彼に捕まれたまま、おまけに腰までガッチリとホールドされていて、身動きが取れない。
「おまえがいないとダメなんだ。
眠れないし、食えない、酒ばっかり飲んでた。
頼むよ。
俺の側にいて。」
私も同じ気持ち。
そう、答えたかった。
けれど口をついて出た言葉は違った。
「嘘つき。
私がいないとダメなんて嘘だ。
付き合ってるのに、やらせない女なんて嫌気が差したんでしょ。
だから、他の女としたんだ。」
「違うっ。
そうじゃないっ。」
振り向こうとしたけれど、彼の両腕がきつく私の腰に巻き付いて身動きが取れない。
彼は私の首筋に顔を埋めて、大きなため息をついた。
私は、彼の息がかかる度に、なぜか熱くなっていく身体が忌々しくて、髪が長ければ、まだ、マシかなって考えたりしていた。
それに、自分から振っておいてなんだけど、あの時の話を彼から聞くのはやっぱり嫌だ。
「あの日の事、覚えてないって言うのは嘘だ。
本当は、一人で立てなくなるまでやけ酒をあおった結果なんだ。」
「やけ酒。」
「あの日の3日前、舞に会った時に来年の話をしたのを覚えてるか?
その時、舞は就職したら少なくとも2年は、仕事を優先させたい。
だから、あまり会えなくなるかもしれないけど、ごめんって言ったんだ。
俺は、とてつもないショックを受けたよ。
舞を愛してる。
大事にしたいし、何でもしてやりたい。
そう思う反面、舞を抱きたくて仕方なかった。
俺と付き合うようになって、自惚れかもしれないが、舞は綺麗になっていったし、よく笑うようになった。
そんな舞を狙うやつだって現れるかもしれない。
内心では、焦りまくっていたよ。
俺が大学にいた頃は、まだマシだった。
でも卒業してからは、心配でイライラしてた。
一刻も早く舞を俺だけのモノにしたかった。
それに、一日中、舞とイチャイチャしたい、滅茶苦茶に抱きたいって、我慢の限界が近づいてる自覚もあった。
それでも堪えてたのは、舞が就職したら、すぐにでも結婚を申し込もうと思っていたからだ。
それなのに2年間、仕事を優先するってことは結婚なんて無理って事だろ?
俺が舞を思ってるほど、舞が俺を思ってくれてるかは分からないが、それでも俺の事を舞なりに愛してくれてるって思ってたし、結婚を申し込めば、最初は驚くかもしれないけど、最後にはOKしてくれるって、どこかで確信してたんだ。
けど、もうすぐだって思ってた事が2年、延びた。
もう、無理だと思ったよ。
舞の事を襲うのも時間の問題だ。
でも、絶対に傷つけたくない。
嫌われるのも、離れるのも嫌だ。
あの日、会社帰りに舞の所へ行こうとする自分を抑えるためもあって、浴びるほど酒を飲んだ。
多分、かなりできあがった段階で、あの女が来たんだ。
あの女は会社の先輩で、何かとちょっかいを掛けてくる、うるさい女だったが、声が舞に似てる所だけは気になってた。
隙を作ってしまったのは、俺だ。
泥酔した身体を支えられて、舞に似た声を聞きながら家へ帰った。
部屋に着く頃には、あの女の声が舞の声に聞こえていた。
軽蔑するだろ?
俺は、舞の代わりにあの女を抱いたんだ。
舞を傷つけたくないって思っていたのに、最悪の形で傷つけてしまった。
それからは地獄だ。
メールも電話も出てくれないし、耐えられなくなって会いに行った時は舞が俺の事愛してたって言ってくれたけど、後の祭りだった。
時間を戻したいって何度も思ったよ。
でも、どうしようもなかった。
触られるのも嫌だと言われて、何もできなくなった。
それからは淡々と会社に行って、夜は舞の事を忘れるために酒を飲んだ。
それでも会いたくなったが、拒絶されると分かっていたし、怖くてできなかった。
でも、舞が会いに来てくれた。
もう憎まれても、嫌だと言われても、かまわない。
舞が側にいない辛さに比べたら、そんなの我慢できる。
絶対に離さない。
俺のものだ。
俺だけのものだ。
誰にも渡すもんか。」
微かに伝わってくる震え。
私の代わりに他の女を抱いた。
ひどい浮気の動機だと思う。
代わりにされた女も少し気の毒だし、代わりで代えがきくのか私は、と思うと私も残念だ。
そりゃぁ、外見上、何ら特質する点のない私、むしろマイナスとなるであろう貧乳ぶりを見ても、正直なところ、自分に女性としての魅力があるかと問えば、即答でNOとは言いたくないが、それでも否定的な答えしか浮かんでこない。
では内面で女性らしさをカバーしているかと言うと、そんなこともない。
どう好意的に見ても自己完結している意思の強い女だと思う。
だからといって、女としてヒエラルキー最下層に属していたとしても、浮気をされて、はい、そうですかと相手を許せる訳はない。
今でも、あの時の事を思い出すと、心臓が抉られるような痛みと一緒に、腸が煮えくり返るほどの怒りを覚える。
今までの私なら裏切られたら、速攻で切り捨てた。
切り捨てて、忘れて、彼がいなくても変わらずに過ぎて行く日常に戻って行ったに違いない。
でもできなかった。
忘れるどころか毎日、彼の事を思い出して苦しくなってた。
決して認めなかったけれど、本当は気づいてた。
彼を愛してる。
きっと、一生忘れられない。
愛してるけど許せない。
側にいてほしいけど、一緒にいたくない。
寂しくて悲しい。
悔しくて、憎い。
色んな感情でいっぱいになって、辛すぎた。
それで私は、何でもない振りをして、やり過ごそうとした。
彼の事は忘れたふり。
彼がいなくても大丈夫なふり。
自分を偽って一日一日を凌いできた。
結局は、美里さんにあっさり見破られて、今に到ってるわけだけど。
今、私に必要なのは逃げることじゃない。
今までの事、これからの事、ちゃんと話し合うんだ。