2 引っ越し先はおんぼろ荘!?
「あ、あの……大丈夫ですか?」
わたしは、恐るおそるヴァイオリンの少年に近づき、ハンカチで彼の頭をふきました。
「いいよ、そんなことをしなくても。君のハンカチが汚れる」
少年は、大人びて落ち着いた声でそう言いました。
「で、でも……」
わたしは頭をふき続けようとしましたが、少年がお辞儀の姿勢から頭を起こしたため、背が低いわたしではつま先立ちして腕をうんとのばさないと届かなくなってしまいました。
「こんなこと、いつものことなんだ。オレの体のことよりも、ヴァイオリンのほうが心配だ」
「え? ヴァイオリンですか? ……すごい! 奇跡的に、どこも汚れていません!」
「そうか。よかった。これは、親に買ってもらった大切なヴァイオリンだから」
少年はホッとため息をつくと、フンだらけになったジャケットを脱ぎ、申しわけなさそうな顔をしてわたしにあやまりました。
「ごめん、前野さん。君を乗せた電車が到着する時間までには演奏をやめようと思っていたのに、つい夢中になってしまって、駅の中まで迎えに行くのを忘れていたよ」
「え……?」
「君、かぐやさんの妹の前野絵里さんだろ?」
そう言い、彼はポケットからわたしが映った写真を取り出し、わたしに見せました。
ちょっと! お姉ちゃん! どうして、わたしがよだれをたらして寝ている写真なんて渡すんですか! もっと他にいいものがあったでしょ!?
わたしは、恥ずかしさのあまり、もじもじとうつむきながら返事をしました。
「はい……。わたしが前野絵里です。そうすると、やっぱり、あなたが青葉光さんですか?」
「え? オレの名前を知っているの? ああ、そうか。かぐやさんから聞いていたのか。それなら話は早い。オレたちのアパート、おんぼろ荘に今から案内するよ」
青葉先輩はそう言うと、「行こう」とわたしをうながしました。
そう、わたしがこの春から生活することになるアパートの名前は、おぼろ荘といい……。
あれ? 今、青葉先輩、「おんぼろ荘」って言いませんでした?
☆ ☆ ☆
「オレ、昔から不幸体質なんだ。外を歩いていたら、しょっちゅう、鳥にフンをかけられる」
青葉先輩は、美しい桜がたくさん咲きほこる海岸沿いの道をわたしと肩をならべて歩きながら、自分の不幸体質について教えてくれました。
「鳥のフンぐらいならまだいい。二、三か月に一度は必ず事故に遭うんだ。小学五年生の時、よそ見運転していた自転車にはねられて、吹っ飛ばされた先にまた自転車がいて二度もはねられたあげく、川に落っこちたことがある」
「ええ! 大ケガしたんじゃないんですか!?」
「いや、奇跡的に無傷だった」
「自転車に連続でひかれたうえに川に落ちたのに無傷だなんて、ある意味、強運なのでは!?」
何でも前向きに考えるのがモットーなわたしがそう言うと、青葉先輩は苦笑しました。
「とてもじゃないが、君みたいにポジティブにはなれないな。だって、今でもオレは不幸な目にあっている最中なんだから」
「え? それって、どういう意味ですか?」
「オレが両親の許可をもらい、故郷の街を出て、この海辺の街で一人暮らしをしているのは、有名な音楽家のヴァイオリン教室でレッスンを受けるためだったんだ。でも……」
小学六年生の時に出場した小学生向けのヴァイオリン発表会で、青葉先輩は、酒井優作というたくさんのヴァイオリニストを育てた先生に才能を見出されて、
「わたしのヴァイオリン教室でその才能を磨かないかい?」
と、誘われたそうです。
ヴァイオリニストになることが将来の夢だった青葉先輩は、酒井先生のヴァイオリン教室があるこの街に一年前に引っ越して来て、アパートで一人暮らしを始めたのでした。
「その酒井先生が、去年の冬ごろから病気になって入院中でさ。今年になってから一度もレッスンを受けていないんだ。もうすぐ大きなコンクールがあるのに……」
なるほど……。
ヴァイオリンの勉強のために、両親や友だちのいないこの街にやって来たのに、ヴァイオリン教室が長い間お休み中なんですね……。それはかなり不幸……。
……ハッ!? い、いけません! ノー! ダメ! ネガティブ・シンキング!
「それは……それは…………とても燃える展開ですねっ!!」
「うん、そう。オレはとても不幸…………はい!?」
「スポコン漫画でもよくあるじゃないですか! 『大会直前に主人公が大ケガ! この逆境を仲間との友情で乗りきれ!』……みたいな展開に似ています! 青葉先輩、カッコイイ!」
わたしが、両目にメラメラと燃える炎を宿しながら言うと、青葉先輩は若干引きながら、わたしに冷静なツッコミを入れました。
「いやいや……。オレが出る大会は野球でもサッカーでもなく、ヴァイオリンだし。一人で演奏するものだからチームの仲間とかいないし」
「は、はうぅぅ……。すみません……」
自分でも少し無理があるポジティブ・シンキングだったかなと反省し、わたしはしゅんとなって肩を落としました。すると、
「無理しなくてもいいよ。オレを励まそうとしてくれたんだろ? ありがとう」
青葉先輩はそう言い、わたしに優しくほほ笑みかけてくれました。
(わたしが想像していた通り、青葉先輩は、あの『愛の挨拶』のメロディーと同じように、とても優しい人なんですね……)
この人の力になりたい。励ましてあげたい。
先輩の笑顔に見とれながら、わたしは、そう強く、強く思うのでした。
☆ ☆ ☆
さて、青葉先輩の案内でわたしはようやくアパートにたどりついたのですが――。
「オレがおんぼろ荘と言った理由、これで分かっただろ? 地元の人たちはみんなそう呼んでいるんだ」
こ、これは……!
ツタだらけのアパートの塀に貼られている「おぼろ荘」と書かれた看板は、右ななめ四十五度に傾き、アパートの庭はジャングルみたいに草木が生えたい放題。そして、少し強風が吹いたらあっという間に崩壊しそうな和風木造建築のアパート……。
何も知らない人に「この建物は何でしょう?」とたずねたら「オバケ屋敷」と即答されそうな、おどろおどろしいオーラが……!
「う、うわーい。とってもステキなアパートですね~(棒読み)」
す、すみません……。ポジティブ・シンキングでこのアパートのいいところを見つけようと努力したのですが……。
わたし、恐いのだけは苦手なんです! 絶対に無理!
で、でも、オバケが本当に出るはずないですよね? 二、三日生活してみたら、思っていたよりも快適にすごせるかもしれません。ほ、ほら、「住めば都」っていうじゃないですか。
「あれ? 源さん。そんなにたくさんの荷物を持って、どうしたんですか?」
アパートの玄関から、頭にハチマキを巻き、大工の作業着みたいな服を着た男性が出て来て、青葉先輩がそうたずねました。どうやら、おぼろ荘の住人のかたのようです。
「どうもこうもねぇよ。オバケが出るこんなアパート、住んでいられるかってんだ。オレは出て行くぜ!」
顔色の悪い源さんはそう言うと、すたこらさっさとおぼろ荘を去って行きました。
「え……? あ、あの……。おぼろ荘って、オバケ……出るんですか?」
わたしが顔を真っ青にしてたずねると、青葉先輩は、
「う~ん……。オレは遭遇したことないけれど、そういうウワサは前からあるなぁ」
そう答えたのです。
えええぇぇぇ~!
そ、それはマジで勘弁してくださぁぁぁい!!