1 ヴァイオリンの君
「届かない……! 届かないよーっ! …………あ、あれ?」
気がつくと、わたしはたくさんの人ににらまれていました。
ガタン、ゴトーン、ガタン、ゴトーンという音がしていて、何だか体がゆれています。
「え? え? ええと~……。ここはどこ? わたしはだぁ~れ?」
まだ意識が半分眠っていたわたしは、きょろきょろと周囲を見回しました。
ふむ……。
ここは電車の中。
そして、わたしの名前は前野絵里。
どうやら、わたし、電車の長イスにすわってゆらゆら揺られている間に居眠りしちゃっていたみたいですね。それで、寝ぼけて大声を出しちゃって、乗客のみなさんをビックリさせてしまったと……。
は、恥ずかしい~!
「あ、あわわわわ! お騒がせしましたーっ!」
わたしは、口もとのよだれをあわててふくと、車内の人たちにペコペコ頭を下げてあやまりました。恥ずかしさのあまり、顔は完熟トマトみたいに真っ赤です。
(また、あの夢を見ちゃったのかぁ……)
去年の夏のできごと。わたしにとってトラウマとなった記憶……。陸上大会で大ケガをした時のことを半年以上たった今でも夢に見てしまうのです。
そして、その夢を見るたびに、どんより暗い気持ちに……。
……ハッ!? だ、ダメです! ネガティブ、ダメ、絶対!
今月からわたしはピカピカの中学生! 新しい街で新しい生活が始まるのに、くよくよしていたらダメなんです!
ポジティブ・シンキング! 前向きに……いいえ、前のめっていきましょう!
「新しい街でがんばるぞー! おーっ!」
自分に気合を入れるため、わたしはこぶしをふりあげてさけびました。すると、
「ごほん! ごほん!」
サラリーマン風の男性が、わたしをじろりとにらみながら、わざとらしくせきをしました。
あっ、しまった……。また大声出しちゃった……。
「ご……ごめんなさい……」
わたしは、小人になったかのように体を縮こまらせ、再びあやまるのでした。
ムダにでかいんですよねぇ、わたしの声……。
☆ ☆ ☆
わたしのお父さんとお母さんは、夫婦そろって考古学者をやっています。
考古学者というのは、昔の人が暮らしていた遺跡などを調査して、過去の人々がどんな生活をしていたか、どんな文化があったかを研究する、すごい学者さんなんですよ? だから、わたしの両親はすごいのです! えっへん!
お父さんとお母さんは、前々から南アメリカの古代遺跡を調査しようと準備を進めていたのですが、この春にようやく南アメリカに行けるようになったのです。けれど、
「絵里を日本に残して行くのは心配だな……」
「そうね。足のケガのこともあるし……。やっぱり、今回の調査は延期しましょうか」
二人はそう言い、遺跡調査に行くことをためらっていました。とても大きな古代遺跡を調査するため、南アメリカに三年近くいることになるそうなんです。
わたしのことを心配してくれるのはうれしいけれど……。
お父さんとお母さんが、古代遺跡で歴史的な大発見をすることができるかもしれないのに、わたしのために南アメリカ行きをあきらめてほしくない! 二人のことを応援したい! そう思ったわたしは、二人にこう言いました。
「わたしは、かぐやお姉ちゃんのアパートでお姉ちゃんと一緒に暮らしますから、そんなに心配しないでください。足のケガだって、日常生活に支障が出ないほど治っていますし」
「かぐやと暮らすだって? そ、それは余計に心配というか、何というか……」
「お父さん、大丈夫です! わたしだって春から中学生なんですから、もうちょっと娘のことを信じでください」
「絵里。お父さんが心配しているのはね、絵里じゃなくてかぐやのほうよ。『見た目は大人、心は子ども!』……みたいな、頼りないあの子に中学生の保護者がつとまるかってね……」
「大丈夫! 大丈夫! 心配ナッシングです!」
というわけで、わたしに説得された両親は南アメリカへと旅立ち、わたしは十二歳年上の姉・かぐやお姉ちゃんが一人暮らしをしている海辺の街へ引っ越しするために電車に揺られているのでした。
小学校のころの友だちとは別の中学校に入学しなければいけないのがさびしいですが、夏休みや冬休みなどの長期休暇にならみんなに会いに行くことはできるのだから、そんなに悲しむことはありません。
「何ごとも前向きに! 前のめっていきましょう!」
それが、わたしのモットー!
新しく始まる生活を不安がるよりも、どんなステキな毎日が待っているのだろうと期待したほうが、楽しいじゃないですか。
というか、新しい街では、とてもドキドキする出会いが確実にわたしを待っているのです。
実は、ここだけの話ですが、かぐやお姉ちゃんが暮らしているアパートの住人に、わたしの初恋の人がいまして……。
「ああ……。『ヴァイオリンの君』はお元気でしょうか……。ふ……ふふ……。うふふ……」
わたしは、自分がものすごくしまりのない顔をして不気味に笑い、乗客のみなさんにドン引きされていることなど露知らず、初恋の「ヴァイオリンの君」にもうすぐ会える喜びにひたっているのでした。
☆ ☆ ☆
わたしは、目的地の駅で電車を降り、改札口をくぐりました。
かぐやお姉ちゃんが、駅までむかえに来てくれているはずなのですが……。
「あれれ? かぐやお姉ちゃん、まだ来ていないのでしょうか?」
駅の構内を見回しても、かぐやお姉ちゃんはどこにもいません。
お姉ちゃんったら、わたしとの約束を忘れてしまったのでしょうか? わたし、この街に来るのは初めてだから、アパートまでの道が分からないのですが……。
「でも、初めての街を目的地までドキドキ冒険しながら歩くのも楽しいかもしれません!」
わたしがいつものポジティブ・シンキングでそう考え直し、自力でアパートに行こうと決心した時、スカートのポケットの中のスマホがブルブルと震えました。
「あっ、かぐやお姉ちゃんからだ!」
わたしは、お姉ちゃんからのメールを読んだのですが……。
ごめん……。絵里……。
お姉ちゃん、二日酔いでマジヤバイ。頭が割れそうっす……(*´Д`)
ちょっと迎えにいけそうにないから、お隣りさんにあなたのことを頼みまし
た。
前に話したことがあるヴァイオリンの少年です。背が高くて超絶イケメンです。
彼には絵里の写真を渡したから、すぐに見つけてくれると思います。
では、気をつけ
メールの文章は、「気をつけ」で終わっていました。たぶん、「気をつけて来てね」と打ちたかったのでしょうが、途中で力つきて送信してしまったみたいです。
「お姉ちゃん……。お父さんとお母さんが心配する気持ちが少し分かりました……」
昼間から二日酔いで倒れている姉の姿を想像して、わたしはため息をつきました。
でも、今はそんなことを気にしている場合ではありません。
お姉ちゃんの部屋のお隣りさんが、わたしを迎えに来てくれるとのことですが……。
その「ヴァイオリンの少年」こそが、わたしの初恋の「ヴァイオリンの君」なんです!
「う、うわぁぁぁ! ど、どうしましょう! わたし、まだ心の準備がぁ~! ……ハッ!? 一人で興奮している場合じゃない!」
「ヴァイオリンの君」に会えるという喜びと緊張のせいで身もだえしていたわたしは、大事なことに気がつき、自分の口を両手でふさぎました。
今こうしている時にも、迎えに来てくれた「ヴァイオリンの君」がわたしのことをどこかで見ているかもしれません!
大声でさけんでバカさわぎしていたところを見られていたかも! 超恥ずかしい!
向こうは写真でわたしの顔が分かるけれど、わたしは彼の顔を知りません。
実は、わたし、「ヴァイオリンの君」と一度も会ったことがないのです。
初恋の人の顔を知らず、面識もないなんて、おかしいじゃないかって?
たしかにそれはそうなのですが、わたしの初恋はちょっと特殊といいますか……。
「あれ……? 駅の外からヴァイオリンの音色が聞こえてくる……?」
たくさんの人が出入りする駅の構内が騒がしくて、さっきまで気がつかなかったのですが、だれかが駅の外でヴァイオリンを弾いているようです。
駅前の歩道でよく見かける、路上ライブというやつでしょうか。
「この曲は……」
まちがいない。あの人だ。
ケガで入院をして落ちこんでいたわたしをはげましてくれた、優しい音色。
エドワード・エルガーの『愛の挨拶』。
ラジオから流れてきた、青葉光というわたしより一歳年上の少年の演奏。
わたしの「ヴァイオリンの君」が、すぐ近くで演奏をしている……!
「『ヴァイオリンの君』! いいえ、青葉先輩……!」
今すぐ青葉先輩の顔が見たいと思ったわたしは、走り出しそうになり、あわてて左足でブレーキをかけました。
い、いけない。うっかり走っちゃうところだった。
わたし、お医者さんから「まだ走ったらダメ」ってドクターストップをかけられているんです。
もどかしい思いをしながら、わたしは、ケガをした右足になるべく体重をかけないようにして歩いていきます。もう普通に歩くことはできるのですが、長いリハビリ期間中に右足をかばって歩くクセができてしまったのです。
駅を出ると、駅前の歩道には人だかりができていました。その人たちは、背が高くて容姿端麗な美少年のヴァイオリンの演奏をうっとりとした表情で聴いています。
とても繊細で、柔らかくて、温かな絹につつみこまれるような、愛にあふれたメロディー。
ハトたちまで、この素晴らしい演奏に聞きほれて、街路樹や電信柱にとまっています。
「素晴らしい! とてもステキな演奏だったよ!」
「今日ずっとイライラしていたのだけれど、なんだか心が癒されたわ!」
演奏が終わると、観客たちはいっせいに拍手をして、ほめたたえました。わたしも一緒になって、手が痛くなるほどパチパチと拍手をします。
少年は、はにかみ笑いをして、丁寧にお辞儀をしました。
ですが、素晴らしい時間はそこまでだったのです。
観客たちの拍手の音に驚いたのか、ハトたちがバサバサバサー! と飛び立ち、
ぼとり
と、少年の頭の上にある置き土産をしていったのです。
それは、ハトのフン! しかも、
ぼと、ぼと、ぼと、ぼと、ぼと、ぼとーーーっ!!
「ぎ、ぎゃぁぁぁ~!」
「フンだー! フンの雨だぁーーーっ!!」
まさに大惨事!
観客のみなさんは、われ先にと逃げ出しました!
駅前の歩道に残ったのは、走ることができないわたしと、お辞儀した姿勢のままフンの雨をたっぷりと浴びたヴァイオリンの少年だけでした……。