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15 メロディーは、愛をのせて

「青葉先輩……」


 以前、視聴覚室で聴いた時は、青葉先輩のあせりやいらだちが影響して、どこか苦しげなメロディーでした。


 でも、今の『愛の挨拶』は、わたしのネガティブになりかけていた心を癒してくれる、愛情のこもったメロディーになっています。


 わたしがそのメロディーに吸い寄せられるようにして近づくと、先輩はわたしに気づき、


「おかえり」


 と、柔らかなほほ笑みを浮かべて、そう言ってくれました。


 青葉先輩の大人びいた笑顔に、わたしはいつもドキドキさせられます。


「あ、あの……。先輩は、どうしてこんなところでヴァイオリンを?」


「それは……」


 青葉先輩は堤防から飛び降りて着地すると、こう言いました。

「今日も視聴覚室でずっと練習していたんだ。でも、明日のコンクールがうまくいくか不安でさ、集中できなかったんだよ。今度のコンクールは、テレビ局の主催で、有名な音楽家たちもたくさん見に来る、規模の大きなコンクールなんだ。このコンクールで優勝したら、ヴァイオリニストへの道が大きく開ける可能性があるから……」


 そんな大事なコンクールを青葉先輩はヴァイオリンの先生の指導いっさいなしで挑まなければいけません。


 そのプレッシャーが青葉先輩を苦しめ、猛特訓しても練習の成果が出ないのでした。


「これ以上練習していても、痛めた右手を悪化させるだけだと思って、いつもより早く練習を切り上げて、おぼろ荘に帰ろうとしたんだけれど……」


 青葉先輩はそう言い、空も海もあかね色に染まった、夕暮れの美しい風景を眺めます。


「帰り道、ちょっと遠回りして帰りたくて海岸沿いのこの道を歩いていたら、君と初めて会った日、ここを一緒に歩いたなぁって思い出してさ。……本当に不思議だよ。ほんの半日、君がこの街にいなかっただけなのに、さびしいと感じるなんて……」


 え? わ、わたしがいなくて、さびしかった?


 わたしも、青葉先輩と離れていてさびしかったし、先輩のヴァイオリンの練習のことが気になっていたけれど、先輩も同じ気持ちでいてくれたんですか?


 それは、何だか、とってもうれしいです……。


「海を眺めながら君のことを考えていたら、急に『愛の挨拶』を弾きたくなってきたんだ」


「それで、ずっとここで?」


「ああ。今までのぎこちない演奏がなんだったんだろうと思うほどのキレイな音色を出すことができて、ビックリしたよ。……そして、大切なことを思い出したんだ」


「大切なことって、何ですか?」


「心がこもっていない演奏は、どれだけ演奏技術が高くても人を感動させることはできないということだよ。君のことを思いながら演奏していて、そのことに気づくことができた」


「え? そ、それは、どういうことですか?」


 青葉先輩がわたしのことを考えながらヴァイオリンを演奏していたなんて、何だか恥ずかしいような、うれしいような……。


 でも、それで、どうしてそんな大切なことに気づけたというのでしょう?


「君はいつも前向きで一生懸命で、おぼろ荘のオレたちをポジティブな気持ちにさせてくれた。孤独な練習に苦しんでいたオレも、君の笑顔にだいぶ救われたんだ。自分の夢だけでなく、他人の夢も応援したいという真心のこもった君の笑顔に触れて、オレは真心の大切さを思い出すことができたんだよ」


 真心、ですか……。


 かぐやお姉ちゃんも、自分の書いた物語で読者をハッピーにしたいと考えて、真心をこめて小説を書いています。


 わたしだって、料理をつくる時、エイミーさんたちの喜ぶ顔を想像して、料理に真心をこめています。


 そうですよね。何かをつくり、それをだれかにプレゼントする時には、わたしたちはその贈り物に真心をこめます。受け取ってくれる人が笑顔になってくれますように、と。


 ヴァイオリンの演奏も、演奏者から聴衆への真心がこめられたプレゼントなのです。


「オレは、世界中の人たちに感動をあたえるヴァイオリンの奏者になりたい、オレの奏でるメロディーでみんなを幸せにしたいって、ずっと昔から夢見ていたんだ。それなのに、最近のオレは、どうやったらミスなしでうまく弾けるかという、演奏の技術ばかりにこだわって、演奏する時に一番大切な真心を忘れてしまっていた。特に、今度のコンクールで演奏する『愛の挨拶』には、欠かせないものだったのに……」


 青葉先輩はそう言うと、『愛の挨拶』という楽曲が生まれたエピソードをわたしに教えてくれました。



            ☆   ☆   ☆



 『愛の挨拶』を作曲したのは、イギリスのエドワード・エルガーという音楽家です。


 彼は、ピアノを教えていたアリスという女性に恋をして、相思相愛の関係になりました。


 ですが、アリスのお父さんは身分の高い軍人さんで、そのころはまだ無名の音楽家だったエルガーとの結婚を認めようとはしませんでした。


「どれだけ反対されても、わたしはエルガーとの愛を選ぶわ!」


 エルガーを心から愛していたアリスは親の反対をふりきり、エルガーと婚約しました。


 そんなアリスの愛情にこたえ、エルガーが婚約記念として彼女のために作曲してプレゼントしたのが、『愛の挨拶』だったのです。


 だから、あの優しくて美しい『愛の挨拶』のメロディーには、エルガーのアリスに対する愛情がこめられているのです。


 そして、結婚した二人は、生涯おたがいを支え合って、幸せに暮らしたそうです。



            ☆   ☆   ☆



「『愛の挨拶』は、人を心から想う真心……愛をメロディーにのせて演奏しなくちゃ、本物の『愛の挨拶』にはならない。人の心には、ひびかないんだ」


 そうか……。だから、『愛の挨拶』のメロディーを耳にすると、あんなにも胸が温かくなるんですね。


 そして、あの時、このメロディーを聞くことができたから、わたしは……。


「青葉先輩。先輩のメロディーは、ずっと前からわたしの心にひびいていました。先輩と出会う前から……」


「それは、どういう意味だ?」


 青葉先輩が少しおどろいた表情をして首をかしげると、わたしは、去年、右ひざの手術を受けた時のことを先輩に話しました。



            ☆   ☆   ☆



 去年の夏、大会で右ひざのけんを切ったわたしは、すぐに手術をすることになりました。


 ただ、お医者さんからは、手術をしても陸上の選手として復帰できない可能性もあると言われ、手術を前日にひかえたわたしは病室で不安な時間をすごしていました。


「絵里。また食事を残したの? 朝ご飯も残したじゃない。明日は手術なんだから、ちゃんと食べないとダメだよ」


「でも、かぐやお姉ちゃん。わたし、食欲がありません。明日の手術が恐くて、食事なんてできないです……。どうせ治らないのなら、手術なんて受けたくないですよ」


 不幸のどん底にたたき落とされ、超ネガティブ状態だったあのころのわたしはやけくそになり、そんなことを言って、見舞いに来てくれていたお姉ちゃんを困らせるのでした。


 走ることができなくなったわたしに何の価値があるのだろうと、自分のすべてを否定し、両親がどれだけわたしを励ましても、「聞きたくない!」と耳をふさいでいました。


「お医者さんは、治る可能性もあるって言っていたんでしょ? 手術を受ける前からそんな弱気では、治るものも治らないわよ」


「わたし、神様に見捨てられてしまったんです。だから、こんな不幸な目にあったんです」


「やれやれ……。こいつは相当、ネガティブになっているわね。……あっ、そうだ。ラジオでも聴いて気晴らしする? 実は今日、わたしのアパートの住人の男の子がね、ジュニア音楽コンクールに出場していて、ちょうどラジオで放送されている時間なのよ」


 かぐやお姉ちゃんは、病院の個室で寝たきりのわたしがヒマだろうと思い、小さなラジカセを持って来てくれていたのです。


 今までラジオ番組を聴いたことがあまりなかったわたしは、(ラジオなんて……)と思いましたが、「別に興味ない」と言う気力もなかったので、黙ってうなずきました。


 そして、お姉ちゃんがラジカセのスイッチを押して、聞こえてきたのが、あの繊細で優美なヴァイオリンのメロディーだったのです。


 心の琴線にふれるその音色を耳にして、わたしはハッとなりました。


「お姉ちゃん。この曲は……」


「ああ。これは、エドワード・エルガーの『愛の挨拶』よ。さっき話したアパートの男の子が得意な曲で、このコンクールでも演奏するって言っていたわ。この演奏は彼なのかしら?」


 わたしは目を閉じて、ラジオから流れてくる『愛の挨拶』に聞き入りました。


 『愛の挨拶』は音楽そのものも素晴らしかったですが、ヴァイオリンを演奏している人の心の優しさがメロディーを通してわたしの心に伝わってきたのです。


 そのささやくような甘い旋律は、


「この世には、愛と希望が満ちあふれているんだよ」


 と、喜び歌っているようで、何もかもを否定的にとらえがちになっていたわたしのネガティブな心を癒してくれました。


 この世の中は厳しくて、夢も希望もない。ケガをしたわたしはそう考えていたけれど……。


 こんなにも愛にあふれたメロディーを奏でることができる人がいる世界なら、わたしが考えているよりは、優しくて夢のある世界なのかもしれない。そう思えたのです。


「ヴァイオリンを弾いているこの人は、きっと世界で一番キレイな心を持った人だ……」


 わたしは、このヴァイオリンの演奏者と会いたい、そう強く感じました。


『夢ノ貝学園中等部一年生、青葉光くんの演奏でした!』


 演奏が終わり、司会者がヴァイオリンを弾いていた人の名前を紹介してくれました。


「あっ、やっぱり、隣の部屋の青葉光くんだった。へー、あの子、すごいじゃん」


 その後で聴いた他のコンクール出場者たちの演奏も素晴らしかったです。でも、わたしの心にひびいた演奏は青葉先輩の『愛の挨拶』だけでした。


 そのコンクールで先輩は残念ながら入賞を逃してしまいましたが、わたしにとって青葉先輩の演奏は特別なものになりました。そして、先輩の演奏によって心が癒され、手術を受ける勇気を何とか持つことができたのです。


 それに、あの『愛の挨拶』のおかげで、ネガティブ全開で両親の励ましにもまったく耳を貸さなかったわたしのかたくなな心が少しだけ和らぎ、


「ポジティブになれ。自分の夢を見捨てるな」


 という、お父さんの言葉に耳をかたむけることができたのです。


 青葉先輩の演奏は、出会ったことのないわたしの心を救ってくれていたのでした。



            ☆   ☆   ☆



「……そうか。こんなオレの演奏でも、君の心を癒すことができていたのか」


 わたしの話を聞き終えた青葉先輩は感慨深そうに言いました。


「はい。青葉先輩の演奏には、人を元気づける力があります。だから、先輩は絶対に素晴らしいヴァイオリニストになれます。……夢は、必ず叶います! あきらめないでください!」


 視聴覚室で一人、孤独に練習し、「しょせん、オレは夢を叶えられない負け犬なんだ」と嘆いていた青葉先輩。


 夢が遠ざかりそうになり、もがき苦しむ先輩の心をわたしは癒してあげたかった。


 わたしの心を救ってくれた先輩を今度はわたしが救いたいと強く願った。


 やっと、勇気を出して「夢をあきらめないで」と言えたけれど……。


 知り合って間もない年下の女の子の言葉で、先輩を励ますことはできたでしょうか?


 わたしは、不安な気持ちを抱きながら、青葉先輩の顔を上目づかいに見ました。


 ……先輩のキレイな瞳は、力強い光を宿して、わたしを見つめていました。


「ありがとう、絵里ちゃん。オレ、不幸体質のせいでいつもひどい目にあっているから、昔からついついネガティブになってしまうんだ。でも、どんな時でもポジティブで前のめりにがんばる君を見ていたら、オレもがんばらなくちゃってポジティブになれそうだよ。一緒に、夢に向かってがんばろう」


「青葉先輩……。はい! がんばりましょう!」


 わたしはうれしくなり、海に沈もうとしている夕陽もビックリしてしまうような元気な声でそう言いました。


 青葉先輩はわたしの大声におどろき、


「相変わらずでかい声だな」


 と、ほほ笑みました。わたしもニコニコの笑顔になります。


 ……でも、あれ? 何かが心に引っかかるような……?


「……そういえば、先輩。今、わたしのことを『絵里ちゃん』って呼びませんでしたか?」


 心に引っかかることが自分の名前の呼びかただと気づき、わたしは言いました。


「あ、ああ……。まあ、オレもちょっと気恥ずかしいけれどさ、エイミーさんの言う通り、家族同然に暮らしているおぼろ荘の仲間なんだし、下の名前で呼ぼうかなって。……やっぱり、嫌……?」


 青葉先輩が照れて、わたしから視線をそらしながら言うと、わたしは、


「い、いえいえ! 嫌じゃないです! むしろ、うれしいです!」


 と、両手をバタバタさせて、思わず本音を暴露してしまいました。


 え、ええい! こうなったら、この場の勢いをかりて、わたしも……!


「じ……じゃあ、わ、わたしも……光先輩って、呼んでいいですか?」


 い、言っちゃった! 言っちゃった! 言っちゃったーーー!


「う、うん。……いいよ」


 しかも、オーケーされちゃいました!


 照れている先輩、可愛い!


「で、では……え~と……。ひ、光先輩。これからも、よろしくお願いします」


「こ、こちらこそ、よろしく。……絵里ちゃん」


 好きな人の名前を呼ぶのって、何だか神聖な儀式みたいです。心がとても熱くなります。


 今のわたし、夕焼け空よりも顔が真っ赤かもしれません……。

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