14 もう一度、走りだすために
翌日の土曜日、わたしとかぐやお姉ちゃんは、電車に乗って、わたしが入院していた時からお世話になっている病院に行きました。
わたしはどんな検査結果が出るのだろうとドキドキしていましたが、主治医の先生は、
「そろそろ走ってもいいでしょう。ただし、まだ軽いランニング程度にしておいてください」
と、わたしに言ってくれたのです。
「かぐやお姉ちゃん! わたし、走っていいって! やったー!」
わたしが大はしゃぎすると、お姉ちゃんも「よかったね」と喜んでくれました。でも、
「……また、昔みたいに体を壊すような無茶な練習はしないでよ? 本当にお願いよ?」
と、今にも泣きだしそうな顔をして、わたしに言うのでした。
かぐやお姉ちゃんは、わたしがまた走れるようになったことを喜びつつも、不安に思っているのです。わたしが、再びケガをして、あの時みたいな辛い思いをもう一度したらと……。
桂先輩も、わたしのお姉ちゃんと同じように、自分のお姉さんの心配をしているのでしょう。そう思うと、先輩のわたしに対する厳しい態度をただの意地悪だとは言えなくなります。
でも、桂先輩のお姉さんが夢をあきらめないのと同じように、わたしも、陸上選手としてオリンピックに出場するという夢を捨てることはできないのです。
「お姉ちゃん、心配ばかりかけてごめんなさい。もう絶対に、自分の体を痛めつけるような無茶なトレーニングはしません。これだけは必ず約束します」
「……本当?」
「はい。そんなネガティブなトレーニングをしたって、強くなることはできないって分かりましたから。自分の体をきたえる、ちゃんと計画的でポジティブなトレーニングをやります」
オーバーワークの特訓が、わたしの右ひざをダメにしました。
体が悲鳴を上げているのを無視し続けて、わたしは大事な大会で自滅してしまったのです。そんなあやまち、二度とくりかえしません。
「…………」
かぐやお姉ちゃんは、わたしの真剣な眼差しを見つめると、何ごとかを考えているかのように黙りこんでしまいました。
☆ ☆ ☆
病院を出た後もずっと黙っていたお姉ちゃんが、ようやく口を開いたのは、帰りの電車に乗って、しばらくしてからのことでした。
「……絵里も知っていると思うけれど、わたしは、小さいころからハッピーエンドになる物語が大好きなのよ。物語の中の人たちが幸せになって、読者まで温かい気持ちになれるようなお話がね」
隣の席に座るお姉ちゃんは、そんなことを言い出しました。
たしかに、お姉ちゃんは、シンデレラや白雪姫など、最後にハッピーエンドになる絵本を幼かったころのわたしにたくさん読み聞かせてくれました。
「現実世界では、泣きたいことがあったり、辛いことがあったりして、笑顔を忘れてしまいそうになる時もあるでしょ? そんな時、ハッピーで心温まる物語を読んだら、人は笑顔を取り戻すことができる。物語には、そんな力があるんだよ。わたしが小説家を目ざしているのも、わたしが生み出した物語を読んで世界のどこかのだれかが笑顔になってくれたら、幸せだなぁって……そう考えたからなの」
かぐやお姉ちゃんはいつになく真剣な表情でそう語り、わたしの顔を見つめました。
「もちろん、悲しい結末を迎える物語にも名作はたくさんある。けれど、絵里には……わたしの大切な妹には、人生という名の物語をアンハッピーにしてほしくない。ハッピーになってほしい。あなたにとって、陸上選手になるという夢を叶えることがハッピーエンドにつながるのなら……お姉ちゃんは絵里のことを応援するよ」
そう言うかぐやお姉ちゃんの瞳には、迷いの色がまったくありませんでした。
「お姉ちゃん……」
わたしが涙ぐみ、かぐやお姉ちゃんの手をにぎると、お姉ちゃんは、
「い、嫌だなぁ~。こんな電車の中で泣かないでよぉ~。他の乗客の人たちが見てるよ?」
と、おどけて言い、ちょっと照れくさそうに頭をがりがりとかきました。
「光くんと椿ちゃんがね、学園から帰って来ると、いつもわたしに教えてくれるの。絵里は、今日も陸上部の手伝いをがんばってやっていたって。そんな話を聞いていたら、やっぱり応援してあげたくなるじゃん? 可愛い妹の夢を……」
「かぐやお姉ちゃん! ありがとうございます!」
わたしは、かぐやお姉ちゃんにガバッと抱きつきました。
「え、絵里! だから、ここ、電車の中! 人がいっぱい見てるから~!」
恥ずかしがり屋のお姉ちゃんは、あたふたと周囲を見回しながらそう言いましたが、喜びのあまり興奮してしまっているわたしの耳には聞こえていませんでした。
「わたし、自分の物語を必ずハッピーにしてみせます! お姉ちゃん、見ていてください!」
わたしがハッピーになったら、ハッピーエンドが大好きなお姉ちゃんは笑顔になれる。
だから、わたしは、全力疾走の前のめりで、ハッピーエンドを目ざします!
☆ ☆ ☆
わたしとかぐやお姉ちゃんが電車を降り、海辺の街に戻って来た時には、すでに夕方になっていました。
「わたし、ちょっとランニングをしてきます。お姉ちゃんは先に帰っていてください」
「え? 早速!?」
医者に走っていいと言われたその日に、わたしがランニングを開始するとは思っていなかったのでしょう。かぐやお姉ちゃんはビックリして、素っ頓狂な声を出しました。
「かる~く走ってくるだけですから、心配しないでください。……自分がちゃんと走ることができるか、確認したいんです」
ケガをして以来、わたしは右足をかばって歩くクセがついてしまいました。
右ひざの腱を切った時の激痛が忘れられず、右足を使うことに恐怖心を抱いてしまっているのです。
もう一度走り出すためには、この恐怖心を何とかして克服しなければいけません。
わたしのそんな思いが伝わったのか、かぐやお姉ちゃんはこくりとうなずきました。
「分かったわ。でも、無理しちゃダメだし、なるべく早く帰って来るのよ」
「はい! じゃあ、行って来ます!」
お姉ちゃんと駅で別れたわたしは、駅前の商店街をぬけ、海岸沿いの道路でランニングを始めました。けれど……。
「……こんな走りかた、桂先輩には見せられませんね……」
右足を半ば引きずるようにして走りながら、わたしは苦々しくつぶやきました。
足に力が入らないというか、若干震えてしまっているのです。
心の中で、「またケガをして、あんな痛い目にあったらどうしよう」という、わたしの迷いが走ることを邪魔している……。
「走り……たいのに……。おぼろ荘のみんなみたいに、夢に向かって……」
ヴァイオリニストを目ざし、逆境に負けず猛特訓をしている青葉先輩。
小説家になるため、日々執筆活動をがんばっている、かぐやお姉ちゃん。
ファッションが大好きで、スタイリストを目ざしている椿ちゃん。
世界平和を実現するという大きな夢を抱くエイミーさん。
そんなエイミーさんの夢の実現を陰から支えているセバスチャンコさん。
素敵な夢を持つおぼろ荘のみんなの親がわりとなって、見守ってくれている静子さん。
「みんなが前に向かって走っているのに、わたしだけ、こんな情けない走りかた……。もうちょっと、ちゃんと走れるかと思っていたのに……」
こんなことで、本当に選手として復帰できるのでしょうか?
ネガティブはダメ、ポジティブに……と、いくら自分に言い聞かせても、今の自分の弱々しい走りかたでは、不安ばかりが頭をよぎってポジティブ・シンキングなんてできません。
「夢を追いかけて……必死に努力して……ダメだった時、どうするんだ? 夢が叶わなかったら、今までの努力なんて無意味じゃないか。挫折した後には、苦しみと後悔が待っているだけだ……」
桂先輩の言葉を思い出し、わたしはブンブンと頭をふりました。
「……わたしは、あきらめません。お父さんと約束したんです。かぐやお姉ちゃんにも、応援するって言ってもらえました。ネガティブになったらダメなんです……」
わたしは声に出し、自分の弱気を打ち消そうとしました。
でも、不安に満ちた心はまだガタガタとぐらついていて……。
そんな時のことです。あのメロディーが聞こえてきたのは。
「……え? これは、『愛の挨拶』……。青葉先輩?」
ざざあ、ざざあ、という海の波の音を副旋律にして、ヴァイオリンの優しい音色が夕方の空にひびきわたります。
五十歩ほど先を見やると、水平線の彼方へと沈みゆく夕陽を背にした青葉先輩が、コンクリートの堤防に座ってヴァイオリンを弾いていました。




