あるあっつい土曜日
ある土曜日、美穂達は葛西海浜公園の『西なぎさ』に来ていた。
決して遊泳は出来ないが、今日は快晴で、砂浜は絶好の行楽日和を迎えていた。
しかし、一年中、遊泳禁止なので、水着の人は少ない。
敦也は砂浜から少し、離れた所にいた。
「いい空気ですね。エッチーニさん」
敦也は思いっきり、深呼吸をしている。
「うん。僕を優しく誘う、甘美でズルイ匂いだ。一体、どなた様の匂いなんだろう?」
そう敦也にいい、エッチーニは目を閉じ、嗅覚を集中させる。
次にエッチーニは、隣の綺麗で麗しい足元に鼻を近付けた。
「こんな近くに宝があったとはね。初めまして、僕の名前はシャルル、ドゥエイン、エッチ……」
エッチーニは上を見た。
そこには変な目で見る、小顔の男がいた。
「お前は犬か?」
足元のエッチーニに、半ズボンの美月がいった。
「また君の素敵なアンヨか……。残念」
「今日はバーベキューが目的だろ。全く」
美月は呆れる。
敦也は歩きだした。そこへ腕まくりをした美恵が、大きく手を振り、
「あなたー! パクマン博士がバーベキュー焼けてきたって! 焼鳥もやってるみたい」
と、いった。
「それは楽しみだ」
「行きましょ!」
敦也の腕に美恵が腕組みをし、体を思いっきり寄せる。美恵の腕の絡め方の気持ち良さに、敦也は内心、デレている。
心の内で喜び過ぎたのか、
「オホ! オホン!」
敦也は噎せてしまった。
「あら? 冷たかった? ごめんね」
美恵が手を外す。
「あ!」
敦也が思わず声を出す。
「どうしたの?」
夫の顔の下から、美恵がいった。
「い、いや。平気だよ」
「大丈夫?」
聞き方が愛おし過ぎるので、敦也は興奮を抑える為、視線をずらした。
敦也の視線の先には、バーベキューに集まる、美穂や翔、悪七、早乙女達がいる。
そしてポンを作った誼みという事で、ホイもいる。ホイに関しては、如月による噂では、大村との繋がりがあるようだが、そこは線引きした上で連れてこようという、敦也の粋な計らいによるものだ。
「速く行かないと、悪七さんにレバ刺し取られるぞ」
敦也は駆け出した。
「あ! 待ってよ!」
美恵も走り出す。
「ああ……。いいなあ……。夫婦って……」
そんなエッチーニに、
「お前に惚れる女は、相当なモノ好きだろうな」
白けた感じの美月が、歩きながら嫌味をいった。
パクマンが真剣な顔で作るバーベキューを、男勢がすぐさま、平らげていく。
「おいしいねぇ。翔君」
「うん!」
美穂の言葉に、翔が大きく頷く。
頭にタオルを巻いたパクマンが、
「ありがとよ。ほらよ! ツクネだ! 翔君」
そういって渡した。
「ありがとう。おじさん」
「輝いてますよ。パクマン博士」
早乙女が微笑みながら、声を掛けた。
「こりゃー、いい運動になるぜ」
パクマンは串焼きにタレを塗る。隣でポンは団扇で仰いでいる。
「パックマン。もっと、もっと沢山焼いてよー。ピーマンも大好きなんだよー」
ホイが興奮している。
「はいはい」
パクマンも団扇で仰いだりして、火加減を調節する。
「歯触りがいいですねー。このお肉」
美恵の目がとろけている。
美穂がふと、看板に書かれたイラストを見る。
「ここは泳げないんだね。お父さん」
「あぁ、そういえばそうだね」
敦也はいった。
「え? 泳げないんですか? ココ?」
如月が驚いて、そういった。
「あれを見てみな。如月」
パクマンがある一方を見つめる。
そこには『遊泳禁止』と、赤い字で大きく書かれた看板が、建てられていた。
「へー、以外だな」
如月がいった。
「なんで泳げないんですか?」
「赤エイが出るらしい」
「赤クラゲもな」
早乙女の問いに、敦也とパクマンが、順に答える。
「毒のあるエイは大抵の場合、尻尾にある奴が多いから、気を付けろよ。早乙女」
敦也が説明する。
悪七がにやけ、食べ終えた串を敦也に向けながら、
「まぁ、アレだ。追っ掛けるなら、エイの尻より女のケツって事ですね? 敦也の旦那」
子供達の前で、品の無い事をいう。だが恐らく美穂達には、この言葉の意味は分からないだろうと、良識ある周りの大人達は思った。
「そうですね。でももしかしたら、その女性の方が、場合によっては毒のエイ以上に、危険かも知れませんがね……」
敦也がトンチの利いた言葉で返した。
それを聞いていたパクマンが、
『ヒュー』
と、小さな口笛を敦也に吹いた。
「こりゃ驚いた。敦也の旦那も、俺より面白い事がいえるんですねぇ」
悪七が串を片手に、真顔でいった。
そんな悪七の所へポンが、串を回収する為の空き缶を持ってきた。
「おぅ。すまねぇな。御田ボーヤ」
悪七は空き缶に串を入れた。
悪七の所から戻ってくるポンを、パクマンと敦也が、眺めている。
「若井の所にポンが来て、ホントに良かったな」
「そうだな。毎日の笑顔が増したよ。皆」
敦也が水のグラスを持って、
「ほら。お冷やだ、パックマン。少しポンに任せて休めよ」
パクマンに渡した。
「あ、ああ。ありがとよ。平気かな? ポンに任せて……」
パクマンがポンを、心配そうに見た。
ポンは片足を上げ、ポットから出る冷水で、足を洗った。
ポンはその綺麗に洗った片足で、肉を串に刺したり、ピーマンを包丁で切ったりしだした。
「凄ーい!」
美穂と翔が、ポンに拍手を贈った。
「器用だけど、アレ足だよ」
早乙女が嫌な顔をしていう。
「よく聞け。あの土豆型の4つのパーツはな、両手両足、どこにでも対応出来る設計になってんだ。だから手も足も関係無いんだ。分かったか! 早乙女!」
「えぇ……。まぁ、分かりました。いつでも補填可能だって、訳ですね」
早乙女がうるさいパクマンに、少し引きつった顔をする。
「ポンの心配は、なさそうだな」
「あぁ!」
敦也にパクマンが答えた。
そして敦也からパクマンに、
「そろそろ始めよう」
そう耳打ちされた。
「そうだな……」
静かにパクマンがいった。
ホイにパクマンと敦也が近付く。
「ホイ、こっちで話がある」
敦也が切り出した。
皆と少し離れた所に、敦也、パクマン、ホイがいた。
敦也が口を開いた。
「大村と何をやってる?」
「な、なんの事だよ?」
「しらばっくれてもな、大村と密接に繋がってるって事は、調べがついてんだよ!」
パクマンがホイの服の襟を掴み、凄む。
ホイの汗が垂れる。
「み、み、密接って、俺なんか。大出部に比べれば。ぜ、全然……。あ! しまった!」
「ほー。墓穴掘ったな、ホイ」
パクマンが襟を放し、腕を組んでそういった。
「存外、口が緩かったな……」
敦也がいった。
「さ! 話してくれ。ホイ!」
敦也は、いった。
「無理だよ。僕の命が危うくなる事は必至だもんよ。絶対できないよ」
ホイの汗が吹き出す。
(ここまできて、粘られる訳にはいかない!)
そう考えた敦也が、財布から1枚のカードを出した。
「これがなんだか分かるか? ホイ?」
敦也は自慢げにいった。
「な、なんだよ? 教えてよ」
「大阪発祥のバイキング形式型、御田チェーン店……」
敦也が話しだす。
「ま、まさか!」
と、ホイの口が大きく開いた。
「そう! 『デンガナー』の永久フリーパスだ。全部、話てくれたら、くれてやる」
敦也がニヒルな笑みを浮かべた。
「だけど若井、君がなんでそのパスを持ってんだよ?」
ホイが指摘した。
「俺が昔、大阪支部に異転してた時、デンガナーの世話になった。バイキングだから、食費の節約にもなったし。得にアソコの昆布には、世話にはなったからな……」
敦也は東京湾を、遠い目で見た。
「昆布?」
パクマンがそこだけ聞き返した。
「飲み込むまで、良く噛まなきゃいけないだろ? そのお陰で、満腹感を、少ないカロリーで味わえた。この腹は、あの時の昆布さまさまさ……」
敦也はパクマンを見て、次にホイを見て口を開ける。
「そしてデンガナーに、何度も通い続けた俺は、ある日あるイベントに巻き込まれた……。デンガナー泉佐野市支店の、合計来客数1万人達成記念のな」
それを聞いたホイが、唾を飲み込んだ。
敦也がカードの、表と裏をしきりに見せ、
「その時の記念品が、これという訳だ」
こういった。
「カードの事は良く分かったよ、若井。欲しいよ……、確かに欲しいよ! そのカード。でも、どうしても決め手に欠ける部分が、2つあるんだよ」
「それはなんだ?」
敦也が聞いた。
「1つ目は、デンガナーは関西圏でしか、チェーン展開してなかったじゃんよ? 俺はあんまし、大阪行かないよ。そういう意味では、魅力に欠けちゃうよ」
「確かにそうかもな……」
敦也が手を顎に当て、考え込む。
そこへ携帯を、片手に持ったパクマンが、
「続けろよ、ホイ。もう1つの理由はなんだ?」
と、聞いた。
「デンガナーは、夏場は営業してなかった筈だよ。確か、そうだったよ。これは痛いよ」
「フー……」
敦也はため息を吐いた。
「ちょっとそこだけは、妥協してもらわないと困るな。夏場の御田は、汗まみれの体にはキツイからな……」
「一年中、バイキングの御田、食べたいよー」
敦也とホイが、いい合いをしている所へ、
「あった! ほら見てみろ! ホイ!」
と、パクマンが携帯の画面を、ホイに見せる。
その画面には、
< つい先日の株主総会にて。
デンガナーは何故、関東圏に進出しないのかという、筆頭株主、園峰 孝康氏の意見を皮切りに、似たような意見が株主側から続出した。
それを受けて、本日開催された、デンガナーの役員会議にて。
年内か来年を目処に関東に支店第1号を展開する方針を固めた >
と、書かれていた。
「おぉー! これはー!」
ホイの目が輝いている
「君にとっては凄い朗報だね」
敦也は優しい顔でいった。
ホイは頷き、
「うん。俺は御田が大好きなんだけど、得に半片は、大好物なんだよ」
ホイがいった。
「決まりだな。さ! 話して欲しい……。大村や大出部の事を……」
こうパクマンがいった。
「……」
急にホイが黙った。
そして暗い顔になる。
ホイが重い口を開けた。
「ごめんよ。若井、パックマン。怖いんだよ。大村も大出部も……」
ホイが視線を下げた。
敦也とパクマンは、2人で1回見合って、大きくため息を吐いた。
(自分達だけで調べるか……)
そう敦也が考えていた時だ。
敦也の後ろから、
「西瓜はドコだー! 西瓜はドコなんだーい!」
と、聞き覚えのある声がした。
敦也が振り返ると、タオルで目隠しをした、エッチーニがよろつきながら、敦也達の方へ接近してくる。片手に長い木の棒を持っている。
敦也とパクマンは、エッチーニが通りそうな方向を見定め、移動した。
ホイにも、エッチーニの声が聞こえただろうが、視線を下げて考え込んでいるせいか、その場所から動かない。
やがてエッチーニが、ホイの所までやって来た。
エッチーニは片手を前に伸ばしながら、終いには、ホイの目の前にまで来てしまった。
エッチーニの手が、ホイの胸に当たる。そのまま、エッチーニがホイの胸を、撫で回し始めた。
「おっ! 西瓜みーっけ!」
わざとらしくエッチーニがいう。
「え?」
胸を揉まれるホイがいう。ホイは太っている割に、声は高い。
(うろたえる声が、とってもキュートだ。揉み心地もいいし。なんか母乳みたいな物も出てるな。どれ、匂いを嗅いでみよう……)
と、思ったエッチーニが、ホイの胸を触った手を、自身の高い鼻に近付けた。
(くっさ! 酸っぱい匂いだ! レモンでも食べ過ぎたのかな?)
エッチーニが、ホイの前で、
「ヘイ! マドモアゼール! こんな匂いじゃ、僕達の未来の赤ちゃんが悲しんじゃうよ」
と、いい、目隠しのタオルを外し、続けて、
「これはごめんよ。某シャルル ドゥエイン エッチ……ゲ!」
と、エッチーニが口を手で止めた。
「ウッ! くっさ!」
またエッチーニが誤って手の匂いを嗅いでしまい、手を空気中で大きく振る。
「そのマドモアゼルっていうのは、ひょっとして俺の事?」
ホイが自分に指を差しかけた。
「バカな事はいわないでもらいたい! うわー。速く、美月の足の匂いを嗅いで、気分転換しなくちゃ!」
エッチーニが、棒を捨て、バーベキュー広場へ向かって走り出した。
残った敦也達3人の目が、点となっている。
最初に口を開いたのは、敦也だった。
「分かったよ、ホイ。そこまでいうなら諦めるよ。行こう。パックマン」
「あぁ……」
2人が歩き出した。
「ハハハハ……」
ホイが大きな体を揺らしながら、笑い出した。
その豪快な笑い声を聞いて、敦也とパクマンが振り返る。敦也とホイの目が合った。
「ハハハハ……。フー……。なんだったんだよ? ほら、今の西洋人だよ、若井」
「エッチーニさんっていう、女性フェロモンに少し弱い人だ」
「弱過ぎるけどな……」
と、敦也の言葉に続き、パクマンがいった。
ホイは悪七家の居候の、エッチーニの存在は知っていたが、本人を見たのは初めてだったので、新鮮さを感じていた。
「君の周りには、あんなユニークな人がいるのが良ーく分かったよ。最近、大村との付き合いのストレスで、つい食に走ってたけど……。こんなに笑ったのは、久しぶりだよ! よし、決めたよ!」
ホイの台詞の続きは、予測がつき、敦也とパクマンの顔が、明るくなる。
「もう大村も大出部も怖くないよ! このサモハン ホイ! 地獄の上の一足飛び、やったろうじゃんよ!」
ホイがグッドサインを出し意気込む。
「そういうなよ。俺達仲間だろ?」
敦也が手をゆっくり出し、ホイに握手を求めた。
「ホントにごめんよ。今まで黙ってて……」
ホイが敦也の手を両手で掴み、泣き出した。
その掴み合った手に、パクマンの片手も重なる。
「大村の野郎達が来たら、八つ裂きにすりゃあいい! そうだろ? ご両人!」
「やってやるか」
敦也もいった。
敦也は視線を変え、広場で美月に殴られながらも、足に顔を近付けるエッチーニを見た。
(ありがとう、エッチーニさん。あなたのおかげだ)
敦也は心の中で呟いた。
ホイからは色々な事を聞いた。
今一が悪七家に山田として、潜り込んでいる事。
いつ決行されるのか、内容自体も分からないが、井也嵐君を使ってポンを盗む計画など。
しかし、大出部に関しては、分からず終いだった。
色々3人で話し合い、広場へ戻った。
広場へ戻ったパクマンが、
「どうだった? ポンのクッキングはよぉー?」
そう皆に聞く。
「凄いですよ。ちゃんと切り盛りしてんですから!」
如月が返事をした。
「いやー。なんてったって、さっき、ちょっとパクマン博士の横で見てただけなのに、もう焼き加減マスターしてんですもん。敵いませんよ」
早乙女が水を飲みながらいった。
美月は足を組みながら、携帯をいじっている。
「ポンが作ったお肉もおいしいよ! ね? 翔君」
「うん! うまい、うまい」
翔は美穂と、一緒の皿のポテトを食べている。
「ねぇ? 悪七、じゃあ、あのカワイコちゃんはどうだい? あそこの透かした目の子だよ。そそるんだよねー。ああいう『ツンッ』とした目の子ってさぁー……」
「流石だ、エッチーニ。目が肥えてんな。ありゃ、上玉だ」
「よし! 誘って来るよ」
エッチーニが、歩いて行った。
「オイオイ……」
悪七が呆れる。
美恵がポンの頭を撫でる。
「パクマン博士が作ったんですってね? このポンを」
美恵が聞いた。
手をパクマン自身の、頭の後ろに回す。
「ハハ、俺だけじゃないですけどね。作ったのは……。しっかし、まぁ、どこぞの一番弟子と違って、モノ覚えがいい事。いい事……」
「ム!」
如月が反応した。
美月が美穂達から、ポテトを小皿に分けてもらった。
美月が如月の方を向いた。
「如月、そこのケチャップ貸して」
「自分でやれってぇの」
「全く、なにスネてんだか」
美月が鼻で笑った。
「フフ……」
敦也が笑った。
そこへエッチーニが戻って来た。彼は左の頬を赤くしていた。
悪七が山彦をする際の、手の型を作り、
「オーイ! 伊達男! 頬に紅葉が付いてるぜ!」
と、茶化した。
エッチーニは、落ち込んでいた。
「ハッハッハッハッハ!」
パクマンがしょげるエッチーニを、笑う。
「ちょっとー! パクマン博士。コンロに唾が飛ぶじゃないですか!」
如月が怒った。
「ヘイヘイ! そいつは、わるうござんしたね」
パクマンが如月の目を見ずにいった。
ホイもまた食べ始める。
ふと敦也が顎に手を当て、口を開けた。
「そういえば、悪七さん。今日は、この前お会いした、山田さんは来ないんですか?」
「おぅ。今日は休ませた。母方の親戚が、お陀仏したんだよ」
「不幸ですか……」
敦也がいった。
(まぁ、今一の嘘だろうな)
そう敦也は考えていた。
両手を叩いた悪七が、
「そうだ! 地下鉄の葛西駅の近くに、レンタカーを停めてるんで、帰る時はご家族、ご一緒にどうです? 敦也の旦那?」
そう話掛けてきた。
「助かりますが、いいんですか?」
敦也が聞き返す。
「勿論ですよ。俺と敦也の旦那の、仲じゃないですか」
「やったね。翔君。バンザーイ!」
美穂と翔が片手を掴み合い、万歳をする。
「うん! 車だ! 車だ! ワーイ!」
翔が美穂と喜んでいる。
「おぅおぅ! ついでだから、どっか寄り道して……」
「ちょ、ちょっと待って下さい。俺達はどうなるんです?」
動揺した如月が、悪七に割り込んだ。
「オメーらは、荷物を俺の車に積んだら、電車なりコーヒーカップなり、適当な乗りもんで、帰りやがれ」
「そんなぁ……」
早乙女がうなだれる。
「随分と手の平あっさり返してくれますね? 悪七さん、朝、車から荷物を降ろしたのは俺達ですよ」
「手の平返しは俺の十八番なんだ……。諦めな」
悪七がにやけて、ツクネを頬張る。
如月が怒りの表情を見せる。
「聞いて下さいよ。荷物を持って、そこの葛西渚橋を渡るの、キツかったんですよ」
その如月の意見に美月が、
「何故か悪七さんは、手ブラだったな……」
と、続き、
「口笛まで吹いてて、ムカツキましたよ。正直!」
如月が再び、不満を爆発させた。
悪七がにやけた口を閉じる。そして、すぐ開けた。
「黙れ! この青二才共が! 俺はなぁ、お前らの手荷物より、30倍は重い物を心に背負って、ここまで運転してやってんだぞ! 分かってんのか!」
「じゃあ、その30倍っていうのは、どういう計算式で算出された答ですか?」
美月がやや、冷めた目で聞いた。
「自分で調べろ! アシバカ野郎!」
「ぐ、アシバカ……」
美月は傷付いたようだ。
エッチーニが自分を指差し、
「ねぇ、僕は? ねぇ? 僕は車で帰れるよね?」
悪七らに聞くが、誰もが無関心だ。
「お腹立ちも無理もない事だと思います」
悪七に敦也がそういった後、早乙女に歩み寄り、
「今日はせっかくいい雰囲気なんだ。今度いい物やるから、今回は我慢してくれ」
こう静かにいった。
場の嫌な空気を感じた美恵が、
「だ、大丈夫ですよ、悪七さん。あたし達、電車がありますから。ねぇ、アナ……」
と、遠慮して手を振る。
「いえ! どうぞ、若井博士達が乗って下さい」
早乙女がそう明るくいった事に対し、
「え?」
如月が、そういった。
「今、博士に何を吹き込まれた? 早乙女?」
美月が聞いた。
「何いってんだ。あれは悪七さんが借りた車だぞ。俺達が口を挟むもんじゃない。荷物は後で、車に運んでおきますよ。悪七さん」
早乙女は、にこやかにいった。
『ヒュー!』
パクマンが口笛を吹き、
「おっとなー!」
と、早乙女に向け、ウィンクをした。
「よしよし……。結構、結構」
悪七がそういいながら、スルメを食べている。
如月の顔が暗くなる。
(考えてみたら、確かに悪七さんの借りたレンタカーだしな。謝るか……。でも、なんていおう……)
そんな事を如月は、考えていた。
しばらくして、今度は敦也に早乙女が近付く。
「若井博士。ちょっといいですか?」
早乙女がいい、共に如月のもとへ向かった。
砂浜から東京湾を、如月が静かに見つめていた。
(似合わない画だな)
敦也は思った。
「さっきからずっと、ああなんですよ」
早乙女が顔を如月に向けて、また戻す。
如月に敦也が歩み寄る。
「どうした如月?」
如月が敦也を見た。
如月は少し溜めた。そして話出した。
「実は悪七さんに、なんて謝ったらいいか分かんなくて――」
「そうか……」
敦也も東京湾を見る。
(こいつ可愛い奴だなぁ)
彼の性格をよく知っているので、笑いをこらえるのに、敦也は必死だった。
「よし! じゃあ、こういってみたらどうだ」
敦也が如月に助言をし始めた。
敦也から助言を受けた如月が、悪七を葛西渚橋に呼んだ。
悪七が如月の方へ、歩いてくる。
如月が悪七に、頭を大きく下げた。
「さっきは済みませんでした。若さの余り、俺の心のゆとりが足りてませんでした」
その言葉に対し、悪七はすぐに返事はせず、橋の手摺りに向かった。
悪七が手摺りに腕を置き、景色を見ながら、にやける。
「ゆとりが足りませんでしたってか……。そいつは難儀だねぇ……」
悪七はおもむろにいった。
「どうしてです?」
「そればっかりは、医者も移植のしようがねぇからよ」
悪七が如月の顔を見た。
「おめぇ、時化た顔すんなよ。若い内が華だぜ。俺も若い頃、会社3回クビになって、落ち込んでたら、お袋はこういったぜ……」
悪七は間を置いた。
「自分だけの人生に、上司はいないってな」
いい終えた悪七が、工場の煙を見始めた。
「おめぇさんもこの先、会社をクビにされるかも知れない。そりゃ悲しむわな。ひょっとしたら、自殺したい衝動が来るかも知れねぇ……。よしんば、来なかったとしてもだ! この日本て国の会社は、新卒が大好きな、ハツモノ好きが多い。だから再就職は、多少は苦しむかもな……」
「え?」
如月が困った顔をして、聞く耳を持つ。
「加えて敢えていっておく! 経済大国の亜米利加合衆国様の諺だ!」
悪七の威圧感溢れる台詞回しに、如月は唾を飲み込んだ。
「転がる石にコケは付かない……。この諺だけは、脳味噌腐らせても、絶対忘れんな! いいな!」
悪七が如月の肩を、軽く叩いた。
「は、はい……。忘れません」
「お利口さんだ……」
そういい残して、悪七は広場へ向かった。
広場近くの砂浜で、皆、楽しんでいた。
「ねぇねぇ。みずぎのお兄ちゃん」
美穂が美月に話掛ける。
「美月だよ、美穂ちゃん。なんだい?」
「ポンにはね、タンスイカッコウが付いてんだよ」
美穂が明るく答えた。
「淡水カッコウ?」
美月が悩む。
聞き耳をたてていたホイが、
「耐水加工の機能が付いてるって事だよ。多分」
と、美月に耳打ちした。
美穂の言葉を理解した美月が、同じくらいの明るい顔をした。
「凄いねぇ。じゃあ、お風呂とかで一緒に遊べるんだ」
「うん! そうだよ」
美穂は美月にそういった。
その後すぐに、翔と手を繋ぎ、その場で大きく回りだした。何度もである。
「あーあ。ココ泳げないんだね。翔君」
「うん。ちょっと残念だね」
2人はそういいながら、その場で回り続ける。
美恵が口を押さえながら笑う。
「フフ……。なにやってるの? 2人共?」
「分かった。風車の真似だね?」
早乙女が人差し指を立てていった。
翔が美穂と回りながら、
「ブー! 正解は竹トンボでしたー!」
と、いい、
「早乙女のお兄ちゃんのハズレー!」
そうにこやかに、美穂も続いた。
敦也が両手を、大きく2回叩き、メンバー全員に合図した。
「そろそろ帰ろう!」
敦也は片付けを率先して始めた。
敦也はツマミを使って、広場周辺の自分達が出したゴミを、拾い上げていく。
敦也の目の前に、タバコの空き箱が棄てられていた。
美月が敦也に向かって、
「それは俺達が出したゴミじゃないですよ。タバコ、吸う人いませんしね」
と、いったが、敦也は平然と拾い上げ、
「乗りかかった舟さ」
そういって、ゴミ袋に入れた。
やがて片付けが済み、解散となった。
エッチーニは寄り道して帰るとの事で、駅に向かって行った。
敦也達5人と1体は、駐車場へ向かった。5人というのは、敦也、美恵、美穂、翔、悪七、そしてポンである。
悪七の白の軽車の助手席に、敦也が、
「失礼します」
と、乗り込む。
「さぁ、奥さん達もどうぞ」
笑顔で悪七がいった。悪七は運転席に着く。エンジンはまだ掛けていない。
「お邪魔します」
美恵が後ろの席に座る。
ポンを除き、美穂と翔も席に座る。
美穂の前では敦也が、悪七と話ている。
「このレンタカー、オートマなんですね? やっぱ、クラッチが無い分、マニュアルより、運転しやすいもんなんですか、悪七さん?」
「そりゃもう、快適ですよ。俺みたいな、頭の働きが鈍くなってきてる奴が、わざわざマニュアル借りて、操作誤って、事故起こす必要無いですからね」
それを聞いた敦也が、
「まーたまた御謙遜を……」
と、いい、悪七と敦也の2人で、
「ハハハハハ……」
と、盛大に笑う。
彼ら以外の3人は、今の話の面白みが分からない。
ふとポンが、車に乗り込むのをやめ、下のコンクリートを見た。
美穂が不機嫌な顔をして、
「早くボーリング行きたいよー!」
と、足をばたつかせる。
「ヒヒヒ、そいつはわるうござんしたね。ほんじゃま、出発といきますかぁ?」
悪七がエンジン部分に、車のキーが挿さっていない事に、気が付いた。
「あらら? キーどこやったっけ?」
悪七はポケットや、下を見回す。
そんな悪七を尻目に、敦也はポンが、ずっと車に乗りもせず、地面を見ている事に気が付いた。
(一体どうした? ポン)
敦也が不思議に思っている中、後ろから、
「アタシの所には、落ちてませんでした」
「僕の所にも無かったよ」
「私の所も無かったよ。おじちゃん」
美恵、翔、美穂がいった。
その時、地面から一瞬、音がした。
だが車の中の者達は、気付かない。
同時刻、地下鉄葛西駅内の電光掲示板の前で、ある男がいった。
「ここで出力を上げて、さっさと井也嵐に、日の目を拝ませろ」
そういい放ったのは、無精髭が濃くなった大村だった。
「畏まりました、所長」
新たに、モニターなどを加えた探知器を持った、今一が、
「アウトプット・アップ。井也嵐君は現在、地中74メーター……。72……、70……、68……」
こう続ける。
気色悪い笑みを浮かべた大村が、
「もうすぐだ……。モニター越しになるが、もうじき会えるぞ。ポンよ……」
と、いった。
ポンはまだ車に乗らず、地面を見ていた。
「おじさん。鍵、見つかった?」
「まだだよーんと……」
翔に悪七がそう返事しつつ、ペダルの下に手を伸ばす。
「あったぜ!」
悪七が会心の笑みをした。
「やったね。おじちゃん」
美穂もにこやかだ。
悪七がキーを挿し込み、エンジンを掛ける。
車のエンジン音が、皆の耳に入る中、
「ちょっと済みません。変な音しません? 悪七さん?」
美恵は辺りを見回した。
「君も気が付いたか……」
敦也が美恵を見ていった。
「俺には聞こえませんぜ……」
「僕も分かんない」
「私も聞こえないよ」
悪七、翔、美穂がいった。
だが彼らの言葉の後、微弱な空気の振動を、皆が感じた。そして歯医者で鳴るような嫌な音が、皆の耳に響き始める。
美穂と翔が、耳を塞ぐ。
「う……。 嫌な音……」
美恵が耳に応えたのか、顔色を悪くする。
「済みやせんね、奥さん。きっとレンタカー屋の奴らが、車検出して無かったんだな。このポンコツめ! すぐボーリングなりカラオケとか行って、気分転換しましょうぜ!」
悪七がサイドブレーキを下ろす。
悪七の視線のすぐ先に、横から伸びた敦也の腕が飛び込む。
「悪七さん! 出発は! まだ! 待って下さい!」
敦也が騒音を考慮し、大声でいう。
所々、聞こえない部分はあったが、何を自分に伝えたいのかは、悪七は大体、敦也の腕から、汲み取っていた。
「なぜ出しちゃ! イカンのですか! 敦也の旦那!」
悪七も大口で聞く。
「地下鉄の! 事業団体が! 水道管を! 破裂させたケースも! 考えられるからです! そのせいで! 勢いよく! 水が! どっかから! 噴き出す! 可能性……」
即座に話をやめ、敦也が車のドアミラーを凝視した。
ポンと美穂の間の地面から、ドリルが回転しながら、飛び出してきている。
けたたましい音が響く中、
「ポン! 速く乗って!」
美穂がポンの手を掴み引っ張るが、ポンは自分から動かず、ドリルを見ている。そんなポンを美穂が、引っ張り続ける。
ドリルの恐ろしさを知らない美穂が、
「んー! 速く乗ってー! ポーン!」
そういい、顔を踏ん張らせ、尚も引っ張る。翔は美穂の体を引く。美恵は翔の体を引く。
皆が渾身の力で引いても、ポンは動かない。
「なんでこんなに重いの!」
美恵が歯を食いしばりつつ、翔の体を引く。
悪七は随時出発できる態勢を保つ。
敦也が後ろを向く。
「急いでポンを放せ! 美穂!」
「イヤ!」
美穂は左右に首を振り、より一層、手に力をこめる。
ドリルが美穂の手の、すぐ下に迫る。
敦也はミラーを見ていて思った。
(ポンに賭ける!)
敦也は無理矢理、助手席から後部座席へ、移動を始めた。敦也は、美恵の足に頭と手を置いた。翔の足に、敦也の胴体が乗る。
そして敦也は、自身の足を折り込む。
次の瞬間、美穂の目の前に、敦也の革靴が、凄まじい速さで横切った。
敦也が美穂を掴みながら、ポンを勢いよく、蹴飛ばした。
ポンは美穂の手から離れ、吹っ飛ぶ。
衝撃音と共に、ポンがワゴン車に頭部をぶつけた。
ドリルが遂に、地面を破壊し終えた。
「あ! ポーン!」
美穂の言葉と同時に、旋回したドリルの全体像が露わとなった。ドリルの回転が止まる。
そこにいたのは、頭にドリルを加えた、井也嵐君だった。土埃を被り、多少茶色くなっているが、元々の塗装は黒かった事が伺える。
井也嵐君の姿が、車内の者達の面々に映る。悪七を除く全員に、そのナリには覚えがあった。
翔がロボットを指差し、
「あ! コイツ! パーティーの時の……」
そういい掛けた翔の口は、敦也に塞がれ、
「悪七さん! 速く車を!」
と、敦也が急かす。
「オ……、オッケイ……。出しやすぜ」
悪七がアクセルを踏み込み、ハンドルを切る。車が美穂の横の、ドアを開けたまま、駐車場を出る。
「ポーン! ポーン!」
美穂が残されたポンを見つめながら、泣き叫ぶ。
「美穂……」
ドアを閉めた美恵が、優しく美穂を撫でる。
敦也が前を見ながら、
「大丈夫に決まってるだろ、美穂! お父さん達が、5年も掛けて作ったポンが、俺の友達の助手が作ったポンコツに、負ける筈ないだろ」
こう美穂に諭す。
悪七が運転しながら、大きく口を開けた。
「そりゃそーだ! ついでにいっときますと、敦也の旦那。今日から、敦也の旦那の家に、護衛を就けようかなって、今、考えてた次第なんですがね……」
「護衛とは?」
「エッチーニと……」
悪七の口から、次に挙がる人物の名が、予想できたので、敦也の顔が固くなる。
「山田に、若井家を守らせる寸法です。いかがでしょうか?」
「大変、心強い限りですが、悪七さんの通常の生活もある事ですし……。せめて、山田さんだけは、悪七さんの家に残って頂ければと思います。私もご協力頂いておいて、こんな事をいうのも、恐れ多いですが、そうして頂くと心苦しさが和らぎます……」
その敦也の言葉は、今一に対する不信から、くるものだった。
悪七はハンドルの両手を放し、敦也の手を握る。
「流石は俺が惚れた男。こんな危険な目に逢ってるのに、俺のこ……」
そこへ、
「前! 前! 前!」
「おじさん! 危ないよぅ!」
と、美恵と翔が、大声でいった。
対向車から長ったらしい、クラクションが鳴らされる。
「おっとっと! ヒュー……」
悪七は口笛を吹いた。
(ヒューじゃねぇだろ!)
敦也はそう心でいいつつ、冷や汗を拭う。
「まぁ、敦也の旦那……。エッチーニの奴は、庭の草むしりから、野郎の懐のゼニまで、自由に使って下さいよ。ハハハハ……」
そんな悪七に対し、
「お心遣い、感謝します」
笑えない心境の、敦也がいった。
車はしばらく走り、赤信号で止まる。
悪七はルームミラーで、美穂の悲しむ顔を見た。美穂の涙が白い頬をつたう。
(ボーリングはお預けだな……)
悪七が心で呟いた。
敦也達の帰路の最中、地下鉄葛西駅では、大村と今一が興奮していた。
今一がやや興奮気味に、探知器を操作する。
「やりました! 所長! たった今、ポンのキャプチャーに成功しました。後は井也嵐君を完全委任態勢に移行させ、予定では5分以内に、ここで合流します! 井也嵐君の逃走用ルートは事前に確保している為、この『5分』という数字を、可能にしました。また数字といえば、今回のプランに於ける、サクセス・パーセンテージは、85パーセント以上という、大変頼もしい数字が叩き出されております。ご期待くだ……」
「今一よ……」
「さい……。ハ、ハイ。どうされました? 所長?」
「英語の成績が万年『2』だった俺に、余り横文字を並べるな……」
大村は自身の顎に触れる。
「は! これは失礼を」
「だいたい、分かった……。お前はそのまま、モニターから目を放すな」
大村が今一に、耳アカをほじりながらいった。
「あのぅ、所長……」
今一が熱い視線を、大村に送る。
「いったそばから、なんなんだ?」
「ポンを手に入れた祝いに、今日の夜食はウナ重……」
「ダメだ」
大村は今一の意見を一蹴した。
そんな大村の目に、黄色い光が見えた。その光は今一の持つ、探知器のモニターから、放たれている。
「オイ! モニターがおかしいぞ! 今一!」
「こ、これはどうしたんでしょうか?」
「俺によこせ」
大村が探知器に、手を伸ばす。
しかし今一が、体を捻り、その手を回避した。
「私が原因を究明するんで、ぜひ今宵はウナ重を! 所長!」
「ほざけ! どこの予算から、捻出すると思ってやがる!」
次の瞬間、大村達の近くの、電光掲示板が膨れあがり、中年女性のイラストの、顔面もろとも、一気にヒビが入る。そのヒビから、黄色い閃光が漏れ出す。
「な! なんだ!」
「お、おかしいな! 予定では、もう少し丁寧に掲示板から……」
今一が動揺した瞬間、爆発が起きた。
30秒くらいした後、土埃が濛々(もうもう)とする中、
「所長ー! ゴホ! ゴホ!」
咳込みながら、今一が辺りを捜す。
走ってくる人影が今一に見えたので、急いで今一は駆け寄り、
「ご無事でしたか? 所長!」
と、その者の手を掴む。今一は手の感触に、違和感を覚えた。
「私はここの駅長です。おケガはございませんでしょうか? ここはまだ危険ですので、あちらに向かわれて下さい」
白手をした駅長が、対面した今一にいった。
その横で瓦礫に埋もれながらも、
「お前の……。アイ……。キュー……。ひゃく……。にじゅう……。よん……」
と、顔だけの井也嵐君が、駅長に向かっていった。
駅長は周囲の埃のせいで、その顔が人に見えたのか、
「ひぃぃぃー! やはぁー!」
そういって、叫び逃げて行った。
瓦礫の山を尻目に、頭の昆布型レーダーを頼りに、ポンは帰宅の為、歩き出した。
美穂の家には、敦也、美恵、美穂、悪七、エッチーニが、打ち合わせなどをしていた。窓の前では、猫の黒之介が、外をずっと見ている。
その光景を見た美穂が、敦也の服の袖を掴む。
「ねぇ、お父さん。黒之介も、ポンが帰ってくるのを待ってんのかな?」
「そうだろうね。きっと……」
敦也はそう返事したが、
(生態学的には、庭の縄張りを、確認してるだけなんだろうな……)
と、敦也も黒之介を見ていた。
それから、1時間くらい経つ。
1回だけ、インターホンの音が、辛気臭い若井家の中に響き渡る。
「お! まさかね!」
「いや、そのまさかさ。悪七」
手帳を開いていた、エッチーニがいった。
台所から、手をタオルで拭いた美恵が和室に来た。
「ねぇ? 今日はウナ重にしましょうよ。アナタ! エッチーニさん達もよろしかったら……」
「そうだな」
敦也が笑みをこぼす。
「奥さんも粋ですねぇ」
悪七が嬉しそうにいう。
ニュースを見ていた美穂が、
「私が開けてくるぅー!」
そういって、勢いよく駆け出した。
玄関で靴も履かずに、ガムシャラに美穂がドアを開けた。
美穂の視線の先には、煤まみれのポンがいた。だが美穂は、そんなポンを汚いとは微塵にも、思わなかった。
美穂はポンに抱き付いた。
「お帰り。ポン」
美穂の顔にも煤は付いたが、すぐに綺麗になった。それは美穂の、涙によるものだった。