大きな困ったちゃん
「これはお父さんの分だから、200円にいれないでお母さん」
「はいはい。ソースカツはお父さんの分ね」
駄菓子屋の中で、美穂の母親の美恵が、苦笑いをした。美穂の駄菓子屋での予算は、200円までと決まっている。
赤羽西の夕方の事。
一軒の家から音が鳴る。
『ピーピー』
その音は繰り返され、音が漏れる。
それは美穂が駄菓子屋で買った、ドーナッツ状のラムネ菓子の音だった。
その雑な音色は、何度も繰り返された。
「みぃほ! うるさい」
美恵が最後の方は、優しい口調でいった。
不意に家のドアが、開く音がした。
「ふー」
息を出す美穂の父、敦也の帰宅であった。
「お帰りー」
襖から顔だけ出した、若奥様がいった。
「お帰りなさい。お父さん」
声だけ敦也に届き、また、
『ピーピー』
と、何が楽しいのか、音が鳴り出す。
「もう美穂! 蛇が来ても知らないからね!」
「やぁだ!」
そんな2人の、靴箱の上にある顔写真を見て、
(美穂は俺の顔に似なくて良かった)
そう思いつつ、敦也はネクタイを外し、伊達眼鏡を玄関の棚に置く。
『ピンポーン』
インターホンが鳴った。
「はーい!」
美恵がドアに駆け寄る。
「待て。俺が出る」
続けて、
「大方、苦情だろ……。 美穂と和室に行ってて」
と、敦也が少し小声でいった。
玄関で靴を履きながら、眼鏡を掛け、
「ちょっとお待ち下さい」
と、玄関に向かって、敦也がいった。
和室で母のエプロンを掴みながら、今にも泣きそうな顔で、美穂が小さな口を開いた。
「お母さん……」
「どうしたの?」
「蛇が来たの?」
美穂の目は潤み、声は低い。
美恵は腰を少し落とし、目線の高さを合わせた。
「そ、そう。怖い怖ーい蛇さんが来ちゃったみたいね」
美恵は笑いをこらえつつ、そういった。
美穂の両手を両手で掴み、軽く振りながら、
「もう笛吹くのやめようね。美穂」
そう美恵がいった。
「ワァァァン! お父さぁぁぁん!」
美穂が泣きじゃくる。
「み、みほぅ。だ、大丈夫よ。お父さん、ああ見えて強いから」
美恵が慰めるが、美穂はその手を振り払い、同室のおもちゃ箱へ走る。
「み、みほぅ……」
弱々しい母の声に聞く耳を持たず、美穂はおもちゃ箱を漁る。
すぐに美穂が、何かを手に取ったようだが、美恵の視点からでは、見えなかった。
「ワァァァン!」
泣きながら、部屋を飛び出した美穂に、
「ちょ、ちょっと! 美穂!」
と、美恵が四つん這いで追いかけ、顔だけ和室から出した。
そこには玄関に目前に迫った、凛々しい娘の後ろ姿があった。
更にその左手には、ママゴト用の、プラスチック素材の全箇所が、銀色の包丁が握られていた。
美穂は目を閉じながら、
「もう笛吹かないから、蛇さん出てって!」
大声で泣く。
「へ、蛇?」
そういって、一人の老人が周りを見回し、
「この……、俺が?」
そう続けていった。
男のナリは、緑色の帽子とニットの服に、眼鏡を掛け、紙袋を提げている。年齢は60歳くらいである。
敦也が慌てた様子で、手をばたつかせる。
「いやー。お気になさらないで下さい。えーと……。あ、あ、く……」
「悪七です」
少し若々しい老人は、返した。
「そ、そうでした。悪七さん! 向こうでお茶でも!」
敦也はリビングを、指差した。
美恵が口に手を当て、
「あ! 今、お茶切れてる」
と、野暮な事は避けたいのか、少し大きめにいった。
それを聞いた悪七が、
「あー。俺はカルピスでいいんで、お構いなく」
と、堂々と返した。
「はぁ……」
美恵と敦也は同時にいった。2人は妙な印象を、悪七から感じた。
それから若井夫妻と悪七は、リビングに移った。その場所から見える和室では、美穂がママゴトをしている。
「ハハハ。それで俺の事を蛇と」
「いやはや、娘が失礼な事を……」
頭を片手で掻きながら、敦也は軽く頭を下げた。
「いいんですよ。大黒柱がこんな一介の隠居に、ペコペコしてたらダメですよ」
そう悪七は、にやけた。
「一介だなんて、そんな事ないですよ」
敦也はすぐ返す。
そこへ透明なコップが、割り込んだ。
「こちらを……」
美穂は静かにカルピスを、悪七の前に置いた。
「カルピスだなんて、水でいいのに……」
悪七はそれらしくいう。
「いえいえ」
決して表情に出さず、美恵はそういった。
カルピスに手を伸ばし出した悪七に、
「ところで……」
と、敦也が切り出し、悪七の手が止まった。
「余り、お聞きしない苗字ですね」
「そうですかい? 山形ではゴロゴロいますよ」
悪七がいった。
悪七が話を続ける。
「ついこの前、鶴岡市から越してきたんですよ。知ってます? 『きつねめん』とか『からから煎餅』とか?」
「聞いたことないですねぇ」
「ほぅ。しかしそれは丁度いい。コイツをどうぞ」
そういいながら悪七は、紙袋から何か取り出す。
袋の音に釣られ、美穂が寄ってきた。
美穂は敦也の隣に座った。美穂の向かいに悪七がいる。
悪七の前には、丁寧に包装された黄色い箱があった。
美恵は台所で、夕飯の支度を始めていた。
「どうぞ受け取って下さい。若井さん」
笑顔で悪七がいった。
「これはご親切に」
敦也が軽く頭を下げる。
だが敦也は、目の前の悪七の、不自然な視線に気が付いた。
頭を下げた敦也の、ずっと上を見ていたからだ。
敦也は後ろを見た。壁の上の時計が4時20分を指している。
悪七が立つと同時に、
「これはやべぇ!」
と、彼の顔から笑顔が消えた。
続けて帽子を抑えながら、
「お邪魔しましたぁ!」
と、走って勢いよく出て行った。
呆然とする敦也と美恵。
数秒後、美恵は鍵を閉めに向かった。
ふと美穂が、敦也に聞いた。
「おじちゃん、カルピス飲まなかったの? お父さん?」
「ああ、そうみたいだね……。美穂が飲むかい?」
「飲むぅー!」
おいしそうに美穂が、カルピスを飲んでいる所に、美恵が戻ってきた。机の箱に目をやるなり、
「ねぇ。開けてみましょ」
と、敦也にいう。
「そうだね。開けてみよっか」
そういって敦也が、包装紙を大雑把に外した。
「ワクワクするね? お母さん」
「中身、何だろうねー? 美穂」
二人の綺麗な声を耳に入れつつ、敦也は箱を開けた。
箱の中には『からから煎餅』と書かれた袋が、2つ入っていた。
「それ煎餅って漢字だよね。私、読めるよー」
円らな瞳の美穂が、茶色い煎餅へ興味を湧かしていた。
「引越の挨拶に煎餅って変わっ……」
「洒落てるね」
「そ、そぉ?」
美恵は敦也に首を傾いた。夫婦の時化た会話に、当然興味の無い美穂が、
「あけよ、あけよぅ。早くあけよーよ」
と、敦也に急かす。
「ハハ! 悪かったね。さっ。食べてみよう」
3人は早速、一個ずつ煎餅を手に持つ。
「あ! 何か入ってるよ」
美穂が耳元で、三角の煎餅を揺らす。
「ほんとねー。何が入ってるのか楽しみねー」
「裏に小さい紙が付いてるね……」
そう美恵と敦也が、続いた。
「ほんとだ、私は赤色だよー。お母さんは?」
「あたしは緑。アナタは?」
「俺は白だなぁ」
「皆、バラバラだね」
美穂はにこやかにいった。
3人は小さくて、しかくい紙を取る。
「それじゃ食べてみましょ」
「うん!」
美穂は元気よく頷き、煎餅を上から少しかじる。美恵も続いた。
「おいしい!」
美穂の第一声はそれだった。
「コーヒーっぽい味ね。甘くておいしい」
美恵もご満悦だ。
敦也は三角の煎餅を、真ん中から手で割り、
「へぇ、おもちゃが入ってるよ。コレ……」
と、スポイトがくっついた、緑色の指輪のおもちゃが出てきた。敦也はその指輪に、穴があるのを見つけ、スポイトを押すと、穴から空気を吸い取るのを確認し、
「なるほど、指輪型の水鉄砲か……、凝ってるな……」
「あたしはキーホルダーだった」
美穂もキーホルダーだったようで『私もー』といった。
その時だ。
「テメー! この金喰い馬が!」
窓から隣家の怒鳴り声がした。
それは紛れも無く、悪七の声だった。
若井一家は、開いた窓から聞こえる声に、目を向けた。
「身搾らしい格好のこの俺から、金取るような詐欺馬はなー……」
若井一家は窓にくぎ付けである。
「馬刺しにさっさとなれってんだ! 糞が! 大体な! 牡馬のクセに俺を虜にすんじゃねー!」
大きな愚痴を聞き取った敦也が、静かに窓を閉めた。
「お母さん?」
美穂が美恵に向く。
「なあに?」
「おじちゃん。私よりうるさかったね」
「そうね。そろそろ宿題やる?」
「明日やるからいい!」
明日は日曜で授業は無い。
そこへ電話が鳴り出す。美恵がその電話を取る。
「はい。若井でございます。」
しばらく『はい』と繰り返し、
「悪七さんからあなたにだって……」
美恵が受話器を敦也に渡した。
「悪七さんから?」
敦也は電話にでた。
「どうも。お電話変わりました」
「若井さん。一杯、シンネコで飲みやしょうぜ」
「シンネコ?」
「密かにって意味の関西弁ですよ」
そう悪七は答えた。
(この人、出身は山形だよな)
と、敦也は思った。
「来てくれますよね! 馬風情にぼられてイライラしてたんですよ」
「そーでしたか……。大変でしたね。ですが、悪七さんの家が、分からないんですよ」
「それには及びません。なんてったって、隣ですからな。と、な、り。早く来てね」
「分かりました」
「オッケー。待ってますぜ」
敦也は電話を切り、
「今から悪七さん家に行ってくる」
と、クローゼットに向かう。
「まぁ明日は俺、休みだし、気にしないで先に寝てていいよ」
「うーん。おかしい」
少し訝しく美恵がいった。
「何がだい?」
「だって、うちの電話番号……、何で知ってるの? 悪七さん……」
クローゼットに手を伸ばしていた、敦也の手が止まった。
「そういえばおかしいな――」
疑問に思いつつも、敦也は眼鏡を掛ける。
「理由を付けて後で、迎えに行く?」
疲れてる夫を労い、美恵がそう聞いた。
「いや! いい」
敦也の額からは、嫌な汗が垂れる。
「じゃ。行ってくる」
美恵に向かって、敦也がいう。互いの顔は曇っている。
「お父さん。行ってらっしゃい!」
美穂が元気よくいった。
「あぁ!」
少し敦也の顔が明るくなる。そしてすぐ出て行った。
『時刻はまもなく、午後7時になる所です』
と、テレビの音がした。