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ぼくたち猫は夜行性だ。なので、昼よりも夜の方が活発になる。
『ムギちゃんが怒った日』がもうすぐ終わる頃、ぼくはリビングへと向かっていた。ハツカさんと遊ぶためだ。ちなみにぼくの寝床は、その時の気分によって変わる。大体はムギちゃんの部屋か、トイレ完備の物置き部屋だけど。今日は多分、物置き部屋で寝ることになりそうだ。さすがに、ムギちゃんの部屋には行きにくいもの。フリンだのなんだので過敏になってるみたいだし。
難しい事を考えるのは後回しにするに限る。ぼくはカーテンの裏に隠していたハツカさんを、前脚で手繰り寄せた。――おまたせハツカさん、遊ぼう。
まずは、嬉しそうに走り回っているハツカさんを追いかけることにする。ぼくが前脚でタッチすると、ハツカさんは嬉しそうに動くのだ。ふふふ、ハツカさんは本当に可愛いなあ。
そんなことを考えていたら、玄関の鍵が音をたてた。――パパさんだ。そういえば、まだ帰ってきてなかった。今日は本当に、帰ってくるのが遅かったと思う。コモダさんに会っていたのだろうか。
リビングに入ってきたパパさんは、周りを見渡して誰もいないことを確認した。それから後ろ手にそっと扉を閉めるとぼくに目をやって、
「……ただいま、ベル」
重大な隠し事をしている人みたいに、小さな声で呟いた。ぼくは擦りよって、パパさんの匂いをチェックする。――コモダさんの匂いはしない。本当に仕事が忙しかったらしい。
そういえば今日、ムギちゃんとユメちゃんが喧嘩してる最中、『パパさんだって可愛い女の子とフリンしているかもしれない』というような会話があった。
コモダさんは男の人だ。この場合でも、やっぱりムギちゃんは怒るのだろうか。
「ベルは元気だねえ」
パパさんは微笑み、ぼくの頭を数回撫でた。ちょうどかゆかった所をなでられたので、ぼくは目を細めてうっとりとする。その時、リビングのドアが再び開いた。
入ってきたのは、ムギちゃんだった。ユメちゃんからはダサいと評判の、高校生の時に使っていた紺の体操着をパジャマ替わりにしている。寝ようとしたのに眠れなかったのか、髪の毛には癖がついているうえ、若干眠そうな顔をしていた。ムギちゃんはいつも、寝るのが早いのだ。こんな時間まで起きてるなんて珍しい。
「……おかえり、お父さん」
会いたくない人に会ったというか、話したくない人に会ったみたいな顔をして、ムギちゃん。パパさんは「ただいま」と返事をすると、首を傾げた。
「珍しいね。目が覚めたのかい?」
ムギちゃんは答えない。無言のままでキッチンへ向かうと、冷蔵庫から麦茶を取り出しグラスに注いだ。パパさんはその様子を不思議そうな顔で眺め、ぼくに視線を送る。何も言えないぼくは、とりあえず首を傾げた。
「……お父さんは」
麦茶の入ったグラスを片手に、ムギちゃんは振り返った。笑っていなかった。
「どうしてお母さんと結婚したの」
それは疑問文で、けれど疑問文じゃない――どちらかと言えば責めるような口調だった。パパさんは眉をひそめて、再びぼくへと視線を向ける。ぼくはもう一度首を傾げた。
「……紡? なんでそんな」
「なんでもない、おやすみ」
パパさんの質問を無視して、ムギちゃんはグラスを持ったまま二階の自室へと戻っていく。パパさんはなんとも言えない顔で、というより実際なんとも言わないままで、その場に立ち尽くしていた。
「――おかえり、パパ。なんか食べる?」
ママさんがリビングに入ってきたのは、その後すぐだった。タイミングからして、廊下で今の話を聞いていたに違いない。パパさんは驚き、そして慌てふためいた。
無理もないだろう。猫のぼくもムギちゃんに気を取られ過ぎて、ママさんの足音に気付かなかったくらいだもの。
パパさんはそわそわと体を揺らしながら、口をパクパクと動かした。
「やしょ、夜食、やしょく? ……あ、いや、いいよ要らない」
「そう? あたしはケーキが食べたいわー。コンビニにでも買いに行こうかしら。最近のコンビニスイーツって凝ってておいしいし」
ママさんは笑い、背中からソファに落ちる。両足を天井に向けたまま、下ろそうとしない。まるで、ソファから脚が生えてるみたいだ。この前テレビの再放送で見た『なんとかこんのかの一族』に出てきた、湖から生えてる脚にも似ている。そんな妙な体勢で、ママさんは動かなくなった。
それからしばらくの間、時計の秒針だけが声を発していた。時間が止まったみたいな、凝り固まった空間。それを見守るのに疲れてきたぼくは、ハツカさんとの遊びを再開した。横向きで寝そべり、ハツカさんを口にくわえてガジガジしてみる。両前脚で抱えこみ、後ろ脚をばたつかせて愛情表現するのも忘れない。ハツカさんはかわいいのう、かわいいのう。
パパさんはそんなぼくを横目で見ながら、
「――……何かあった? 紡と」
ゆっくりとだけど、ようやく口を開いた。ぼくはとりあえず、ハツカさんを抱え込んだまま話を聞くことにする。ハツカさんは相変わらず、黙ったままだ。
ママさんは天井へ向けていた脚を折り曲げ、ソファの縁にだらりとしてみせた。元気に咲いていた花が、急に萎れてしまったみたいに。
「――なんていうか、喧嘩しちゃってね。というか、喧嘩したのは夢と紡で、あたしはただ単に嫌われただけなんだけど。あたしってば本当に、とことん紡に嫌われるわね。嫌われる才能でもあるのかしら。…………だから、パパは紡の味方でいてくれる?」
パパさんは神妙な面持ちでママさんを――ママさんの脚を、見つめる。ママさんはふうっと息を吐いた。
「子育てって難しいわね。そうやって苦労する分、楽しくもあるんだけど。……でもさすがに、娘に嫌われたくはなかったわー」
ママさんはわざとらしく声を出して笑い、まあ、と続けた。
「あたしが『娘たちに好かれる母親になりたい』と思ってる時点でおかしいのかもね。自分だって、母親の事が苦手なくせに」
「……苦手、なんだね。嫌いじゃなくて」
パパさんが苦しそうな声を出すと、ママさんは再び両足を天井へと向けた。それから「えいや」と声を出して、足を床に振り下ろす。その勢いを利用して、上半身を起こした。
ママさんは寂しそうな、悲しそうな、けれど何故か晴れやかな表情をしていた。乱れた髪をときながら、そうねえ、と遠い目をする。
「嫌いにはなれなかったのよね。なんだかんだいって、好きだったのかも。……いや違うな。好きになって欲しかったな、あたしの事」
首を傾げて笑うママさんに、パパさんは何も言わない。けれど、ゆっくりと一歩近づいた。苦しそうな顔をしたままで。
ママさんは両手を上にあげて大きく伸びをすると、あくびのような声を漏らした。
「しっかし、我が子に嫌われるって本当に悲しいものねえ。まあ、自業自得なんだけど」
なんで世の中素敵な男がこうもいっぱいいるのかしらとママさんは呟き、立ち上がった。そうして気まぐれに、ぼくの名前を呼ぶ。
「ベルおいで。あんたも素敵な男の子よ」
うむ、ママさんは分かってるじゃないか。ぼくはハツカさんを床に寝かせると、お尻を振りながら機嫌よく彼女の元へと向かった。
しかしママさんはぼくが近づくとしゃがみこみ、またもやしっぽをいじりだした。ぼくのしっぽがあまりに魅力的で、囚われてしまったのだろうか。
ママさんはしばらく無言でぼくのしっぽをいじると、徐々に近づいてきているパパさんには顔を向けないままで言い放った。
「――離婚したい時は、いつでも言って」
パパさんが息をのんで凝り固まったのが、ぼくにすら分かった。ママさんはパパさんの顔を仰ぐ。パパさんは口を歪めて、眉毛をハの字にして、――つまりは今にも泣き出しそうな、ものすごく情けない顔をしてそこに立っていた。
ママさんはパパさんの顔を見て、ふっと笑うと、ぼくのしっぽを解放して立ち上がった。
「そんな顔しないの。パパってば本当に可愛いんだから」
けれどもう、あたしは必要ないでしょ?
その声がパパさんに届いたのかどうかは分からない。
自分のしっぽがハゲていないか不安になり、忙しく毛づくろいをするぼくを見て、ママさんは笑った。
「パパ、ケーキ食べたくない? あたし、買いに行っちゃおうかな」
パパさんはきょとんとしたものの、食べるよ、と短く返事した。
「何がいい? モンブラン? あ、ママを食べちゃうぞっていう回答は無しね」
「……苺ショート」
パパさんが答えると、ママさんはあたしと同じねと笑った。それから、手を伸ばそうとするパパさんを避けるようにして、そっとリビングから出ていった。




