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ごわごわ頭の男――通称ごわごわは、しょっちゅう家にやってくる。
今日もまたユメちゃんとやってきて、二人仲良く寝室にこもっていた。やっと出てきたので帰るのかと思えば、ぼくの頭をわしわしと撫でまくる。出来る限り触らないでほしい。どうせ、明日もまた会うのに。
鬱陶しくなってきたぼくは、最近ようやく伸び始めた爪で、彼の手のひらをちょっと引っ掻いてやった。基本的にぼくは家族の人たちを引っ掻いたりしないけれど、彼ならいいかと思う。家族じゃないし。一応手加減するし。
思いっきり引っ掻かれたと思ったらしいごわごわは、すっと手を引っ込めた。
「――っと。爪伸びてるな」
「あ、ごめん。大丈夫だった?」
ミミズ腫れを覗きこむユメちゃんに彼は澄ました、そして胡散臭い笑顔を作る。
「平気だよ。でも切っちゃいたいね、ベル君の爪」
「切ってくれたら嬉しいけどね。家族みんな切れないし」
「まあ、僕が今切ったら紡さんが不審に思うだろ?」
ムギちゃんは明日、ぼくを動物病院に連れて行ってくれる。別に、ぼくが病気になってるわけじゃない。爪切りに行くのだ。
というのも、ぼくの家族はどうにもこうにも爪切りがへたくそなのだ。
以前、ぼくの爪を切ろうと、家族全員で試みたことがある。ちなみに使用したのは、人間と同じ爪切りだ。
ところが、ママさんには一度肉球を挟まれ、ユメちゃんには爪の根元にある血管を切られ、ムギちゃんには恐ろしいまでの時間をかけられ、パパさんはそれをただただ見守っているだけだった。それ以降、僕は頑として家族に爪を切らせていない。
そんなこんなで家族会議した結果、少しでも伸びると気になるからということで、月に二回も(爪切りのためだけに)動物病院に通うことになった。同じ人間が毎月二回も通うのはしんどいからと、ユメちゃんとムギちゃんが交代で連れて行ってくれている。
「――確かに、明日切りに行くはずの爪が綺麗になってたら、紡に気付かれちゃうかも」
ユメちゃんは、ごわごわが飲んでいたミルクティーのペットボトルを手に取りながら笑った。
「まあ紡は鈍感だから、爪が綺麗になってる理由には気付かないかもしれないけど」
こくこくと音をたててミルクティーを飲むユメちゃんを、ごわごわは楽しそうに見つめている。そうしている間も、ぼくの頭を撫でまくることは忘れない。さっき引っ掻いてやったのは、何の効果もなかったらしい。
鈍感。その言葉は、ユメちゃんにも当てはまってることをぼくは知っていた。
翌日。
「はーい、ベル。お爪切りに行くよー」
ムギちゃんが爽やかな笑顔と共に、護送車を持って現れた。なんだかんだで病院嫌いなぼくは、とりあえず最後の抵抗を試みる。走る、隠れる、足を突っ張って断固拒否する、仰向けになって『ぼくは動きません』アピールをする……。
それを見ていたママさんが笑った。
「ベルはキャリーバッグが嫌いねえ」
この護送車に、そんなかっこいい名前は不要だと思う。護送車は護送車なのだ。カタカナでかっこよく言ったところで、ぼくを病院に連れていく護送車なのには変わりない。
ムギちゃんはおもちゃでぼくを釣ろうとしたり、なだめすかしてみたりするが、最終的にはこう宣言する。
「もう、力尽くで入れるからね!」
この言葉はいつも、ぼくにとって死刑宣告になる。
そうしてやっぱりというかいつも通りというか、ムギちゃんは両手でひょいっとぼくを抱え、半ば乱暴に護送車に詰め込み、無慈悲に蓋を閉めるのだった。
この春に免許を取ったばかりだから――なのかは知らないけれど、ユメちゃんもムギちゃんも車の運転が上手じゃない。ユメちゃんは乱暴で、ムギちゃんはすさまじく遅いのだ。
ユメちゃんなら(急発進、急停車しながら)十五分程度で着くところを、ムギちゃんは三十分近くかける。おかげさまでムギちゃんに病院に連れていってもらう日は、緊張する時間が不必要に長い。
ただしユメちゃんの運転の場合、事故を起こすんじゃないかという意味で緊張するわけだが。
「……ベル、この日くらいちょっとは協力してよ」
信号待ちをしているムギちゃんが、ぽつりと呟く。
「私は楽しみにしてるんだから、病院に行くの」
ぼくの大嫌いな爪切りを楽しみにするなんて、性格悪いよ。――とは言わないでおく。
彼女が楽しみにしているのは、爪切りではなく他にあるからだ。
そしてそれが人間として報われないことも、ぼくはもう知っていた。
動物病院の待合室というのは、不吉なくらいに清潔だ。綺麗すぎて不気味だ。待合室に流れるオルゴールの音楽も、不安をあおぐだけだと思う。掃除の行き渡った白い壁には、迷い猫と迷い犬の捜索願、ペット保険についての案内、ダイエットフードの案内チラシなんかが貼られている。人間はそれを見て暇を潰したりしているけれど、ぼくからすれば整然と並んでいるその紙は、やっぱり不気味に見えるだけだった。
あと、犬がいっぱいいるのも落ち着かない。ぼくは犬が苦手なのだ。よく吠えるし、大きいし、人間の言うことを聞いて『俺たち賢い』ポーズをするあたりが生意気だし。
かと思えば、廊下の端にいる大きな犬、ものすごく震えているじゃないか。図体に似合わず、しっぽを身体に巻き付けて、後ろ脚をがたがたさせている。ふふふ、ざまあみろ。
「……ベル、怖くないよー」
怖がってなんかないし。ぼくの後ろ脚も震えてるとかそんなの気のせいだし。
「橘さーん、どうぞー」
「はーい」
いや今呼ばれたのもきっと気のせいだし。だからもう帰ろうよ、ねえねえ。
「爪切り、ですね」
「お願いします、先生」
護送車ごとぼくを診察台乗せたムギちゃんは、灰色の診察台を挟んでせんせーの向かいに腰掛け、照れ臭そうに笑った。
せんせー、という半袖の白衣を着てる人が、ぼくを担当しているお医者さんだ。ぼくは、せんせーの爪切りの腕だけは信用している。スムーズだし、痛くしない。
ただしぼくは、せんせーが嫌いだ。まず、張り付けたような笑顔が気持ち悪い。注射したり、きょせーなる痛い手術をしたのもせんせーだ。
けれどそれだけならきっと、これがせんせーの仕事なのだと諦められていたと思う。なのに……。
有無を言わさないようなノックの音。ぼくの思考を遮ってやってきたのは、ベテランのかんごしさんだった。
「先生、補助しましょうか?」
せんせーは相変わらずの笑顔で首を振る。
「この子は大人しいから。爪を切るくらいなら僕一人で十分です」
そうですか、と納得して出ていくかんごしさんも、鈍感って言うのだろうか。
確かに、ぼくは大人しい猫の部類に入ると思う。護送車に入るまでは抵抗するけど、病院に来てからは大人しくしている。鳴いたりしないし、護送車の中で暴れたりもしない。爪切り中に暴れたら、かえって痛い思いをするんだって気付いたし。
けれど今、せんせーが「僕一人で」と言ったのには別の訳がある。ムギちゃんと、せんせー。それ以外の人間を部屋に入れたくなかったからだ。
「……髪、少し切った?」
家にある爪切りとは形の違う、つまりは動物用の爪切りでぼくの後ろ脚を処理し始めたせんせーが呟いた。無論、ぼくにではない。
「あ……はい。本当にちょっとだけですけど。よく気付きましたね」
「普通気付くさ。好きな女の子が可愛くなってることに気付かない男がおかしいんだよ」
人間は抽象的な言い方が好きなのか、こういうのを歯が浮くって言うらしい。歯が浮くって……歯が空を飛んでるってことなのだろうか。そんなホラーと、この白々しいセリフをどうやって結びつけたのかは分からない。
猫のぼくはストレートに『何言ってんだろうこの人』って思うから。
しかしそんなホラーな言葉も、ムギちゃんには効果てきめんらしい。顔を真っ赤にして、俯いている。せんせーは爪を切る手を止めると、顔をあげた。
「会いたかった」
せんせーの気持ちなんてどうでもいいから、早くぼくの爪を切ってくれないだろうか。
「……私も、です」
しかしぼくの好きなムギちゃんがこんな風になってるのを見て、そんなことも言えまい。ぼくは空気の読める立派な猫なんだ。だから突っ込みはあくまでも、内心だけにとどめておくことにする。
「最近紡ちゃんと全然会えなくて、寂しかったんだ。……メールだけじゃ足りない」
迫真の演技で、せんせーはムギちゃんを追い詰める。素直なムギちゃんは、すぐに追い詰められる。いや、追い詰められるって表現は間違えているのかもしれない。本人がそれを望んでいるのだから。
「あの……」
ようやく顔をあげたムギちゃんは、何故か泣きそうな顔をしていた。
「今度また……うちに来てもらえますか? きっとベルも喜ぶし」
喜ばない。こんなせんせーが遊びに来ても喜ばない。
「いいの? 嬉しいな」
せんせーはさっきよりも楽しそうに顔を歪ませた。ムギちゃんが本当の笑顔だと思っているこの顔が、せんせーの作ったものでしかないことに、ぼくは気付いてる。
「久しぶりだな、紡ちゃんの家に行くの」
――嘘つけ、しょっちゅう来てるじゃないか。……ユメちゃんと一緒に。
せんせーは「なんだか照れるね」と言いながら、相変わらずごわごわした髪を掻く。
その指には、綺麗な指輪がはめられていた。




