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ユメちゃんの相手はもちろん、ママさんやパパさんが連れてくる人も指輪をしていることがある。ただし、していない場合も多い。
いわく、ママさんとパパさんが家族以外の人を好きになると『フリン』になるそうだ。
けれどユメちゃんとムギちゃんは、家族以外の人を好きになったとしても、フリンにならない場合もある。ユメちゃんたちがフリンと呼ばれる関係になるかどうかは、相手にかかっているらしい。
相手が、指輪をしているかどうか。
ユメちゃんの「ああー」とか「いいー」とかいう声を聞きながら、ぼくは大きなあくびをした。
……人間って本当にややこしい。ウワキとかフリンとかフタマタとか。猫にはそんな概念ない。フリンと呼ばれる関係が嫌なのなら、フリンという言葉もなくしてしまえばいいのに。人間っていうのは頭が良くて、その分だけ馬鹿なんじゃないかと思う。
ユメちゃんが鳴きやむ頃になると、ぼくは考え事をするのにすっかり飽きていた。お庭と繋がっている大きな窓に自分の肉球をくっつけてみたり、テレビの横にある星型の葉っぱ(かんよー植物っていうらしい)にやたらとパンチしてみたり、ソファーで爪とぎしたりして時間を潰す。
けれど結局、暑いしあまり動きたくなかったので、日陰になっている場所に寝そべった。フローリングの床は、冬は寒いものの夏は気持ちいい。ぼくはハツカさんを前脚でいじりながら、近所の子供たちが走り回る音に耳を傾けた。――子供の声は無駄にうるさくて苦手だ。甲高い声はさも楽しそうに、同じ単語を連発する。
夏休みどこ行くの? 夏休みになったら、夏休みなんだけど、夏休みが、夏休み。
……そんなに学校が嫌いなら、通わなければいいのに。
子供たちがどこかに行ったと思ったら、ユメちゃんの部屋のドアが開いた。相変わらずごわごわした髪の毛の男が、真っ先にリビングへとやってくる。なんであの人はグルーミングしないんだろう。恥ずかしくないのかな、あのごわごわ。
「……ベル君、もしかして聞いてた?」
答えてやらない。ぼくはこの人が嫌いだ。
「私たちが何してたかなんて、ベルは分かんないんじゃないの?」
ごわごわの後ろから、ユメちゃんが顔を出した。ちなみにユメちゃんも『嫌いだと文句を言いながら学校には通う』人間の一人だ。人間ってなんで、嫌なことをやろうとするんだろう。
ごわごわはユメちゃんの方を見ると、自分は賢いんだぞと言わんばかりにうんちくをたれ始めた。
「いやでもね、猫も人間の言葉が分かるんじゃないかって言われているんだよ。飼い主に嫌味を言われて家出した猫もいれば、食欲をなくした猫もいるっていうし。だからもしかしたら、僕と夢ちゃんの関係にも気付いてるかもしれない。猫は耳がいいから、二階でのやりとりも聞こえていただろうし、ね……」
「ふーん。でも大丈夫だと思う。ベルは馬鹿だから」
すごく失礼じゃないか。ママさんの水筒用スポンジ発言よりも失礼じゃないか。
言っとくけど、ぼくには人間の言葉が大体分かる。ぼくと言うより、猫のほとんどは人間の言葉を理解している。ただし、難しい言葉や概念は分からなかったり、きちんと理解できてなかったりする。そこら辺の境界はあいまいだ。
猫は、人間の話している内容を理解している。ただし、頭と口が繋がっていないのか、何をどう頑張っても「にゃあ」とか「なあ」しか話せない。ちょっと頑張っても「おあえいー(おかえりー)」とか「あうおー(マグロー)」とかその程度だ。ちなみにぼくは頑張るのが嫌いなので、「おあえい」も「あうお」も言うつもりは毛頭ない。
人間は、ぼくたち猫が『人語を理解できない動物』として考えていることが多い。ので、誰にも言えないことを猫相手に呟いてみたり、妙な赤ちゃん言葉で喋ってきたりする。恐らく、ママさんやユメちゃんの「ああー」とか「いいー」とかも、本来なら誰にも聞かれちゃいけない声なんだろう。相手がぼくだから、油断してるんだ。猫なら問題ないと高をくくってるに違いない。
「――だってさ、ベル君。酷いこと言われてるぞ」
「……ほら何も反応しないじゃない」
「きっと何か考え事してるんだよ。あーあ。僕もベル君と話せたらよかったのになあ、なんてね」
……たまに、このごわごわみたいに「動物と話せたらいいのに」とか言ってる人間を目撃する。けれどもしも、ぼくたちが話せるようになったら、人間は猫をペットにしたりしないだろう。
だから、ぼくらは今日も黙っているのだ。何も知らないふりして。「にゃあ」とか「なあ」とかでごまかして。気が向いたら「おあえい」なんて言っちゃったりして。
だってそっちの方が楽じゃないか。ご飯はもらえて、ゴロゴロしてるだけで可愛がってもらえてさ。
うんちくを垂れ終えたごわごわはリビングで麦茶を飲み、少しだけくつろぐと、
「じゃあまた。近いうちにこちらから連絡する」
きらきら光る指輪をきちんとはめて、颯爽と出ていった。
しばらく沈黙が続く。ユメちゃんは麦茶のなくなったグラスを眺めていたが、やがてぼくに目をやると、
「あーあ」
両腕を上げ、ソファに背中からダイブした。ぼくと同じ色をしたソファは、控えめに悲鳴を上げる。あと、ホコリも舞い上がった。
暇だったぼくは、そろそろとユメちゃんの元へと向かう。それに気付いたユメちゃんは、片手をぼくへと伸ばしながら呟いた。
「男ってさあ。既に『誰かのものになってる』人の方が素敵に見えるんだよねー……」
――ぼくも(去勢しているとはいえ)男なので、素敵に見える方法はぜひ伝授して頂きたい。それでその、誰かのものになってるっていうのは、結婚してるという意味で間違いないんだろうか。もしそうだとしたら、結婚なんてしない猫には関係ない話なんだけど。
ユメちゃんはぼくの耳たぶを執拗にいじりながら、大きなため息をついた。
「でもさー。いくら素敵に見えるとはいえ、結局は遊び相手としてのお付き合いじゃない? 向こうもそのつもりだろうし。家庭を捨ててこっちにくる気がない男って分かってるから、こっちも安心して遊べるんだろうけど。でもさー……」
そろそろ耳が鬱陶しくなってきたので頭を振ろうとした時、ユメちゃんがぴたりと動かなくなった。
「私、あの人の事……真面目に好きになっちゃってるかも」
……いやいやいやいや。
ぼくはユメちゃんの目を覚ましてやろうと、指を甘噛みしてみた。するとユメちゃんは、「いったー! なにすんのこの馬鹿猫!」という、あり得ないくらい失礼かつ心外な言葉を吐きだし上半身を起こした。
いやだって、考えてみてよ。もしも、万が一にもあのごわごわとユメちゃんが結婚することになっちゃったら、あのごわごわもぼくの家族になるってことだよね。それくらい、猫のぼくにでも分かる。
そして、そんなの嫌に決まってる。ぼくにあんな意地悪して、あんな痛いことしたごわごわが、ぼくの家族になるなんて。
機嫌が悪くなったぼくは、自慢のしっぽをぶんぶんと振り、『ぼくは今不機嫌です』アピールをした。それを見たユメちゃんも、不機嫌そうな顔をする。
「なによ、尻尾振っちゃって。嬉しいわけ?」
嬉しいときにしっぽを振るのは、猫じゃなくて犬だ。猫が大きく、そしてせわしなくしっぽを振ってる時は、不機嫌っていう合図なんだよ――というぼくの講釈は完全に勘違いされ、
「にゃーにゃー鳴いたって、ご飯あげないから。紡に貰いなさいよ!」
ユメちゃんは大きな足音を立て、リビングから出ていってしまった。
「…………」
切り替えの早いぼくは、さっさとユメちゃんの事を忘れると、大好きなハツカさんといちゃつき始めた。
いつもハツカさんの側にいるのは、ぼく。けれど、ハツカさんをこの家に連れてきたのはムギちゃんだった。
ハツカさんが誰のものなのかは知らないけれど、ハツカさんのことが――相手のことが好きなんだっていう気持ちだけじゃ、ダメなのかな。
ぼくはそれで十分だと思うのに。




