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僕の住んでる家――橘家の人たちは、『あいうえお』が好きらしい。特に『あ』と『い』は大好きだ。
派手な格好で出かけたママさんに引き続き、パパさんも職場へと向かい、ユメちゃんとムギちゃんは大学へ行ってしまった。暇だけど平和な時間が、ぼくに訪れる。
ということでさっそく、暇を潰すためにハツカさんとじゃれあっていると、聞いたことのない足音が二人分聞えてきた。いや、一つは知ってる。――ママさんだ。
「……誰かいるー?」
ママさんに呼ばれたので、ぼくはせっかく遊んでいたハツカさんを放り出し、玄関へと向かった。玄関にはママさんと、見たこともない男の人が立っている。二人はぼくの姿を見ると、顔を見合わせ笑った。
「誰もいない。あがってあがって」
いやいや、ぼくがいるじゃないか。
そんなぼくの言葉は届かず、見知らぬ男の人は「お邪魔します」と本当にお邪魔なことを言いながら靴を脱ぎ始めた。ぼくは「邪魔だから帰ってよ」と主張するのを諦めて、男の人の靴と背広の匂いをチェックする。……うーん、やっぱり知らない匂い。
知らない男の人とママさんがそのままリビングへと向かったので、ぼくも後に続いた。それに気付いた男の人が笑う。
「猫、飼ってるんですね。ぼくも好きなんです」
「ああ、その猫? あたしが買ってきたの、ペットショップで」
「へえ。立花さんも猫が好きなんですね、意外」
「いやあ、当時の男がペットショップで働いててね」
「はい?」
「あーいやなんでもないわ。そうそうあたし、アメショーのねずみ色が好きなのよ」
ぼくはねずみ色じゃなくて『シルバータビー』だ。シルバーだ、シルバー。大体、ねずみ色の猫なんておかしいじゃないか。……という声もやっぱり届かなかった。
「んん? どうしたのかなー?」
人間からすればにゃあにゃあ鳴いてるだけのぼくに、男の人が首を傾げる。それから、お腹が空いてるのかなー? なんて的外れなことを言いながらぼくの頭を思いっきり撫でた。
やめてよ、せっかくの毛並が台無しになる。それに、君の匂いがぼくにうつるじゃないか。
「……あ。もしかして、遊んでる最中だったのかな?」
男の人はそう言って、ぼくの大切なハツカさんを指でつまみあげた。
「ああ。その猫ね、そのおもちゃが好きなのよ。特に白色の」
「そういえば僕が昔飼っていた猫も、ねずみのおもちゃが好きだったなあ」
そのねずみさんには、ハツカさんという立派な名前がついてるんだぞ。だからちゃんとハツカさんって呼んでよ。――あ、そんなに振らないで。ほら、ハツカさんがカラカラと声をあげてるじゃないか。「へえ、振ったら音が鳴るんだ」とか納得しないで。ああ、ぼくのハツカさんが、ぼくのハツカさんが!
ハツカさんを救出しようと男の人に突進すると、彼は「そうかあ、遊んで欲しかったんだな?」などとやっぱり的外れなことを言い、「ほらほら、こっちだこっち」とか言いながら、ぼくのハツカさんを右へ左へ振りまくった。なんだこの鬱陶しい人。噛んでもいいだろうか、初めて見る人だけど噛んでもいいだろうかこの人。「ほらほら」ってうるさいし。
――と思っていたら、男の人の声がふいに途切れた。ぼくは思わず顔をあげる。ママさんが、男の人の口を自分の口で塞いでいた。……ママさんも、彼の声が鬱陶しいと思ったのだろうか。
「……ん」
塞がった口の隙間から、変な声が漏れる。彼はハツカさんをぽとりと床に落とすと、空いた両手でママさんを抱き寄せた。なんていうか、無我夢中だ。
ぼくは大急ぎでハツカさんを口にくわえ、ママさんたちから距離を置いた。とりあえず、ママさんが彼の気を引いてくれているうちに、ハツカさんを安全な場所に移動させないと。
「――お風呂、入るでしょ?」
唇をそっと離し、けれども近距離で発したママさんの言葉に、男の人は呆然としたままで「うん」と答えた。さっきまでぼくをからかっていた、あの元気はどこに飛んでいったのだろうか。
ママさんに促され、男の人はのろのろとお風呂場へ向かう。ママさんはふうっと短いため息をつくと、いまだにハツカさんをくわえているぼくに向かって微笑んだ。
「最近の男って、『ロールキャベツ』かと思いきや単なる草食系でしたー! ……ってパターンが多いのよねえ」
――そしてこの後、ママさんもお風呂場へ向かい、男の人と長いお風呂に入り、やっと出てきたかと思いきや男の人といちゃいちゃしながら(ムギちゃんが見たら発狂するような姿で)寝室へと向かい、きっちりとドアを閉め、「ああー」とか「いいー」とかいう声をあげるのだ。
ぼくの家族は本当に『あいうえお』が好きだ。特に、フリン相手を連れて来た時。お風呂に入った後、寝室で『あ』と『い』を言いまくる。
理由は、わからない。
ママさんの『あいうえお』が聞こえなくなってしばらくすると、来た時と同じ背広姿の男の人が寝室から出てきた。ぼくと目があうと、ばつの悪そうな顔をする。
「……もしかして、見てたのかい?」
見てたというか、聞いてたよ。そう返事をしてやると、彼は苦笑した。
「あはは、見られちゃったか」
「見られたらまずいの?」
彼の後ろからひょこりと顔を出したママさんの髪は若干乱れていて、けれど真っ赤な下着だけはちゃんと着ていた。
彼はママさんへと顔を向け、なんでか苦しそうな声を出した。
「だって、立花さんには家族がいるから」
「そうね」
「そうねって……」
口ごもる彼の唇を再度塞ぐママさんの動きはとても綺麗で、無駄がない。彼はしばらく黙りこんでいた――というか話したくても話せなかっただろうけど、唇を解放されると眉毛をハの字にした。
「……あなたは本当に変わってる」
「そう?」
ママさんはいたずらをした子供のように笑うと、そろそろ娘たちが帰ってくるから、と彼の背中を軽く押した。
男の人が出ていってからしばらく、ママさんはぼくと遊んでくれた。ママさんは気が向いた時しか、ぼくと遊んでくれない。猫のぼくよりも気まぐれな彼女は、遊び方だって気まぐれだ。今日は何を思ったのか、ぼくのしっぽをいじりたおしている。ああ、ぼくの自慢のしっぽが。あとでちゃんと毛づくろいしないと。
ぼくのしっぽを指に巻きつけながら、彼女は首を傾げた。
「膨らまないわねえ。……ほらベル、ちょっとビックリしてみなさいよ。ビックリした時、いつも尻尾を膨らませるじゃない? 水筒を洗うためのスポンジみたいに。あれ、面白いのに」
ママさんはうんうん唸りながら、ぼくのしっぽをいじり続ける。というか、水筒用のスポンジって。水筒を洗うスポンジって。例え方がとっても失礼じゃないか。ぼくのしっぽはもっとふさふさで、もっと綺麗で、もっとなめらかで、もっとモフモフ――
ぼくのしっぽ自慢を中断させたのは、ママさんの携帯電話だった。特徴のない電子音が部屋に響く。ママさんはぼくのしっぽを片手に握ったまま、薄っぺらい携帯を手にした。
「もしもし? なに? ……家にいるわよベルと一緒に。ああ、もしかして邪魔? ――はいはい、ママは今から出かけるわよ。晩ご飯はどうする? ああそう。はーい、じゃあね」
薄っぺらい携帯から耳を離すと、ママさんはぼくのしっぽも放した。そして、彼女としては地味な服を選び始める。ワイシャツと、黒のズボン。灰色のパーカーはムギちゃんのものだったはずだけれど、彼女はおかまいなしに、まるで自分のもののようにそれを羽織った。
「夢が帰ってくるって。あの調子だと彼氏と一緒ね。ていうか、ホテルに行くお金もないのかしら。ママ、追い出されちゃったわよ」
さきほど男の人を家に連れてきていたはずのママさんは、なんでもない風にそう呟くと、暑苦しい外へと出ていってしまった。
ママさんの予言通りというか、ユメちゃんは男の人を連れてきた。癖のあるごわごわの黒髪と、ごつごつした指。――この人の事を、ぼくはよく知ってる。彼もぼくの事を知っているので、愛想よく「ベル君、大きくなったなあ」なんて声をかけてきた。しらじらしい、っていう言葉はこういう時に使うのかもしれない。
彼は自分の家だと言わんばかりに、ユメちゃんを置いてさっさとお風呂場へ向かってしまった。テーブルに放置されている指輪は、ユメちゃんのでもママさんのでもなく、彼のものだ。
左手薬指につける指輪。人間にとってそれはとても重要な意味があるんだってことを、ぼくは知っていた。
ユメちゃんはぼくに目をやり、長いため息をつく。
「愛が欲しいわねー」
――ぼくの家族は本当に『あ』と『い』が大好きなんだな、と思った。




