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一月二日。この日もテレビは、おめでたいと言い続けていた。いや、実際おめでたいのかもしれない。テレビだけじゃなくて、近所の人たちも嬉しそうにどこかに出かけているのが窓から見えるもの。子供たちは「お年玉」なるものを抱えて、ゲームを買うとはしゃいでいるし。ついでに言うと、ちょっとうるさいし。
世間から浮いているのはむしろぼくたちの方で、家の中はいつも以上にどんよりとしていた。ユメちゃんはまだ寝ているのか部屋から出てこないし、ムギちゃんはカガさんと初詣に行くとかで朝早くから出ていってしまった。パパさんとママさんはリビングにいるけれど、パパさんは読書をしているしママさんはテレビを見ている。つまりは各々が自由にしていて、仲がよさそうだという訳ではなかった。
『おめでたい』を大量生産するマシンと化したテレビを、ソファで横になっているママさんはただただぼんやりと眺めている。
傘の上であらゆるものを転がすおじさんたちや、大きな鯛を釣る企画や、小さな子どもが生まれて初めておつかいに行くというような番組に、ただ焦点を合わせているだけ。その顔には、めでたさも楽しさも緊張感もなかった。
無言で(ブックカバーがかけられているので内容までは分からない)本を読んでいたパパさんはやがて、ぱたんと音をたてて本を閉じると、ママさんの方を見た。ママさんはパパさんの動きに気付いているのかいないのか、テレビから目を逸らそうとしない。
「……昨日、立花さんは言ったよね。僕はもう、助けてって顔をしていないって」
話しかけると、ママさんは寝転がったままでパパさんの方を向いた。向いたというか、顎を思いっきりあげて頭だけをパパさんへと向けた。
「確かに僕はもう、そんな表情をしていないかもしれない。けれど今は、立花さんがそういう顔をしている」
そういう顔は似合わないな、とパパさんは付け足した。だから今度は僕が助ける番だね、とも。
ママさんは膨れっ面をして、あたしをなんだと思ってるのと呟いた。
「そりゃ、あたしだって人間なんだから落ち込むことくらいあるわよ」
「……やっぱり、夢たちには本当の事を言った方がいいんじゃないかな。せめて、妊娠が嘘だということくらいは」
パパさんの提案に、ママさんの頬は更に膨れた。まるで、タコ焼きを詰め込んでるみたいだ。
頬に詰め込んだ空気を吐きだすように、ママさんは言い放った。
「それじゃ面白くないわ」
そんなところで面白さを求められても、という空気がリビングに流れた。
埒が明かないと思ったのか、パパさんはすぐに自分の意見を引っ込めた。基本的にパパさんはママさんに、自分の意見を押し通そうとしない。というより、ママさんが自分の意見を変えようとしないので、押し通そうとしても意味がないのだろう。パパさんはすごすごと本を開いた。
「……おはよ」
ちょうどいいタイミングでやってきたのは、ユメちゃんだった。いつも通り、髪の毛はウネウネを通り越してボサボサだ。彼女の髪の毛は何故か、朝の一定時間だけボサボサなのだ。
「ああ、おはよう夢。朝ごはん何が良い?」
「自分で用意するから、ママは寝てて」
ユメちゃんが自分でご飯を用意するとは珍しい。パパさんもそう思ったのか、やたらとユメちゃんの事をちら見している。
ユメちゃんはコーンフレークをざらざらとお皿に盛りつけ、無造作に牛乳を注いだ。何一つ計算されていない彼女の動作では、コーンフレークの栄養表示なんて何の意味もなさないだろう。ユメちゃんは無言でテーブルに着くと、健康的なのかよく分からないそれをもそもそと食べ始めた。かと思うと手を止め、
「……ママ」
「うん?」
「おめでと」
おはようの時と変わらない口調で、ぶっきらぼうに言ってみせた。パパさんは複雑な顔をしつつもキョトンとしているし、ママさんは明らかにキョトンとしている。ぼくもとりあえず、皆に合わせてぽかんとしてみる。けれどぼくは基本的にポーカーフェイスなので、ぽかんとしているかどうかなんて誰も分からないだろう。それに、すべてを知っていたぼくが、ぽかんとする理由もない。
今の「おめでと」というのは、ママさんの妊娠(嘘だけど)に対するものだろう。
けれどママさんの妊娠は、本来なら喜ばしくないもののはずだ。それなのに娘のユメちゃんがおめでとうと言った理由を、ぼくは昨日聴いていた。
「……妊娠って、本来は嬉しいものでしょ」
明らかに驚いているパパさんたちに、口を尖らせてユメちゃん。なんだか、そしてなんでか明らかに照れている。ママさんはしばらく開いていた口をパクパクと動かして、
「……夢は怒らないの?」
「ママとお腹の子が幸せにならなかったら、その時に怒るわ」
「ママの事、嫌いにはならないの?」
「何をいまさら。ママは昔からこんな感じだったじゃない」
即答するユメちゃんに、ママさんはパパさんと顔を見合わせて笑った。嫌われようとするママさんのもくろみは、ユメちゃんに対しては失敗だったらしい。
ユメちゃんはお皿を持ちあげ、牛乳のたっぷり入ったそれに口をつけた。そうして、少しでも分けてもらえないかと見つめているぼくを無視し、コーンフレークのかけらが浮かんでいる牛乳を飲み干した。ああ、一度飲んでみたいのに、コーンフレークを食べた後に残ってる牛乳。
ユメちゃんは「ごちそうさま」と叫ぶように宣言すると、勢いよく立ち上がり、
「ママとパパがどうなっても、二人は私の親だから」
誰の顔も見ず、二階へと上がっていってしまった。
リビングには沈黙が訪れた。二人とも、何を言えばいいのか分からないようだ。
「――まいったわね」
ママさんが何故か嬉しそうにそう言った時、リビングのドアが勝手に開いた。ひょこっと顔を出したのは、ムギちゃんだ。帰ってきた時間からして、初詣から直帰してきたようだ。暖かそうなベージュのジャンパーは、外の寒い空気をまとっている。
ムギちゃんはリビングに顔を出すと、パパさんとママさん、それからぼくがいる事を確認した。それから気まずそうに、ただいまと言う。そうしてそのまま自分の部屋へと――戻るのかと思えば、そろりとリビングに入ってきた。きっと、ぼくを撫でてくれるつもりなんだろう。というか撫でてほしい。さっきから首の後ろが痒かったのだ。
けれど、近づくぼくをムギちゃんは華麗にスルーした。そうして静かに、呼ぶ。
「お母さん」
ムギちゃんに呼ばれたママさんは、先ほどよりも驚いた顔でムギちゃんを見た。あなたにお母さんと呼ばれるのは予想外でした、みたいな顔だ。
ムギちゃんはジャンパーのポケットに手を突っ込むと、小さな鈴の付いた何かを取り出し、ママさんに突き出した。ママさんは寝転がったまま素直にそれを受け取ると、そこに書いてあった文字を声に出して読む。
「――あんざん、きがん」
声に出してから、こんなもの貰うのは意外でした、みたいな顔をしてママさんは顔をあげた。ムギちゃんは無愛想に、ママさんを見下ろす。
「……私は」
パパさんとママさん、それからぼくがムギちゃんに注目したせいか、ムギちゃんは一度言葉を詰まらせた。けれど決心したように顔をあげると、おめでたいを連発するテレビを見ながら、言いきった。
「私はお母さんの事、……『嫌いじゃない』よ」
――短いその文章を発言するために、彼女は一体どのくらい悩んで、どれだけの時間を使ったのだろう。
ムギちゃんはそれだけを言うと、きゅっと口を結び、今度こそリビングから出ていった。ぼくのことは、一秒も撫でてくれなかった。
先ほどよりも長く、先ほどよりも奇妙な沈黙が訪れた。てっきりムギちゃんには嫌われていると思い込んでいたママさんは、あんざんきがんと書かれた平べったいものを握りしめたまま動こうとしない。
読みもしない本を開いていたパパさんは、ママさんを見ながら笑った。
「――僕たちから嫌われるのは、相当難しいみたいだね。立花さん」
橘一家の家庭崩壊、というのも難しそうだ。パパさんが嬉しそうに笑うのを見て、ママさんは再び頬を膨らませた。あんざんきがんを振ると、ちりんと澄んだ鈴の音。
「あーあ。どうしてこんな素敵な人ばっかりなのかしら。うちの家族は」
ママさんは誰も入っていないお腹に手を当てると、ゆっくりと目を閉じた。
「……それじゃ、大切な宝物にはもう少し側にいてもらおうかな」




