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不倫家族  作者: うわの空
第三章
26/28

4

 妊娠していると打ち明けた人に「嘘だろ?」と言うのは不謹慎というか、いけない妊娠だという意味合いもあるらしい。そのせいかパパさんは、間違えていたらごめんと付け足した。けれど、ママさんが妊娠していないという事には、何故か自信があるようだった。

 ママさんはきょとんとしていた。ぼくも、顔にこそ出さないもののきょとんとしていた。奇妙な沈黙。それを破ったのは、ママさんの笑い声だった。


「――……さすがパパ。お見通しってわけね」


 ママさんの言葉に、パパさんは肩透かしを食らったようだった。「そんなことないわ、妊娠してるわよ」と言い張られ、押し問答になるものだと踏んでいたらしい。

 ママさんはしばらく笑ってから、マグカップにコーヒーの粉を入れ始めた。


「パパの言った通り、あれは嘘! 私のお腹はからっぽよ」


 お腹が空っぽ、というのはおかしい気がせんでもない。けれどパパさんは突っ込まなかった。


 ぼくは、ママさんの妊娠はなしが嘘だという事を最初から知っていた。春巻きみたいに布団にくるまっていたあの日、ママさんがぼくに言ったからだ。


『……そうねえ。実は私が、妊娠してるのを知ったら、皆どうなっちゃうのかしら。――もちろん嘘だけど』


 ママさんはいたずらを思いついた子供みたいに無邪気で、けれど悲しい笑顔を浮かべていた。



「……どうしてそんな嘘をついたんだい」


 呆れるわけでも責めるわけでもなく、少しだけ寂しそうな顔をしてパパさんは問いかけた。ママさんはコーヒーの粉を適量入れると、パパさんを振り仰ぐ。マグカップの中で、スプーンがかちゃりと音をたてた。


「どうして、か。そうねえ……」


 ママさんは悪びれる様子もなく、さらりと言ってのけた。


「皆に嫌われたかったからよ」


 パパさんは眉をひそめたまま、動かなくなってしまった。ママさんの一番の理解者であろうパパさんも、その意図をつかみ損ねたらしい。正直、ぼくもよく分からなかった。もう少し説明がほしいところだ。

 ママさんもそう思ったのか、話を続けようとした。


「……あたしの昔話、パパも知ってるでしょう」


 その言葉に、パパさんは顔を歪める。ママさんは口元だけで笑顔を作った。



 とあるところに、一人の女の子がいました。女の子は、お父さんの顔を知りません。女の子が生まれる前、お父さんはお母さんを捨てて逃げてしまったからです。お父さんに逃げられたお母さんは、自分の娘である女の子の事すら愛せなくなってしまいました。毎日毎日殴って、蹴って、お前なんかいらないと叫び続けました。


 女の子が笑っていると、何がおかしいんだと怒鳴りつけて殴ります。

 女の子が泣いていると、鬱陶しいと怒鳴りつけて蹴ります。


 やがて、女の子は感情というものをなくしてしまいました。誰かと関わる事も知らず、無表情で生きる彼女は、学校で友達を作ることすらできません。

 自分が何故、そんな思いをしてまで生きているのか。生きる必要があるのか。

 それすらも分からず、彼女は毎日を過ごしていました――



「……ここまで言ってみると、我ながら本当に面白くない人生を送ってきたもんだわ」


 半ば感心するように、ママさん。パパさんは知っていたようだけど、ぼくはそんな話知らなかった。

 殴られ、蹴られ、罵られ、独りぼっち。

 そんな世界が当たり前なのだと、女の子――ママさんは自分を納得させて生きてきた。


「いつだって下を向いて歩いてたから、パパみたいなイケメンが同じ中学にいたことすら知らなかったわよ。本当に、残念な人生を送ってたと思うわ。……中学二年の時まではね」


 ママさんとパパさんは二歳差だ。つまり、ママさんが中学二年の時には、パパさんはもう学校を卒業している。中学二年以降のママさんを、パパさんは知らない。もちろん、ユメちゃんもムギちゃんも知らないはずだ。

 誰も知らない、ママさん。

 同窓会で再会した時、ママさんの変貌っぷりに驚いたのだと以前パパさんが言っていた。それは十中八九、この間に起こった出来事のせいなんだろう。


「あたしも本当にお人形みたいだったのね。親のいいなりになって援助交際なんて始めてさあ。『あんたみたいなゴミが金を稼ぐ方法があるだけありがたいと思え』なんて言葉を鵜呑みにしちゃって。年齢の割に背が小さかったから初潮すらまだだったのに、おっさんとセックスするなんて、普通に考えたら拒否しそうなものを」


 ママさんにも、普通という概念があるらしい。さすがのパパさんも苦笑している。


「……でもさ、援助交際してる時、生まれて初めて他人ひとに言ってもらえたのね。『好きだよ』って」


 ママさんは何もない空間をぼんやりと見つめている。ぼくもその方向を確認してみたけれど、何もなかった。


「――もちろん、本心なんてどこかに落っことしてるようなペラペラの発言よ。けれど初めてそれを言われた時にね、……自分の存在が少しだけ認められたような気がした」


 頭のネジがぶっとんでたのね、とママさんは笑う。


「人を愛するのってすごいことなんだなあ、他人を認めるってことなんだなあって、子供ながらに思ってみたりしてね。間違えてると思われるかもしれないけれど、というか援助交際のセックスはそういうもんじゃないと自分でも思うけど、当時の自分はとにかくそれが嬉しかった。そうなったらもう、依存症の泥沼よね」


 人に認められたかった――愛されたかったママさんが向かった先は、ドロドロの人間関係だった。


「母親からは相変わらず嫌われてたけど……。自分も母親の事を好きになれなかったから、お互いさまよね。――愛されるだけじゃなくて、人を愛せるような人間になりたいと思ったのは高三の時だったかな。その時はもう、母親とは一緒に生活してなかった」


 既に知っているはずの話を、パパさんは真剣に聞いている。ママさんはマグカップに温めた牛乳を注ぎながら、息を吐いた。


「そこからはもう、不倫でもなんでもこいよ。援助交際みたいに、目に見える見返りなんて要らなかった。とにかく人を愛することは素晴らしいんだって、……一度でも愛してもらえれば少しでも救われるんだって、皆に教えたかった。まあつまりはエゴだけど」


 牛乳を注ぎきると、スプーンでくるくるとかき混ぜはじめる。スプーンとマグカップが当たる度に、カチャカチャと高い音が鳴った。

 パパさんは無言だった。けれど、


「でも、やがて素敵な男性とめぐり合うのでしたー」


 ママさんに指差され、照れたように頭を掻いた。


「……その素敵な男性は、憔悴しきっていた。傍から見ても見て分かるくらいにね。あたしはそれを見た時『ああ、これは昔の自分かもしれない』なんて思ったわ。だって彼は、人から否定されたような、そんな目をしてたんだもの。だから、暗い場所から引っ張り上げてやりたいなあと思ったの」


 ママさんはそう言いながら、カウンターの上にブルーのマグカップを置いた。パパさんは無言でそれを受け取り、ひとくちすする。ママさんは自分用のマグカップに入れたカフェオレを、おいしそうに飲んだ。しばらく、無言の時間が続いた。


「――自分が母親になるんだって知った時、自分は子供たちに嫌われたくないと思った」


 カフェオレを飲むのを辞めたママさんは、あたたかい息を吐きだしながら呟いた。


「けれど『不純な』恋愛を辞めるつもりもなかった。それを隠すつもりもなかった。人を愛することは悪い事じゃないっていうのが自分の信念だったから、隠す理由なんてなかったのね。隠すというのはつまり、その行為は『おかしい』とか『いけない』と思ってるからでしょう? それは悲しいなあって」


 もちろん、一番愛してるのはパパだし、夢と紡の事だって大好きよとママさんは微笑んだ。


「でもよく考えてみたら、自分は母親の事を苦手だと思ってるくせに、子供たちには好かれたいなんて虫のいい話よね。――あたしみたいに『母親』という人間に縛られてほしくもなかったし」

「……それで嘘を吐いた?」

「そう。もういっそ、娘たちには思いっきり嫌われてやろうかと思ったの。頭の片隅にも思い浮かばないくらいに。学生時代に無理矢理覚えた歴史上の人物みたいに、言われない限りは思い出せないくらいの関係がちょうどいいかなって」


 学校に行っていないぼくからすれば、何とも言えない例えだった。けれど本当に人間は、学校というものが嫌いなんだな。

 学校の事は分からないぼくにもよく分かったのは、ママさんはすごく不器用なんだという事だった。

 普通の人間なら隠そうとする事でも、彼女は貫き通そうとする。それは力強くて、けれども生きにくいだろう。

 強くて、だからこそ苦しい。そんなママさんは、けらけらと笑ってみせた。


「不倫してた事はともかく、娘に好かれようとしたのが間違いだったんだわ」


 ……やっぱり彼女にとって、フリン自体は間違いじゃないのか。ぼくはてっきり、それを後悔しているものだと思っていたのに。

 ママさんはカフェオレを勢いよく飲み干すと、子供のような笑顔で言った。


「パパと夢と紡のこと、本当に大好きよ。世界中で一番好き」


 ぼくは? という心の声が聞こえたのだろうか。ママさんは「ああ、ベルもね」とついでのように付け加えた。


「だから、皆が幸せになるのなら、あたしは嫌われちゃってもいいのよ」


 カフェオレの匂いが徐々に薄れ始めた空間で、パパさんはしばらく下を向いていた。けれどやがて、やっぱり僕は、と顔をあげた。


「君がどういうつもりでも、僕は退かないよ。離婚するつもりはないし、僕には立花さんが必要なんだ」


 その言葉を聴いたママさんはほんの一瞬、嬉しそうな、けれど泣いてしまいそうな顔をした。


「――……ありがと。けれどパパはもう、助けてって顔してないわ」


 パパさんの顔を見たママさんは口角だけを持ちあげて微笑むと、眠たくなってきたからもう寝ると宣言し、リビングから出ていった。少しだけお酒を飲んだ時のように、若干足元がふらついている。今の彼女は歩くのすら必死なのだと、ぼくにもよく分かった。


「……自分の気持ちを伝えるのは、本当に難しいね」


 一人残されたパパさんは、時間をかけてカフェオレを飲み干した。それからママさんの分もマグカップを洗い、ぼくとは目も合わせずに出て行ってしまった。



 ママさんは、――そしてパパさんも気付いていない。

 ママさんの昔話を、扉の陰でムギちゃんも聴いてたことに。



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