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お正月の正午。橘家では、フリンという言葉が飛び交うパニック状態が続いていた。
フリン相手との子供だとか、今後はその人と子供を育てていくつもりだとか。
その話の真偽だとか、ママさんがフリン好きなのは確実だとか。
ムギちゃんも半年前はフリンしてたじゃないのとか。
橘家でフリンしてないのは、ぼくくらいだとか。
お正月の平和でおめでたい空気は見事にぶち壊され、リビングに居づらくなった三人は各々の部屋へと帰って行った。その元凶であるママさんは、食べ残しにラップをかけたり自分の口の中に入れたり、生ごみに放り込んだりしながらも何かを考えているようだった。
――これから皆、どうするつもりなんだろう。家族バラバラになっちゃうのかな。
ハツカさんに訊いてみたけれど、無口な彼女(彼?)はやっぱり答えてくれない。ぼくはいつも通りハツカさんをカーテンの裏に隠すと、まずはムギちゃんの元へと向かうことにした。家族の中では一番、ショックを受けてるような気がしたからだ。
ムギちゃんの部屋を覗いたらユメちゃんの部屋に行こうと思っていたけれど、その必要はなかった。ユメちゃんは、ムギちゃんの部屋にいたからだ。
「……信じられない。何考えてるの、あの人は」
そう呟いたのは、ベッドに腰掛けたムギちゃんだった。流石のユメちゃんも今回はママさんを擁護できないらしく、扉付近で立ちつくている。自分の部屋から持ってきたらしい『しめじくんぬいぐるみ』を抱え込んだまま、口を開こうともしない。ムギちゃんはクリーム色のカーペットを見つめながら、信じられないともう一度呟いた。
「節操なく不倫してる時点でもおかしいのに、どうしてあんなにあっさりと『妊娠してる』なんて宣言できるのかな。本当に、訳が分からない」
ムギちゃんは戸惑っているというよりも、怒っているようだった。怒りを押さえつけるように、シーツを握り締めている。ユメちゃんはシーツの代わりに、ぬいぐるみを強く抱きしめた。
ユメちゃんはムギちゃんよりも、ママさんと仲が良かった。それだけにショックが大きかったのかもしれない。
「……大体、どうして避妊しなかったんだろう」
ムギちゃんは嫌悪の詰まった声で吐き捨てた。『ヒニン』というのは、ぼくの『きょせー』と同じような意味だったはずだ。野良さんは、きょせーとかヒニンとかは、飼われてる猫がするもんだって言っていた。けれどムギちゃんの言い方からして、人間はヒニンするのが普通なんだろうか。
「……根岸先生はどうだった?」
ようやく声を出したユメちゃんは、ぬいぐるみに口元を埋めていた。ムギちゃんは睨みつけるように、ユメちゃんへと視線を移す。嫌なものを思い出したような、そんな目をしていた。
「私の時は、危険日以外は避妊なんてしてなかった。紡はどうだったの」
「…………」
「子供ができたら必ず責任をとるとか上手く言われて、やらせなかった?」
さすがに同じ人間と付き合っていただけあって、相手のやり口はよく知っている。ムギちゃんの沈黙は、その通りだと認めたのと同じだ。
確かにごわごわはよく、安全とか危険とか言っていた。あれって、妊娠やヒニンと関係してたのか。
「それに、避妊してたって妊娠する可能性はあるんだから、一概にそうだとは言えないと思う。……ママが避妊してたかどうか、確認するつもりはないけど」
そのまま消えてしまいそうなユメちゃんと、若干落ち着いたというか落ち込んだような顔をしたムギちゃん。二人はぼくに構うことすら忘れ、ただただうなだれていた。
さすがに今、彼女たちに近づくのはやめておいた方がいいだろう。下手に慰めようとしたら逆効果になりそうだ。しかしこの風景を見ているだけというのも、正直面白くない。そろそろ違う部屋に行こうかと扉へと向かうと、ふわりと足が宙に浮いた。後ろを見ると、ムギちゃんがぼくの両わきを抱えている。それも泣きそうな顔で。
ここで「離せ」と暴れるても、空気を読まない猫だと思われそうだ。
「……夢は、お母さんの事を赦すの」
頭上から降ってくる声は、色んなものを責めていた。ユメちゃんはそんなムギちゃんをしばらく見つめていたけれど、やがて大きく息を吐いた。
「――赦すというかなんというか、ね。もしもママがパパと離婚しても、他の人間と結婚しても、他の人間と家庭を築いたとしても、私のママはママだけだし。毎日のように不倫してても、ママはずっとママだったもの」
紡はママの事、嫌いなの? とユメちゃんは続けた。
「最近、ママの事避けてたでしょう。そんなに大嫌いだったのなら、パパたちの離婚はむしろ大歓迎なんじゃないの?」
ムギちゃんは答えない。無言でぼくを抱きしめるだけだ。というかそろそろ身体が痛い。力を入れて抱きしめすぎだよ、ムギちゃん。
「――それとも、ママの不倫と妊娠が原因で離婚するのが恥ずかしい?」
恥ずかしい、という言葉にムギちゃんは反応した。そういえば半年前、同じような話をパパさんとしていた事がある。『旦那がバイセクシャルだから離婚するのは恥ずかしいと思われていたんじゃないか』とかなんとか。
――恥ずかしい、……恥ずかしい? ママさんのことが?
ムギちゃんの返事を待っていたユメちゃんは、しめじくんぬいぐるみに話しかけるように続けた。
「さっきは驚きすぎて言えなかったけど、私はママの妊娠におめでとうって言いたい。誰にも喜ばれない子供なんて、悲しいから」
ムギちゃんはようやくぼくを解放すると、くしゃりと音をたてて自身の前髪を掴んだ。
「……しばらく一人で考えたいから出ていって」
それは怒りを押さえるような、泣きだしそうなのを我慢しているような声だった。
ママさんの妊娠、不倫、自分たちの将来、赦すか赦さないのか。
――何を考えるつもりなの?
ユメちゃんはあえて、何も訊かなかった。
「怖い怖い。恐ろしい紡は放置して逃げようか、ベル」
ユメちゃんにそう声をかけられた時、ぼくはすでに部屋から飛び出していた。とりあえず身体が痛いので、これ以上抱きしめて欲しくないと思いながら。
元日の夜。新年早々、家族はバラバラになっていた。二十四時間前は平和だったなんて、嘘のように思う。
美味しい食べ物をもらって喜び、がっつきすぎて吐いちゃったときみたいだと思った。一気に急落したみたいな、そんな虚しさ。
深夜のリビングには、ぼくしかいなかった。今日は野良さんも遊びに来ないので、ハツカさんと遊ぶことにする。そのハツカさんも、どことなく元気がない。
――家族全員バラバラになるとしたら、ぼくは誰に付いていくんだろう。ぼくを買ってくれたのはママさんだけど、彼女は論外だと思う。パパさんはぼくのお世話をしてくれないし、ユメちゃんはママさんに似て気まぐれだ。一番面倒を見てくれるのはムギちゃんだけど、一番情緒が不安定なのも彼女。
……まさかぼくも、野良猫デビューしたりするのだろうか。
そんな事を考えていたら、リビングに誰か入ってきた。
「あー、喉渇いた」
それはこの家で一番の問題となっている張本人、ママさんだった。見た目からして暖かそうな、もこもこした生地のパジャマを着ている。ちなみに色はピンクで、ずいぶん前にユメちゃんから貰ったプレゼントらしい。
ピンク色をしたママさんはぼくの方を見やると、
「……ほんと、そのねずみが好きねえ」
なんでか呆れたように、そう言った。いやいやママさん、今はそれどころじゃないでしょ。
ママさんは、パジャマに比べれば淡いピンク色をしたマグカップを取り出すと、何を飲もうかと悩みだした。いつもは水道水を飲んでさっさと寝てしまうくせに、今日はこれからくつろぐつもりのようだ。
「ミルクティーにしようかしら。けどフレッシュがないのよねえ。そういえばレモンもないわ。でも待って、しょうが紅茶も捨てがたい」
インスタントコーヒーやら紅茶のティーバッグやらを並べながら、そんなことをぶつぶつ言っている。ついでにぼくのミルクもくれないかと催促してみたけれど、案の定何もくれなかった。
しばらくママさんの足元でうろうろしていたぼくは、忍ぶような足音を聞き付け扉へと顔を向けた。
「……あ」
リビングに足を踏み入れた瞬間、そんな声を漏らしたのはパパさんだった。ママさんは声のした方に振り返り、
「ああ」
パパさんよりも長い『あ』で返事した。パパさんはリビングから退室しようか悩んでいるのか、家政婦のドラマみたいに扉の陰から半身だけ出して動かない。それを見たママさんは笑った。
「もしかしてパパも、何か飲みに来たの? ちょうど今、あたしもなんか飲もうと思ってたところなの。パパはコーヒーがいいわよね? よし、せっかくパパの分も作るんだから、おいしいやつにしようかな。インスタントしかないけど」
ママさんはパパさんが答える前に早口でそう言い切り、インスタントコーヒーと牛乳を取り出した。カフェオレを作るつもりのようだ。パパさんの趣味にあわせているのか、自分が太ると困るからなのか、砂糖は用意していない。
パパさんはしばらく無言でママさんの後ろ姿を見ていたけれど、やがて決意したように声をかけた。
「立花さん」
「んー?」
ママさんはコンロに火をつけながら、パパさんに背中を向けたままで答えた。牛乳の配分を考えるのに、忙しいようだ。パパさんの淡いブルーのマグカップを取り出しながら、顔をあげようともしない。
パパさんは一瞬だけ悩んでから、はっきりと言った。
「前も言ったけれど……僕は君と、離婚するつもりはない」
少しだけ間を置いてから、ふ、と顔をあげるママさん。パパさんの次の言葉は質問文で、なのに何故か断言するように言いきった。
「それに……妊娠しているというのは、嘘なんだろう?」




