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秋というのは本当に早く通り過ぎる。気付けば寒くなり始め、猫のぼくにとって一番つらい季節がやってきていた。ついこの間まで夏休みだの夏祭りだのと騒いでいたはずの人間は、あっという間に分厚い服を着るようになる。本当に大変だなあ。まあぼくも、毛の抜け変わる季節は大変なんだけど。
「そういえば、どうしてベルを飼いはじめたんだっけ」
ものすごく適当にねこじゃらしを振りながら、ユメちゃん。ユメちゃんはねこじゃらしの使い方が下手くそなので面白くない。ここまで下手くそなのも珍しいと思えるくらい、ある意味天才的な振り方をする。まあ、仕方がないから遊んであげるけど。本当は、ハツカさんと遊びたいんだけど。
「お母さんがペットショップで買ってきたんでしょう」
コロコロなる道具でソファを掃除しながら、ムギちゃん。コロコロの正式名称は知らないけれど、ベタベタしたテープをコロコロと移動させることによって、ぼくの抜け毛を取るもの……らしい。ぼく的には、ユメちゃんの適当なねこじゃらしより、あのコロコロの方が遥かに魅力的だ。
「なんでママは猫を買ってきたんだろ。そこまで動物好きだった覚えないんだけど」
「…………さあ。気になるなら本人に訊けば」
今の妙な間からして、ムギちゃんはその理由を知っていたに違いない。ただ『それ』は、今のムギちゃんにとってはタブーなんだろう。だって『それ』のせいで、いまだにムギちゃんはママさんとぎくしゃくしてるんだから。
「え、ベルを買った理由? あのねえ、当時の不倫相手がペットショップで働いてたのよ」
ユメちゃんの質問に、パパさんと共用の寝室でダラダラしていたママさんはあっさりと答えた。当時そのペットショップにいたぼくは、もちろんその時の様子を知っている。ぼくのことをきちんと説明してくれた、清潔感あふれるお兄さん。あれが、当時のママさんの不倫相手だった。
「かなり年下の子だったんだけどねえ。その子がペットショップでバイトしてて、勧められたのよ。アメショーは飼いやすいですよーって。なんか他にも言われたけど何だったかな。……ああ、ねずみ色の毛と、ぐるぐるしたナルト模様が綺麗でしょうとか言ってたかな」
なんだか色々と間違えている。
「……それでつまり、その男に貢いだってこと?」
「そういうつもりはなかったんだけどね、ちょうど猫飼いたいなーって思ってたし。ママ、なんだかんだで猫好きだから。行動が自由すぎて、見てて飽きないもの」
ママさんにだけは言われたくないと、全世界の猫が思うだろう。
ユメちゃんは相変わらず適当にねこじゃらしを振りながら、興味なさそうに「ふうん」と答えた。自分で訊いておいて、飽きたらしい。けれど思いついたように、質問を付け加えた。
「どうしてベルって名前つけたの」
そういえば、ぼくの名前をつけたのはママさんだった。
ママさんは布団にくるまり、「うーん」と唸りながらもぞもぞと動いた。顔だけは布団から出しているけれど、身体は布団でぴったりとおおわれている。まるで、頭以外は春巻きの皮に包まれてるみたいだ。てっきりダラダラしているだけなのかと思っていたけれど、もしかしたら体調が悪いのかもしれない。
「ベルの誕生日が、十二月三十一日の大みそかだったから。除夜の鐘からもじって、ベルにしたの。さすがに『鐘』はどうかと思って」
そこはナイスチョイスだと思う。『かね』って、なんだかお金のことみたいで……なんだか嫌な感じがするし。
ユメちゃんは何が面白いのか、文字通りおなかを抱えて笑っている。本人というか本猫のぼくとしては笑えない。ユメちゃんは息もできないくらいに笑い転げた後、「紡にも教えてあげなきゃ」と咳込みながら呟いた。それを聞いたママさんは、一瞬だけ躊躇ってから「そうね」と答える。
「だけどあまり、あたしの話はしない方がいいかもね」
ママさんにしては珍しく自虐的で投げやりだった。ユメちゃんは先ほどまで笑っていたのも忘れたように、神妙になる。それから少しだけ首を傾げて、少しだけ眉をひそめた。
「ママ、風邪でも引いてるの?」
「引いてないわよ、どうして?」
「急に変なこと言うから」
「ママが変な事を言うのはいつもの事でしょう」
「そうだけど、変の種類が違ってたから」
ユメちゃんの言葉に、ママさんは吹きだした。けれど、楽しそうではなかった。
「最近、紡にはすっかり嫌われちゃったから、ママも拗ねてるのよ。それに、仲直りの方法が分からなくてね。……今更不倫を辞めたって、亀裂を埋められる訳でも良い母親になれる訳でもないでしょう」
埋められないでしょう? じゃなくて、埋められないでしょう。その発言は何故か定言的で、けれどユメちゃんは否定しなかった。本当に、ここまで卑屈なママさんも珍しい。
ユメちゃんはねこじゃらしを振る手を止めて、ママさんの方をじっと見つめている。その視線に気づいたママさんは、くつくつと笑った。
「なあに? ママの美貌に見とれてるの?」
その声は、いつものママさんの調子だった。ユメちゃんは安心したのか諦めたのか、それとも別の何かなのか、ふうっとため息をついた。
「そうね、ママってば本当に美人なんだから」
「言われなくても知ってますから」
ママさんは茶化すように笑うと、ちょっと昼寝するわとそっぽを向いてしまった。ユメちゃんはもう一度ため息をつくと、ママさんたちの寝室から出ていく。ぼくはユメちゃんについていこうとして、けれどなんとなくママさんの方を振り返った。
目が、あった。
「……なあに、遊んで欲しいの?」
そういうつもりでもなかったんだけど、こんなに元気のないママさんは初めて見たかもしれない。少しだけ心配になったぼくはベッドに近づくと、枕の横――空いているスペースに飛び乗った。
「なになに、一緒に寝たいの? あらやだ卑猥」
訳の分からない事を言いながら、布団の端をめくりあげるママさん。一緒に眠るつもりなんて毛頭なかったんだけれど、ぼくはいそいそと布団の中に移動した。寝室は寒いので、暖をとりたかったのだ。
布団の中はママさんのおかげで既に暖かく、ぼくはママさんに寄りそうようにして座る。足を身体の下に畳んで入れる、猫独特の座り方だ(香箱座りというらしい)。布団の中とはいえ寒いので、お腹を出す気はない。
「ベルはあったかくていいわねー。もふもふー」
ママさんはぼくの頭を数回撫でた後、背中を数十回撫で続け、かと思えば唐突に喉を撫でまくり、更にはお腹を撫でまくり始めた。つまりは撫ですぎである。
普段のぼくなら軽く猫パンチするところだけど、今日は特別我慢してあげることにした。猫にでも空気が読めるくらい、ママさんが落ち込んでいたからだ。
「……どうすればいいのかしら。ねえ、ベル」
何が、とは訊かなかった。ムギちゃんが必要以上にママさんを避けている事は、周知の事実だ。最低限の言葉しかかわさないし、恋愛なんて単語、二人の前ではご法度だった。もっとも、猫のぼくはその単語自体、発音できないんだけど。
「やっぱり色々、間違えてたのかしら」
珍しく、ママさんが後悔している。珍しくというのは失礼かもしれないけれど、彼女は普段、本当に後悔なんてしないタイプなのだ。
確かにママさんは、色々やらかしている方だと思う。うちのお母さんは近所でも有名なんだって、以前ムギちゃんが嘆いていた事もあった。そりゃあ、色んな男の人を家に連れこんでいたら、良くない噂がたつだろう。実際問題、噂じゃなくて本当の話だけれども。
――そうかもね、確かに色々とまずかったかも。そういう意味を込めて、僕は一声鳴いた。ベルの一声だ。
ただ、ぼくが思っていた『間違い』と、彼女の思っていた『間違い』は、違っていたのかもしれない。
ママさんはため息を吐くと、ぼくの頭を撫でながら爆弾発言をした。
「……そうねえ。実は私が、――――――のを知ったら、皆どうなっちゃうのかしら」
その言葉は、猫のぼくですらぎょっとするものだった。
それはまずい。そんな事を宣言したら、さすがの橘家も崩壊するかもしれない。ムギちゃんに至っては、崩壊どころじゃ済まないかもしれない。パパさんが昔割ったカップみたいに、バラバラのコナゴナになってしまいそうだ。
目を見開き、瞳孔を細めているぼくのお腹を撫でながら、ママさんはそっと息を吐いた。
「そろそろ、潮時なのかもね」




