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不倫家族  作者: うわの空
第二章
22/28

12

 動物病院で、真っ先に受付へと向かったのはユメちゃんだった。パパさんは後ろから、その様子を見守っている。パパさんは本当に、ここに来た事がないのだ。

 爪切りをお願いします、という呪いの言葉を吐くムギちゃん。爪切りという言葉がこの世からなくなってしまえばいいと心から思う。いくらごわごわが爪切り名人だからといって、ぼくの爪切り嫌いが治ったわけではない。それに、爪切りというものがなければ、ユメちゃんもムギちゃんもこんな目に遭わなかったはずだ。

 受付でのやりとりを見守っていたパパさんは、ムギちゃんの背後からすっと口を挟んだ。


「担当医を変えてもらうことはできませんか」


 その言葉にきょとんとする受付のお姉さん。まあ、そうだろう。なんだかんだでごわごわは、この院内では人気があるのだ。皆あの見かけに騙されているわけだけれど、ぼくは初めて見た時から、あのごわごわ頭が気に食わなかった。

 ムギちゃんはパパさんにちらりと目をやると、そのまま受付の人へと向き合い、断言した。


「すみません、なんでもないです。いつも通り、根岸先生でお願いします」


 今度は、パパさんがきょとんとする番だった。



「――……僕はその先生と会ったら、理性を保つ自信がないんだけどなあ。自分も人の事を言える立場じゃないけれど、相手をいたずらに傷つけるだけの不倫は大嫌いなんだ。ましてや、相手が嘘をついていたとなるとね。話を聞いてる限り、その先生はただ単に、恋愛を遊びと履き違えて楽しんでいたようだし」


 待合室のソファに座って笑うパパさんは、目がとても怖かった。こんなパパさんは滅多と見れるものではないので、凝視しておこう。

 ――殴っちゃうかもしれないよ、ははは。ボコボコにしちゃったりしてね、ははは。

 パパさん、声と目が笑ってないです。


「大体この場所自体、紡としてはもう見たくもないだろう? 何なら先に、車に戻ってくれていてもいいんだよ」


 気を遣ったのであろうパパさんの言葉に、ムギちゃんは首を振った。


「あの人に言いたい事があるの。だからちゃんと、会っておこうと思って」


 緊張しつつも真剣なムギちゃんの顔を見て、パパさんはそうか、とだけ答えた。

 太っている犬同士の食事の話だとか、いつもの散歩コースだとか、周りの人たちは平和な事を話している。ここまで空気が淀んでいるのは、ぼくたちくらいだろう。そのせいか勝手に重病猫に仕立てられたぼくは、待合室でひたすら哀れみの目を向けられた。いやぼく、風邪すら引いてないんだけど。



 ぼくたちの名前が呼ばれるのに、そう時間はかからなかった。結局ムギちゃんがぼく(の入った護送車)を抱え、その後ろをパパさんが歩く形になった。

 いつも通りの頭をしているごわごわは、ムギちゃんとパパさんを交互に見比べて、訳が分からないという言葉をそのまま顔に表した。カルテを見て、ぼくを見て、それからもう一度パパさんとムギちゃんを見る。


「ええと……。爪切り、ですよね?」


 パパさんがいる手前、なれなれしい発言はできないと思ったのだろう。自分たちの関係がバレていないと思い込んでいるごわごわは、気持ち悪い敬語と気持ち悪い笑顔で応対してきた。


「お願いします」


 ムギちゃんはぶっきらぼうにそう言うと、ぼくの入った護送車を乱暴に診察室に置いた。もう少し丁重に取り扱ってくれるとありがたいんですけど。

 診察室には、付添い人用の椅子が一つしかない。そのため、ムギちゃんがごわごわと向き合って座り、その後ろでパパさんは仁王立ちすることになった。すらっとした体型とはいえパパさんは身長が高いので、こうやって見ると迫力がある。ごわごわは明らかにパパさんの方へと神経を集中させながら、獣医師としての仕事をこなそうした。


「最近、ベル君の事で何か気になる事はあります?」


 そんな質問、滅多としないくせに。いつもはもっと、ムギちゃんを喜ばせるようなセリフを吐くくせに。そう思ったけれど声に出せないので、大人しく爪を切られておく事にする。ムギちゃんは笑った。


「……ベルは元気ですよ。ただ、とても気を遣わせていたと思います。だって、この子は全部知ってたんですよね?」


 ぼくの事を心配しているというよりも、誰かを責めるような口調だった。ごわごわはぼくの爪を切る手を止めて、顔をあげる。


「何の事ですか」

「あなたがわたしと、そして夢とも関係を持っていた事、ベルは知ってたんですよね?」


 その通り。ぼくは、すべてを知っていた。


 血の気が引く、という言葉はこういう時に使うんだろうと思う。ごわごわはいつもより白い顔で、パパさんの方を見た。パパさんは仏頂面のまま、何も言おうとしない。

 もしも相手がムギちゃん一人だったら、ごわごわは上手くごまかし丸めこんでいたかもしれない。いや、ずる賢いこの人間の事だから、ムギちゃんとユメちゃんの二人に問い詰められても、しらを切る方法まで考えていたのかもしれない。けれどさすがに、パパさんがその場にいるのは想定外だったようだ。明らかにしどろもどろで、いや、あのねを繰り返している。ムギちゃんはため息をついた。


「私、先生の事が好きでした。優しくて気が利いて、こういう人となら幸せな家庭を築けるんだろうなあって、ずっと夢見てました」


 これまで見たこともないような、何かが崩壊するのを必死にこらえた顔だった。猫のぼくにすらそう見えるんだから、人間からすればもっとすごい表情だったに違いない。ムギちゃんは声が震えないように小さく息継ぎしながら、ごわごわの目を見ていた。


「だけど先生はもう、他の人と家庭を築いていた。……それなら、その家族を幸せにしてください。何もかも中途半端な今のあなたが、家族を幸せにできる思えない。良い人を演じるだけの、――表面だけの幸せなんて、きっと誰も望んでないから」


 だから、もう。

 ムギちゃんは零れかけた涙を手の甲で乱暴に拭って、前を向いた。


「だから、私は二度と先生と会うつもりはありません」


 そう言いきった彼女は、とても強かった。



 結局、ぼくの爪切りはおざなりになり、ごわごわの割にはものすごく下手くそな切り方をされて終わった。痛い思いをしなかっただけマシだけど、不格好すぎて恥ずかしい。家に帰ったら思いっきり爪とぎしないと。

 パパさんは帰りの受け付けで今度こそ、次回からは違う先生にしてくださいと頼んだ。泣きぼくろの目立つ受付のお姉さんはやっぱりきょとんとしつつも、分かりましたと答えてくれた。

 ぼくは護送車の中で、ムギちゃんを見上げた。彼女は、受付の人とも目を合わせないよう俯いたままだ。彼女がここに来る事は、――ごわごわの元に戻る事は、もう無いんじゃないかと思う。



 車に乗り込むと、パパさんが中途半端に残したコーヒーのにおいが充満していた。それでもパパさんは窓を開けようとしない。ムギちゃんとぼくが乗りこんだのを確認すると、パパさんはエンジンをかけ、


「――よく頑張ったね」


 前方を見たまま、そう言った。


 きっと限界だったんだと思う。ムギちゃんはぼくの入った護送車を思いっきり抱え込むと、そのまま大きな声をあげて泣き始めた。距離が近いせいで、護送車の中にムギちゃんの泣き声が響き渡る。ぼく程ではないだろうけれど、同じ車内にいるパパさんにもその声は大きく聞こえているだろう。

 パパさんはムギちゃんの頭を撫でながら、偉かったねと声をかけ続けている。何も言えないぼくは見守るしかなかったけれど、今のぼくに出来る最高の方法はむしろそれなんだろうな、と思った。



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