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「誘い方がダイレクトすぎるだろう! ……と思ったよ」
パパさんはその日の事を思い出したのか、楽しそうに笑った。
「さすがにその場では断ったけれど、彼女の事がなんだか気になってね。不倫だとかを差し引いても、立花さんは何か魅力的なものを持っていた。それで、アドレス交換だけはしたんだ」
その後パパさんはしばらく、ママさんとのメールのやり取りについて話をした。どんなメールを打ったか、どんな返信がきたか……。パパさんは汚れていない眼鏡を拭きながら、少しだけ嬉しそうに笑っていた。
「それで後日、食事に行く事になって……。不倫なんてする気はなかった、と言えば嘘になるかもしれない。けれど、不倫することだけを考えていた、というのも嘘になる。好意を持った相手と食事に行くわけだから、その両方の気持ちを抱えていたというのが正しいかな……」
けれど本当は不安だったんだよ、とパパさんは笑った。
「もしも僕の秘密がバレたら、立花さんにも気持ち悪いって言われるかもしれない。騙されたって言われるかもしれない。それを恐れて、食事している最中にあえて話したんだ」
「――……なんて言ったの」
「そのままだよ。僕はバイセクシャルです。好きになった相手としかセックスできない体質ですが、相手の性別は問いません。そのことで今の妻と揉めています……ってね。バレる前に知っておいてほしかったし、後々その事で揉めるのも、もう嫌だったんだ」
眼鏡がないせいか、パパさんはいつもよりも頼りなく見えた。
「……僕も緊張していたし、固い雰囲気になっていたと思う。しかし立花さん、呆けた顔をしたかと思うと、そうなんだー、の一言しか返してこなかったんだ。拍子抜けしたよ」
――そうなんだー、ところでそのペペロンチーノって美味しい? 一口ちょうだい。
「……僕の話はペペロンチーノ以下なのか!? と思ったね。多分、不満みたいなものが僕の顔に現れてたんだと思う。立花さんは続けた」
――あ、ごめん。食べかけだけど、エビとアボカドのバジルパスタでよかったら一口どうぞ。アボカドがちょっとグニャグニャだけど、エビはプリプリでおいしいわよ。
「僕の話よりも、エビとアボカドの方が重要だったらしい。僕はその時、本当に情けない顔をしていたと思う」
今でも本当に情けない顔をしているパパさんは、ふうっとため息をついた。
「それで、思い切って訊き返してみたんだ。僕の事を変だって思わないのかって。なんていうか、彼女はパスタの話をすることで、僕の話を受け流そうとしてるんじゃないかって思ってね。本当は気持ち悪いと思ってるけど、それを隠そうとしてるのかもしれない……なんてさ」
ムギちゃんは訊きにくそうに、それでも声にして尋ねた。
「……お母さんはなんて答えた?」
「なんで変だと思う必要があるの? だった」
パパさんはその日の事を思い出したようだ。遠くに視線をやったまま、笑みを漏らした。
「――そう訊き返されて、閉口したよ。彼女は、僕の事を気持ち悪いとも思っていなかったし、それどころか『おかしい』とすら思っていなかったんだ。だから純粋に受け流して、パスタの話をしていた。すべては僕の杞憂で、立花さんからすれば『それだけ』だった」
パパさんはようやく納得したのか、眼鏡をかけ直した。久しぶりに見るような、懐かしい感じのする顔だった。
「立花さんの言い分はこうだった。――性別関係なく好きになれるって、あたしはすごくいいことだと思うんだけど。だって、相手を『異性』としてじゃなく『人間』として好きになってるってことでしょ? それって、すごく素敵な事だと思うな。それに、好きな人じゃないとセックスできないとまで言ったじゃない? つまり、穴のある人間なら誰でもいいってわけでもないんだ。そういうの、すごくいいと思うしあたしは好きだなあ。……でもその事で今、奥さんと揉めてるんだっけ? だとしたらあたし、あなたの奥さんとはお友達になれないかもね……」
パパさんはムギちゃんの方をちらりと見やって、言いたいことは分かるよと言わんばかりに頷いた。
「……そういう見方をするのか、と思ったね。初めて聞く意見だったから、目からペペロンチーノでも噴き出るんじゃないかと思った。それと同時に、――もっと早く彼女と出会いたかった、とも」
自分の発した言葉が恥ずかしかったのか、パパさんは俯いてしまった。
「……僕の家庭はもともと崩壊していたから、彼女と不倫する事で壊れるものなんてもう何もなかった。むしろ、奥さんとしては喜ばしかったと思うよ、離婚する理由ができたんだから。『旦那がゲイだったから』よりも『旦那が不倫したから』の方が、世間では受け入れられるからね、変な話だけど」
パパさんはふにゃりと笑う。ムギちゃんはしばらく考えて、
「――前の奥さんとは、いつ別れたの」
「立花さんとパスタを食べてから、四ヶ月くらい後だったかな。その時にはもう、立花さんと僕はそういう関係を持っていた。それで、向こうから離婚を切り出されたんだ。請求されただけの慰謝料を払って、謝れるだけ謝っておいたけれど、話しかけないで気持ち悪いとまで言われたよ。あの時の『気持ち悪い』が、不倫に対するものだったのか、それとも僕の体質に対するのものだったのかはもう分からない」
いつになったら動物病院に連れていってくれるんだろう、と思いつつ、ぼくはその話を無言で聞き続けていた。ムギちゃんはたまに口を挟む程度で、ほとんど何も話さない。何を考えているのかは分からないけれど、パパさんの話に感動しているわけでもなさそうだった。けれど、軽蔑しているという訳でもない。懸命に考えて、必死に受け止めている。
「――離婚してから、その事を立花さんに報告して、僕と結婚して下さいって頭を下げた。正直、断られるのを前提にしたプロポーズだったし、即答してもらえるとも思っていなかったけどね。彼女はやっぱりというか考え込んで、かと思うと深刻な顔をしてこう言った。あなたと結婚したらあたしは『たちばなタチバナ』になっちゃうわねえって」
――橘立花。それが、今のママさんの名前だ。
「立花さんにとって、不安なのはそれだけだったらしい。あっという間にオーケーサインをくれたんだけれど、その時二人で取りきめたことがあった」
「……それ何」
ムギちゃんが質問すると、パパさんはふっとムギちゃんの方を向いた。お日さまのせいで眼鏡が光っていて、けれどとても綺麗な目をしているのが分かった。
「お互いに介入しない、恋愛は自由に。それが、結婚する際に決めた、僕たち二人の約束だった。――そもそも彼女は、固定できるタイプの人間じゃない。これは分かるよね?」
それは、猫のぼくにでも良く分かる。ママさんは基本的に、自由だ。
「僕は僕で、束縛されるのが大の苦手だったんだ。異性と付き合うのが普通だとか、同性と付き合うのはおかしいから辞めろだとか、そういうものに縛られて生きるのが昔から大嫌いだった。だから、自由度の高い立花さんに憧れたのかもしれない。立花さんが僕と結婚した後に不倫しても、納得できる自信さえあった。――彼女の事を嫌いになる事はないという自信もね。……彼女から不倫という文字が無くなったとしても、彼女の魅力がなくなる訳ではないことを知っていた。だから結婚を申し込んだんだ」
奥さんの不倫を認める自信っていうのもどうかと思うけど、とパパさんは苦笑した。ムギちゃんは笑えないようだ。
「……なんだかんだいって、僕は立花さんのように堂々と不倫したりは出来なかった。不倫する、けれど隠そうともする。――結局僕も、束縛は嫌いだと言っておきながら、不完全な倫理の上を歩き続けているにすぎなかったんだろうなあ」
自分の意見を貫き通すっていうのは本当に難しいね、とパパさんは言った。なのに立花さんは、いまだに自分を貫き通す。だから……それでも、僕は彼女の事が好きなんだ。
しばらく、二人は何も言わなかった。ムギちゃんはすっかりぬるくなったミルクティーを見つめているし、パパさんはもうほとんど中身のないであろうコーヒーをちびちびと飲んでいる。本当に、いつになったら出発するんだろう。
「……どうしてそんな話、私にしたの?」
苦しそうな声で、ムギちゃん。確かに、今ここでパパさんの趣味を暴露したのはおかしかったのかもしれない。パパさんはそうだなあと笑った。
「最近、お母さんとあんまり仲良くなさそうだからね。少し寂しかったんだ。それから、訊かれた事にはちゃんと答えておこうと思ってね」
パパさんらしい、至極真面目な回答だった。ムギちゃんは喉に何かがつっかえたのか、何か言おうとしながらも黙りこんだ。パパさんは微笑むと、そろそろ行こうと車のエンジンをかけた。低いうなり声をあげて、鉄の塊は反応する。パパさんがアクセルを踏むと何故か、何かから解放されたような気がした。




