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ユメちゃんとムギちゃんが、ごわごわのフタマタという衝撃の事実を知ってから二週間後の土曜日。
ぼくとムギちゃんは綺麗な青空を見ながら、パパさんの運転する車に乗り込んだ。というか、乗せられた。更に言うと、ぼくは護送車の中に入れられている。
助手席に座っているムギちゃんは、ぼくの入っている護送車を膝に乗せた。パパさんはムギちゃんがシートベルトをしているのを確認してから、ゆっくりと車を発進させる。基本的にパパさんは安全運転で、けれどムギちゃんのように安全すぎて恐ろしい運転という訳でもない。ただ少し、方向音痴がすぎるだけで。
道中、とても静かだった。むしろ静かすぎて不気味なくらいだ。パパさんは運転中に音楽を聞くタイプでもないので、車内にはエンジン音くらいしか響いていない。ついこの間まで混雑していた道路も、夏休みが終わった途端その騒がしさを忘れてしまったようだ。夏休み中にはしゃぎすぎて、風邪をひいてしまったみたいに。
「……ごめん、ちょっと寄り道してもいいかな」
パパさんは急にそう言うと、近くにあったコンビニエンスストアに滑り込んだ。緑と青の混ざった看板を見つめながら、ムギちゃんは不思議そうに首を傾げる。
「何か買うの?」
「久しぶりに運転したら、緊張したのか喉が渇いてね。紡の分も買ってくるよ、何が良い?」
「……じゃ、ミルクティー」
「わかった」
パパさんは財布だけを手に、車から降りていった。ムギちゃんは何かを考えているようで、空を飛んでいる大きな鉄の塊を眺めている。鳥に似たそれは、悠々と空を横切っていった。
「――お待たせ」
戻ってきたパパさんの手には、ペットボトル入りのミルクティーと、缶コーヒーが握られていた。缶コーヒーには渋いおじさんの絵と『深い味わい、深いコク』という文字が大きく書かれている。深い味、ってどういう味なんだろう。そして、ぼくの分は買ってきてくれていなかった。ささみジュースとかなかったのか。
「ここで少し休憩してもいいかな。やっぱり運転は疲れるね」
パパさんは小気味のいい音をたてて缶を開けると、おいしそうに一口飲んだ。それから一瞬何かをためらい、ムギちゃんの方を見る。ムギちゃんはペットボトルの封を開けているところだった。
「……以前」
パパさんがふいに声を出したので、ムギちゃんは手を止めパパさんの方を見た。パパさんは少し委縮したけれど、何かを決意したように背筋を伸ばした。
「以前、なんでお母さんと結婚したの、と訊いてきた事があったね」
今ここで、そんな話題が出るなんて思ってもみなかったんだろう。急にハツカさんを取り上げられたぼくみたいな顔で、ムギちゃんは固まった。パパさんははもう一口コーヒーを飲んでから、話を続ける。
「その前に、僕がバツイチだという事を話しておくべきかな」
ムギちゃんは更に動かなくなった。呼吸すら止まってるんじゃないかと思う。実は、ぼくはこの話を知っていた。前にママさんたちが話しているのを、聞いた事があるから。
「僕はお母さん――立花さんと結婚する前、違う女性と結婚していた。その人との間に子供はいなかったし、結婚生活もさして上手くいっていなかった。そこで立花さんと出会い、不倫に陥り、前の妻とは別れたんだ。つまり、僕たち夫婦も不倫から始まった関係なんだよ。――あ、一応言っておくけれど、立花さんの方は初婚だった。元々は結婚願望もない女性だったからね」
そこまで言うと、パパさんは大きく息を吐いた。本当はこれ以上は言いたくない、という空気が漂っている。けれどもう、この話を中断する気はないようだった。
「どうして、前の奥さんと上手くいかなかったのか。それは僕が、とあることを秘密にして結婚したからなんだ」
「……それ、何」
「僕はね。女性だけでなく、男性も愛せる。――――バイセクシャルなんだよ」
瞬間、この世界の時間が止まったかと思った。パパさんとムギちゃんの心臓も止まったような気もした。バイセクシャル、なるものが人間にとってどれくらい大切で重要なのか、ぼくには分かりかねる。けれど今の空気から察するに、二人にしてみればものすごく大切な話であるようだ。
「断っておくけれど、相手は誰でもいいという訳ではないんだ。恋愛感情を抱いている相手でないと僕は、なんていうか……エッチな事ができない体質でね。だから、性欲を満たすためだけに、誰かに手をつけるなんてことは絶対にしない。けれど、好きになる相手の性別は関係ないんだ」
パパさんは前方を向いたまま、ムギちゃんの顔を見ようともしない。ムギちゃんはムギちゃんで俯いていて、パパさんと目を合わせようとしなかった。気まずいと言ってしまえばそれまでの、退室は許されない空間。そこで、二人とぼくは同じ空気を吸っていた。
「昔、……立花さんや前の奥さんよりも、更に前のこと。僕はとある男性とお付き合いしていた。結局は別れたわけだけど、別れた後も仲が良くてね。もちろん、恋人やセックスフレンドとしてではなく、単なる男友達としてだよ。けれど、前の奥さんはそれを許してくれなかった」
よくあるパターンだけれど、ある日勝手に携帯をチェックされてね、とパパさんは情けなさそうに笑った。
「それまで、自分がバイだという事は相手に……世間に隠して生きてきたんだ。けれどある時突然バレて、人間じゃないものでも見ているような目で『騙された』なんて言われてね。あの日の事は忘れられないだろうなあ。『気持ち悪い』なんて言われたのは、あれが初めてだったからね」
いつまでも握っていたコーヒーの缶を、パパさんはホルダーに立てた。中身はまだ、半分以上残っている。本当は喉なんて渇いてなかったんじゃなかろうか。だとしたら、どうしてわざわざコーヒーを買いに行ったりしたんだろう。
パパさんはどこからともなく眼鏡ふきを取り出すと、ちっとも汚れていないように見える眼鏡を拭き始めた。
「――それでも前の奥さんは、しばらく僕に耐えているようだった。もともと働くのが嫌いで専業主婦になりたがってた様な人だったし、旦那がバイだから離婚したという事実は恥ずかしいと思っていたのかもしれない。いずれにせよ、お互い我慢するような生活が続いた。そんな折、中学の同窓会で立花さんに再会したんだ」
「……同窓会? 同い年でもないのに?」
「同窓会というのは語弊があったね。僕たちが通っていた中学が閉鎖されることになって、最後の集会として呼ばれたんだ。そこで、二歳年下だった彼女と再会した。――彼女の事はよく覚えてたよ。僕が中三の時、『新入生に可愛い奴がいるぞ』って話題にまでなった人だったし」
眼鏡をかけていないパパさんは、いつもと違う顔で笑った。
「大人になって再会して、なんて言うか……びっくりしてね。昔とは比べ物にならないくらいに変貌していたから」
「変貌? お母さんが?」
「立花さんは中学生の頃、それはもう大人しい子供だったんだよ。地味で、目立たなくて、学校では一言も喋らないような。そういうミステリアスなところが一部の男子には受けていたようだけれど、大半の奴は面白くないと言っていた。見た目で選ぶなら絶対にあいつだけど、ずっと一緒にいたらキノコが生えそうだ……なんてことを言う最低な男子までいたくらいに」
あいつのことは殴っておけばよかったな、とパパさんは悔しそうに呟いた。
「……学生時代、立花さんが笑ってるところなんて見た覚えがなかった。それが同窓会の時は、ちょっとしたことでも楽しそうに笑って、自発的に動いて、積極的に他人に話しかけていた。それが不思議というか魅力的で、僕も話しかけてみることにしたんだ。学生時代とは随分、性格が変わったようだねって。……あからさまに『誰?』って顔されたよ。けれど真っ直ぐに僕の瞳をじっと見つめて、かと思えば僕の左手に目をやった。――左手の指輪にね」
――へえ、若いのにもう結婚してるんだ。奥さん、どんな人?
「ちょうどその時は上手くいってない時だったから、あの質問にはどきっとした。昔は仲が良かったけど、最近はあまり……って言葉を濁らせて終わろうとしたんだ。そうしたら彼女、綺麗な顔で笑ったかと思うとこんな事を言うんだよ。平然とね」
――そうなんだ。じゃあ、私と不倫でもする?




