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ごわごわのせいで色々あってから、ムギちゃんはずっと無口だ。ユメちゃんも割と無口なんだけれど、ムギちゃんのそれはなんていうか種類が違う。自分がフリンしていたという事実がよっぽどショックだったのか、八つ当たりみたいにママさんに冷たい。無口を通り越して、目を合わせようともしないのだ。まあ、あんな事があってからも平然とフリンを続けてるママさんもママさんなんだけれど。
とはいえ、ママさんは基本的に、ムギちゃんたちのいない時間帯にしか男の人と会わない。現に、ムギちゃんたちが夏休みに入ってからはパパさん以外の男の人と会う回数は極端に減っている。そのせいで余計に、ムギちゃんとの溝が目立つようになっているけれども。
ぼくが人間だったら、こうアドバイスするだろう。
また、オムライスを作ってケチャップで文字を書けば仲直りできるかもね。
しかし人間というのは、そうも簡単に仲直りできるものじゃないらしかった。
ムギちゃんはあれ以来、ごわごわとは一切連絡を取っていない。縁を切ったようにも見えるけれど、逆に言うとずるずると関係を続けているようにも見える沈黙。彼女はユメちゃんのように、あっさりと決断できるタイプではないのだ。
ごわごわと連絡しなくなったムギちゃんは、カガさんと頻繁にメールしたり電話したりするようになっていた。今日も自分の部屋で、ひそひそと電話している。そんなひそひそタイムにも関わらず、ぼくは堂々とムギちゃんの部屋に入り込み、ムギちゃんのベッドの上で入念に毛づくろいをしていた。足の指先まで丹念に舐めることを忘れてはならない。猫はつま先までモフモフでなければ、猫でないのだ。
『――んで、まだ仲直りしてないわけ?』
部屋が静かなせいで、カガさんの声はぼくにもはっきりと聞こえる。ムギちゃんは携帯を握りしめ、困ったように笑った。
「一度はしたんですよ、でも……」
『でも?』
「――えっと」
自分もフリンしてました、とは言いにくいらしい。ムギちゃんは足の指をむずむずと動かしながら、黙り込んでしまった。
カガさんはしばらくムギちゃんの返事を待っていたけれど、そのうち諦めたのか、呆れたように笑った。
『橘、俺と一緒にバイトでもしてみるか』
「え?」
『してないんだろ、バイトとかさ』
「してませんけど……」
唐突に仕事の話を振られ、ムギちゃんはしどろもどろで答える。足の指はむずむずと動かしたままだ。よく見ると、指の関節を蚊に噛まれている。これはかゆい。
ムギちゃんの足の指など知る由もないカガさんは、仕事の話を続けた。
『バイトとかして、親御さんと距離をとってみるのもいいかもよ。自分が仕事に行ってる間、親が何をしてても気にならなくなるかもしれないし』
カガさんの言葉に、ムギちゃんは難しい顔をした。
「……加賀先輩。もしも自分の親が不倫してたら、辞めさせようとは思いませんか」
『そりゃ思うね』
即答。
「……それじゃどうして今、私の母の不倫については二の次で、私がバイトをする事について話を進めてるんですか?」
『だって話を聴いてる限りじゃ、橘んところの不倫は止められない気がするから』
これまた即答だった。ムギちゃんは苦笑するしかない。
『家族の行動を変えられないなら、家族のことを嫌いにならない程度に距離を置くのがベストかと思う。あくまで俺の見解ね。――だって、家族で仲悪いのって悲しいじゃん』
カガさんの意見に沈黙するムギちゃん。家族の中が悪いと悲しいというのは、ぼくも同じだ。というか、面白くない。最近、遊んでもらえる時間が減ったし、皆そんな余裕もなさそうだし。ぼくは誰とも喧嘩していないのに、誰からも構ってもらえなくなっているという点では、家族一の被害猫だと思う。
枕に頭を乗せ、ごろんと横たわったぼくの頭を数回撫でると、ムギちゃんはそうですね、と返した。
『まあ、なんだったら俺が働いてる店紹介するしさ。店は小さいし人間のスタッフは少ないから、不倫だのなんだのもあまりないと思うぞ。その代わり、猫耳という誘惑は多いが』
「……加賀先輩は本当に、そのお仕事が好きなんですね。お仕事っていうか……猫耳?」
『まあね、好きじゃないとやっていけないだろうな』
加賀さんは豪快に笑うと、そろそろ休憩時間が終わるからまた今度、と電話を切りかけた。けれどふいに、あのさ、と切り出した。今まで忘れていたというよりは、いつ言おうかと思っていたようだ。
『橘。今度、食事でも行かない?』
「えっ」
ムギちゃんは予想外だったのか、ごわごわで頭がいっぱいだったのか、そういう方向に頭を切り替えられなかったのか、しばらく沈黙した後ぺこぺこと頭を下げた。
「あ……よ、よろしくお願いします先輩!」
『なんでそんな体育会系みたいな回答なんだよ』
カガさんは受話器の向こうで嬉しそうに笑うと、今度こそ電話を切った。
ムギちゃんは携帯を半ば放り投げるようにして机に置くと、ぼくの隣にどさりと倒れ込んだ。しっぽを巻きこまれそうになったぼくは、さっと身体に巻きつけることでそれを回避する。皆、ぼくのしっぽを何だと思ってるんだ。
「……バイト、かあ」
本当に考えてるのはそれじゃなくて、そのバイト先にいる、――さっきまで話していた人間の事なんだと思う。食事に行くとか言ってたし。多分、二人でどんなごちそうを食べようか悩んでるに違いない、ぼくを差し置いて。まったくもってズルいじゃないか。二人とも、カリカリを食べればいいのに。
ぼくはツヤツヤになった毛を皆に見せびらかそうと、ムギちゃんの部屋から出た。いつも通り慎重に階段を下りて、リビングへと向かう。――いたいた、ママさん。
ママさんはソファを占拠し、一心不乱にポテトチップスを食べていた。ちなみに食べているのは『のりしお』なるもので、彼女はそれが一番好きだ。更に余談だけれど、ムギちゃんは『うすしお』、ユメちゃんは『コンソメパンチ』を好む。パパさんが食べてるところは見た事がない。パパさんはポテチではなく、チーズクラッカーにトマトやら白いチーズやらを載せて食べている事が多い。
「んん? なあにベル、物欲しそうな顔して」
そんな顔した覚えはないんだけれど、ママさんはぼくの顔を見てくすくすと笑った。かと思えば何を考えた」のか、油でギトギトになった指でポテチを掴み、ぼくに差し出す。
「しょうがないわね。あーん」
……ぼくは、生クリームは大好きだけれどポテチには興味がない。ということで軽く無視することにした。かつ、ママさんから一歩距離を置く。今その指でぼくのことを撫でたりしないでほしい。ツヤツヤの毛並みがベタベタになってしまうじゃないか。
「……ううむ。猫にはこの味の良さが分からないのか。やっぱり猫も肉食系なのねえ。ってことは、バーベキュー味とかなら食べるのかしら」
よく分からない事を呟きつつ、ママさんは大口を開け、くずくずのポテチを放り込んだ。本当に一心不乱だ。ポテトチップスを楽しんでいるというよりも、単に気を紛らわせようとしているようにも見える。ぼりぼりと音をたてて噛み砕きながら、ママさんはぼんやりとテレビの横に鎮座している星型の葉っぱを眺めていた。
「――お母さん?」
話しかけられたことに驚いたのか、パパさんが帰ってきていた事に驚いたのか、ママさんの肩がびくりと震える。ママさんがポテトチップスを完食してから、五分が経過していた。パパさんはいつも通り「ただいま」と言いながらリビングに入ってきたのだが、ママさんは気付いていなかったらしい。その頃にはママさんを観察するのに飽きていたぼくは、ハツカさんと仲睦まじく遊んでいた。
「……あれパパ、いつの間に忍び込んできてたの」
「そんな、忍者みたいに帰宅した覚えはないんだけどね」
パパさんは苦笑しながら、紙束のたくさん入った鞄をどさりと床に置いた。ママさんは立ち上がり、何か食べる? と声をかける。パパさんは放置されているポテトチップスの残骸を見ながら、僕もポテチを食べようかなあと答えた。
「あ、家にあったポテチはついさっき、あたしが全部食べたから」
残念すぎる回答に、パパさんはうなだれるしかない。結局、いつも通りクラッカーを食べる羽目になった。
「……紡はどうしてる?」
クラッカーにチーズを塗りながら、パパさん。ママさんは珍しく難しい顔をして、首を振る。テレビドラマの手術後に見かける、残念ながら……の場面そっくりだった。
「二階から降りてこないし、あたしと一緒にご飯を食べようともしないし、それどころか目を合わせようともしないわ。この前の事がショックだったのねえ。あと、あたしは本格的に嫌われちゃったみたい」
一見すると何でもない風のママさん。けれどその表情を見たパパさんは、自身の顔を曇らせ「そうか」とだけ答えた。
――家族で仲が悪いのって悲しい。そう思っているのは、カガさんだけじゃなさそうだった。




