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ママさんは威張るような体勢で続けた。
「なんなら、ママが今日観てきた映画の話でも聞く? パンフレットまで買ってきたんだから」
いやいやいやいや。
映画館で貰ったらしい黒いビニール袋をがさがさと漁っているママさん。見かねたというか呆れたというか、何と言えばいいのかすら分からないような顔をしたムギちゃんが声を出した。
「えっと、お母さん。私たち今、重要な話してるのね……」
「あんた達の好きな相手がどうのこうので、不倫しててうんたらだから、好きになった方が馬鹿だったんだー……とかいうどうでもいい話のこと? そんなことより、ママの映画の方が面白いから」
ママさんは、どうしても映画の話をしたいらしい。
「いやあのママ。今私たちは、面白さを追求してるわけじゃないのね」
「じゃあ、夢たちは何の話がしたいの。ママは映画の話がしたいわ」
どれだけ面白かったんだろうその映画。ハツカさん並みに可愛いねずみでも出てくるんだろうか。あるいは、すごくおいしいささみの話とか?
あれこれ想像するぼくをよそに、明らかに呆れた顔をしたユメちゃんは、そりゃあねと笑った。
「ママは不倫なんてもの、とっくの昔に慣れちゃってるんだろうけど。でも、双子の姉妹で二股かけられてた時の気持ちなんて分かんないでしょ?」
「そりゃ、分からないわよ。ママは一人っ子だし」
ママさんは両手をあげて、やれやれのポーズをした。
「分からないけど、二股だのなんだので、その人の全てを否定してしまうのはくだらないし、勿体ないと思うわねえ」
本日何度目かの『くだらない』という言葉。ユメちゃんとムギちゃんは、二人で示し合わせたみたいに同じ顔をしている。パパさんは、扉の陰から出てくるつもりはないらしい。
ママさんはパンフレットの入ったビニール袋を腕にぶら下げたままで、話を続けた。
「何があったのか詳しくは知らないけれど、一度好きになった相手なんでしょう? ――人を好きになるというのはね、素敵な事だと思うのよ。好きになるということはつまり、他人を認めるってことでしょう。それはすごく大切で、しかも難しい事だと思うのね。……皆当たり前みたいにやってるけれど、昔のママにはすごく難しかった」
パパさんが一瞬だけ、身じろぎしたのが分かった。
「なのに何かあっただけでその人の全てを、――その人を好きになっていた自分の事まで否定するっていうのは、とっても悲しいし勿体ないわ。その人の素敵な部分が無くなったわけでも、自分の素敵な部分が無くなったわけでもないのにね」
ママさんにしては、熱心に話していると思う。いや、『ママさんにしては』なんて言うのもはばかられるくらい、彼女はいつになく真剣だった。
「もう二度とその人の事を愛せないのだとしても、素敵な部分だけは忘れなくてもいいんじゃない? 全てを否定しようとしたら、過去の一切が認められないものになるじゃない。いつか、自分の存在すら否定してしまいそうな――――そんなことを繰り返して、夢たちは楽しい? ママはくだらないし、悲しい事だと思うなあ」
誰も反応しなかった。ぼくも鳴かなかった。テレビもついていない空間は、人口密度が高い割に静まり返っている。夜中、トイレに行きたくて起きてしまった時を思い出した。家の中には家族がいるはずなのに誰の音も聞こえない、あの時の雰囲気に似ているんだ。今のこの状況は。
ママさんはこれで話が終わったと思ったのか、思いっきり前歯を見せるようにして笑った。
「さて、ママの観てきた映画の話をしていいかしら」
「ちょっと待ってよママ、まだ終わってないから」
「えええ、これ以上何を話すって言うの」
心底落胆したようなママさんの声は、さきほどの真剣さなんてこれっぽちも帯びていなかった。ユメちゃんはムギちゃんへと向き合う。その顔はもう怒っていなかったけれど、深刻そうだった。
「紡がどうするかは、紡に任せる。けれど私はもう、根岸先生とは別れるわ。これ以上付き合えないって今日中にメールするつもり。動物病院にも、もう行かない」
「ええ、メールするの? 直接会ったらどうよ」
「会ったらまた、上手く丸めこまれそうじゃない。それだけは勘弁してほしいし、次に会った時には顔面殴っちゃいそうだもの」
口を挟んだママさんに、ユメちゃんは笑った。
「……あの人は確かに優しかった。それが造り物でもね、楽しい時間を過ごせたわよ。だからもう十分」
ママさんは納得したのかしてないのか、ふうん、とだけ答えた。というか、ビニール袋から取り出した映画のパンフレットを読むことに夢中になっている。もう、この話題には飽きたらしい。
決意しているユメちゃんとは対照的に、ムギちゃんは未だに悩んでいるようだ。
「……けど、私たちが先生に会いたくないからなんて言ったら、誰がベルを病院に連れていってくれるの? ここら辺に、他の動物病院なんてないし」
「あたしが行こうか?」
「お母さんは論外だから」
石橋を叩きすぎて壊すタイプのムギちゃんだけど、ママさんの提案だけは即答で断った。ママさんはなんで? という顔をしたものの、映画のパンフレットを広げたまま後ろを振り返った。
「それじゃ、パパに連れていってもらえば? ていうかもう、パパしか残ってないじゃない」
ママさんの声に反応して、パパさんが扉の陰から少しだけ顔を出す。ものすごく申し訳なさそうな顔をしていて、なぜかそれがおかしかった。
「……そうね、お父さんは男の人だし」
パパさんが『どっちでもいける』ことを知らないムギちゃんは、それで納得したようだ。パパさんとしては複雑な心境だろうけれど。
――私はもう少し考えてから、行動しようと思う。ムギちゃんはやがて、そう宣言した。
「相手が結婚してたのもショックだったけど、それを隠されていたのも嫌だった。けれどやっぱり、嫌いにはなりきれないし……」
パンフレットを見ながらもムギちゃんの言葉を聴いていたママさんは、すっと言葉をはさんだ。
「ママはいつだって、自分が既婚者だってことを前もって相手に告げてるから、そこら辺は問題ないわね」
「そういう問題じゃないから。不倫は不倫だから」
ものすごく嫌なものを見る目で、ムギちゃんはママさんの事を見た。しかしいまだにパンフレットに目を通しているママさんは、それに気付かなかったようだ。映画の写真に映っている俳優を見ながら、本当にこの主役は最高だったわとか何とか言っている。
「えーっと……ひとつ言いかな」
扉の陰で事の成り行きを見守っていたはずのパパさんが、おずおずとリビングにやってきた。三人の視線が、パパさんに注目する。パパさんは「本当に申し訳ないんだけど」という前置きして、ハの字の眉毛が目立つ、つまりは本当に申し訳なさそうな顔で言った。
「僕、ベルを病院に連れていった事がないから、病院の場所知らないんだよね。今度の病院の時、紡がナビゲートしてくれると助かるんだけどな」
「あ……」
そういえばそうだ。パパさんはぼくの病院についてきた試しがない。おまけに彼は極度の方向音痴で、カーナビの指示に従っていても道に迷うのだ。一度だけパパさんの車に乗った事があるけれど、片道二十分程度の道のりに一時間以上かけ、車酔いしたぼくがげろげろになったのは良ろしくない思い出だ。――うん、誰かが助手席に座ってナビゲートした方が良いに決まってる。
「……そういえば、家族旅行の時にベルを親戚の家に預けようとしたのにパパが道に迷って、ベルが吐いたことあったわね」
だからユメちゃん、余計な思い出を掘り返さなくていいから。
パパさんはお恥ずかしながらと照れ笑いし(照れるところだろうか)、だから紡にはついてきて欲しいなあ、と懇願した。
「……いいけど。じゃないとベルが可哀想だし」
ムギちゃんはあまり気乗りしない様子だったけれど、しぶしぶ引き受けた。なんだかんだ言って、ぼくの事を一番に考えてくれてるのはムギちゃんじゃないかと思う。
ママさんはパンフレットから顔をあげると、何かを思い出したように含み笑いした。
「ふふっ。パパってば、動物病院で素敵なスタッフ見つけて、素敵な不倫しちゃったりして」
「お母さん!」
「あたしは構わないわよ。そういえばあそこの受け付けの女の人、結構可愛かったんじゃない? パパにお似合いかも」
「……もう知らない! お母さんはやっぱり馬鹿!」
怒って出ていくムギちゃんは、とっくに泣きやんでいた。ユメちゃんはすでに、ごわごわへとお別れメールを打ち始めている。ムギちゃんと二股をかけられていた件については触れず、『もう飽きたからバイバイ』とだけ打つつもりらしい。
そんなユメちゃんを見ながら、
「……これにて一件落着! だったら楽なんだけどねえ」
ママさんは笑い、映画のパンフレットをぱたんと閉じた。




